『椿山課長の七日間』
映画としては、まとまっていてまあまあでした。
特に、ヤクザの組長が生まれ変わった成宮寛貴が上手で。
物語の主軸が、親子なんですが、小説でほぼ主役だった、椿山の父親の出番が、ほぼごっそり削られていたのは、凄く泣けました。
原作は、椿山よりもその父。元ヤクザの組長は、もっと父性丸出しで、とにかく、保護者としての人間が描かれるのですが、映画はそうでもありません。
映画は、椿山、里子に出された子供、ヤクザの親分の物語が、あまり深く掘り下げられずにさっくり進むのですが、基本出てくる人々がいい人たちなので、原作にありがちな、何故こうもカラっと描かれるのだろうという、ドロドロさ加減(人殺しもある話なので)がないのが、逆に物足りないかもしれません。
原作は、正直あまり救われる話ではありません。結果として、生きている人はそれぞれ得るものがあるのかもしれませんが、死んだ人はやはり死んだ人。嬉しい思いはあるけれど、それでも、生きているうちにその喜びを味わうことができた人々とは違う。
最後、やりきったという思いの比重が、原作よりも映画のほうが満足度が高いと思います。見ようによっては幸せではなく、誰が見ても幸せ、という図式というか。
個人的には椿山課長の云々よりも、祖父の生き様に焦点を当てて欲しかったなあ、と。
そうなると、精神年齢も実年齢もえっらい高い映画になってしまいますが、それだからこそ、少年と少女の純粋さ、それとは違う、年経た人間の純粋さが比べられていいというか。
映画は素直に泣ける映画。
小説は、現実としてしみる物語でした。
『シービスケット』
クリス・クーパーと、ウィリアム・H・メイシーが出ているという二大祭りだったのですが、凄く退屈な映画でした。
二時間以上もだらだらと、同じ感動と同じテーマを延々見せられた感じです。後半は正直まともに画面を見ていませんでした。
テーマとしては、恐慌の時代、希望を失った人々が、駄馬と呼ばれていたシービスケットという競走馬の活躍、怪我、そしてカムバックを見て勇気をもらうというような、わかりやすい感動物語なんですが、そのシービスケットが出てくるまで、三十分かかるってどういうことだよ。普通の映画の四分の一、『グットナイト&グットラック』だったら三分の一終わってるよ。
多分描きたいのはシービスケットではなく、それを取り巻く人々の成り立ちや、生き方なんでしょうけど、それにしたってとっかかりまでが長すぎるでしょう。しかも、バックボーンを描くために、登場人物の幼少から、青年(現在)まで写してしまうので、画面が変わったと思ったら一年後とか、別の登場人物でそれぞれ、ガンガンやります。
もう誰が誰で、何処で何をしていて、結局どうなったのかも見ているこっちは完全に把握できません。
しかもその「過去」が現代で見事に生かされているかというと、そんなことはないし。
前述しましたが、基本は「カムバック物」なので、いわゆる敗残者―人生において息子を失ったり、両親に捨てられたり、ハンデを抱えていたり、という人々がシービスケットとかかわり、その勝利する姿に興奮する、というのがメインです。
それはそれで別にかまわないのですが、それを、二度も三度も同じように映画の中で展開されてもかったるいだけです。
シービスケットそのものが、言い値で売られてろくな成績を出せずに射殺される寸前で、金持ちに引き取られるんですから、その馬のカムバックはそれだけで十分です。
騎手も同じく、恐慌で食うや食わずの暮らしを味わい、自堕落な生活を送っていたが、シーバックに騎乗できるようになった、これで十分。
オーナーも息子を失ったが、新しい伴侶を得て、息子のような騎手を庇護し、見捨てられかけていたシービスケットを養う、というこれだけで十分なのです。
それなのに、いざ馬が怪我しただの、騎手が怪我しただのを、後半でやられたところで、感動の質は同じなわけですから、見ていて面白くもなんともないのです。だって、「再起」がテーマでそれだけしか描かれていないのですから、前半でとっくに味わってるそんな感動。
期待しすぎたかな、という感じはありましたが、個人的には感動も感涙もない映画でした。
だらだらと、逆にそれぞれのバックボーンを描きすぎて、逆に感動が押し付けがましかったのかもしれません。
ゆえにその中で、バックボーンが一切語られないクリス・クーパーはいい役だったといって良いのか、別にいてもいなくても良かったんじゃと言うべきか。
実際、オーナーが堕ちかけていた騎手を拾い、そして同じような境遇の馬を拾う、というだけでも流れとしては十分な気がするけどなあ。
競馬シーンもどうなんだろう。別にかっこ悪いとは思いませんでしたが、特筆して美しいとも思いませんでした。
レースしながら、だらだら騎手同士や馬同士で話し合って許されるのは、二次元だけだろう。
その瞬間、完全に時が止まる二次元だからこそ、「会話」は許されるんだぜ。
決めるところで、たった一言だけ見事に決める。それが、レースという緊迫した場面で似合う演出なんじゃないかと思いました。
映画としては、まとまっていてまあまあでした。
特に、ヤクザの組長が生まれ変わった成宮寛貴が上手で。
物語の主軸が、親子なんですが、小説でほぼ主役だった、椿山の父親の出番が、ほぼごっそり削られていたのは、凄く泣けました。
原作は、椿山よりもその父。元ヤクザの組長は、もっと父性丸出しで、とにかく、保護者としての人間が描かれるのですが、映画はそうでもありません。
映画は、椿山、里子に出された子供、ヤクザの親分の物語が、あまり深く掘り下げられずにさっくり進むのですが、基本出てくる人々がいい人たちなので、原作にありがちな、何故こうもカラっと描かれるのだろうという、ドロドロさ加減(人殺しもある話なので)がないのが、逆に物足りないかもしれません。
原作は、正直あまり救われる話ではありません。結果として、生きている人はそれぞれ得るものがあるのかもしれませんが、死んだ人はやはり死んだ人。嬉しい思いはあるけれど、それでも、生きているうちにその喜びを味わうことができた人々とは違う。
最後、やりきったという思いの比重が、原作よりも映画のほうが満足度が高いと思います。見ようによっては幸せではなく、誰が見ても幸せ、という図式というか。
個人的には椿山課長の云々よりも、祖父の生き様に焦点を当てて欲しかったなあ、と。
そうなると、精神年齢も実年齢もえっらい高い映画になってしまいますが、それだからこそ、少年と少女の純粋さ、それとは違う、年経た人間の純粋さが比べられていいというか。
映画は素直に泣ける映画。
小説は、現実としてしみる物語でした。
『シービスケット』
クリス・クーパーと、ウィリアム・H・メイシーが出ているという二大祭りだったのですが、凄く退屈な映画でした。
二時間以上もだらだらと、同じ感動と同じテーマを延々見せられた感じです。後半は正直まともに画面を見ていませんでした。
テーマとしては、恐慌の時代、希望を失った人々が、駄馬と呼ばれていたシービスケットという競走馬の活躍、怪我、そしてカムバックを見て勇気をもらうというような、わかりやすい感動物語なんですが、そのシービスケットが出てくるまで、三十分かかるってどういうことだよ。普通の映画の四分の一、『グットナイト&グットラック』だったら三分の一終わってるよ。
多分描きたいのはシービスケットではなく、それを取り巻く人々の成り立ちや、生き方なんでしょうけど、それにしたってとっかかりまでが長すぎるでしょう。しかも、バックボーンを描くために、登場人物の幼少から、青年(現在)まで写してしまうので、画面が変わったと思ったら一年後とか、別の登場人物でそれぞれ、ガンガンやります。
もう誰が誰で、何処で何をしていて、結局どうなったのかも見ているこっちは完全に把握できません。
しかもその「過去」が現代で見事に生かされているかというと、そんなことはないし。
前述しましたが、基本は「カムバック物」なので、いわゆる敗残者―人生において息子を失ったり、両親に捨てられたり、ハンデを抱えていたり、という人々がシービスケットとかかわり、その勝利する姿に興奮する、というのがメインです。
それはそれで別にかまわないのですが、それを、二度も三度も同じように映画の中で展開されてもかったるいだけです。
シービスケットそのものが、言い値で売られてろくな成績を出せずに射殺される寸前で、金持ちに引き取られるんですから、その馬のカムバックはそれだけで十分です。
騎手も同じく、恐慌で食うや食わずの暮らしを味わい、自堕落な生活を送っていたが、シーバックに騎乗できるようになった、これで十分。
オーナーも息子を失ったが、新しい伴侶を得て、息子のような騎手を庇護し、見捨てられかけていたシービスケットを養う、というこれだけで十分なのです。
それなのに、いざ馬が怪我しただの、騎手が怪我しただのを、後半でやられたところで、感動の質は同じなわけですから、見ていて面白くもなんともないのです。だって、「再起」がテーマでそれだけしか描かれていないのですから、前半でとっくに味わってるそんな感動。
期待しすぎたかな、という感じはありましたが、個人的には感動も感涙もない映画でした。
だらだらと、逆にそれぞれのバックボーンを描きすぎて、逆に感動が押し付けがましかったのかもしれません。
ゆえにその中で、バックボーンが一切語られないクリス・クーパーはいい役だったといって良いのか、別にいてもいなくても良かったんじゃと言うべきか。
実際、オーナーが堕ちかけていた騎手を拾い、そして同じような境遇の馬を拾う、というだけでも流れとしては十分な気がするけどなあ。
競馬シーンもどうなんだろう。別にかっこ悪いとは思いませんでしたが、特筆して美しいとも思いませんでした。
レースしながら、だらだら騎手同士や馬同士で話し合って許されるのは、二次元だけだろう。
その瞬間、完全に時が止まる二次元だからこそ、「会話」は許されるんだぜ。
決めるところで、たった一言だけ見事に決める。それが、レースという緊迫した場面で似合う演出なんじゃないかと思いました。
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『チェンジリング』
現在放映中ですし、非常にネタバレ色が強いので、改めて警告します。
ネタバレしてもしなくても、この作品のテーマは揺るがないと思いますが、自己責任にて閲覧ください。特に反転もしません。
まさに、凶悪でした。巨悪ではなく、最も卑劣でまがまがしい犯罪。
CFだと、行方不明になった子供。帰ってきた時は別人だった。その謎とは、みたいな表現の仕方ですが。全然違います。
これは、ミステリーでもなければ、サスペンスでもありません。
行方不明になった子供と、戻ってきた息子は、何の関係もありません。
これは、謎ではなく、警察側のただのミス隠しなのです。
子供が行方不明になった。
それらしき子供が見つかった。
引き合わせたら、違う人物だった。
その失態を隠すために、警察は、母親を問い詰め、さいなめ、侮辱し、人格を否定し、精神病院に送り込む。
恐ろしいことに、そういう話なのです。
反吐が出るほど、どうにもならない話なのです。
実際、行方不明になった少年が、巻き込まれてしまった事件そのものは、ちゃんと『事件』として片付くのですが、だからといって、息子は勿論帰ってこないし、決着だって、
「もう、この事件はこれで終わりにしたいのだ。生きているとなれば、また探さなければならない。だから、死んでいるのならばそれでいいだろう。それで、この事件は終わりだ」
と、警察のトップがぬけぬけと言ってしまうんですよ。
これはもう、胸糞が悪いどころの話ではありません。
息子が行方不明になった。当然、母親は狼狽します。正気を保てというのも無理な話でしょう。ですが、明らかに違うと母親は連れてこられた子供を見て思い、学校の教師も宣言し、歯医者までもが歯の特徴という確固たる証拠を見つけているのに、それなのに、警察は母親の言うことを、嘘だという。
「貴方はそうやって警察を馬鹿にして、楽しいのですか。捜査の邪魔をしたいのですか」
実際、母親一人で息子を探し出すことはできません。
どうあがいても、警察に頼らざるをえないのです。
その警察が信用ならない。信用ならないのはわかっている。だが、頭を下げるしかない。
「あの子は息子ではありません。探してください」
それに対する答えが、「精一杯やっていますが見つけられません」なら、まだましです。
だがもう、息子は見つかった。捜査はしない。
そう断じている警察に、一番不信感を抱くのは母親なのに、それでも涙を流して懇願するしかない。「お願いです」と。
母親が違う、と訴える時の警察の受け答えも絶妙です。
「貴方は混乱している」
「そんな言い方は子供の自尊心を傷つける」
「貴方は子供がいない間自由な生活を営んでいた。だから、帰ってきた途端邪魔になったのだろう」
「貴方は、母親としての責務を放棄し、帰ってきた息子に悪影響を与えている。子供と引き離す必要がある」
これですよ。
これ、本気で言ってるんですよ。
仮にも法の番人が、自分も家庭を持って子供もいるような年齢の男が、そう言ってるんですよ。
母親が違えば、医者まで持ち出して、柱の傷を指して身長が違うと訴える母親に「背骨が縮んだ。医学的にはよくあること」って言うんですよ。
信じられません。もう、あまりに腐っていて言葉も出ません。
精神病院に無理やり押し込められた後、出される書類は「息子が別人ではないと認める」というものなんですよ。それにサインをすればすぐに出られると。サインをしないのであれば、貴方はおかしいと断ぜられる。
手足もぎ取られて、意思まで陵辱される勢いです。
結果、「事件」に関わった人物が罪を告白し、結果としてその犯人は捕まり、刑に処されます。
だが、この事件で最も醜悪なのは、やはり警察でしょう。
この映画は、ちゃんと警察だけが悪いのではないという描き方をしているので、実際に犯罪を犯した犯人も、しっかりと報いを受けます。それこそ、法の裁きを。
犯人ですら法の裁きを受けるのに、肝心の警察が法の裁きを受けるのが、あまりに遅すぎた。
「問題は、その間に、助けられたかもしれない少年が死んだということです」
もう、恐ろしい以外の何物でもない物語でした。
あまりに警察の、もはや洗脳と思える言葉運びに、自分が当事者だったら、本気で「息子かもしれない。あれだけ言うのなら息子だろう。そうだこの子は息子なのだ」と納得してしまうかもしれません。
現実的に、他人が提示してくれた証拠がなかったら、別の意味で正気を保っていられるか自信がありません。
この映画、R-12指定なんですが、実際流血シーンはありません。ただ、見えない場面で行われているであろう行為を示す音が、異常に怖いです。
私の隣は、私よりも年上であろう女性だったんですが(多分、ご家庭があるんじゃないかと)もう、そのシーンでは顔を覆って見ていられない様子でした。
最後は、事件には決着がつき、母親はあるものを手に入れます。
ですが、決してハッピーエンドではありません。
それでも彼女は、胸を張って進める道を自分で選ぶことができた。
陰惨な映画でした。
ちょっとお勧めするのはどうかな、と思いますが、音楽や衣装、メイク含めて非常に良い映画でした。
特に、OPやEDで使用されるピアノ曲が静かな調べで凄く良かったです。
アンジェリーナ・ジョリーは母親役を熱演。正直、メイクがその時代のメイクなので、言われなきゃわからなかった。
彼女に味方する、ジョン・マルコビッチも好演。弁護士役の人も恰幅が良くて、声に特徴があってかっこよかった。
刑事役の、マイケル・ケリーもいかにもたたき上げの刑事で、熱血ではなく、当たり前のことを当たり前に調査する姿勢が、凄く好印象でした。
敵役である、ジェフリー・ドノヴァンは顔だけ見ればすんごくかっこいいんだけど、もう、なんか、出てくるたびに殴りたい衝動をこらえるのを必死でした。
最後、事件に巻き込まれた「息子」が戻ってきます。
五年も何故黙っていたのかと問われ、こう答えます。
「あいつが、僕や家族を殺しに来るのが怖かった。僕が逃げてしまったことで、黙っていることで、他の誰かが殺されてしまったのかもしれないと思うと、怖くて言い出せなかった」
こう、子供に言わせてしまう犯罪が、実際にあったのかと思うともう、気分が底辺まで滅入る………。
クリント・イーストウッドは本当に、役者としても監督としても、完全完璧に成功しましたね。もう80歳だっていうのに。凄い話です。
現在放映中ですし、非常にネタバレ色が強いので、改めて警告します。
ネタバレしてもしなくても、この作品のテーマは揺るがないと思いますが、自己責任にて閲覧ください。特に反転もしません。
まさに、凶悪でした。巨悪ではなく、最も卑劣でまがまがしい犯罪。
CFだと、行方不明になった子供。帰ってきた時は別人だった。その謎とは、みたいな表現の仕方ですが。全然違います。
これは、ミステリーでもなければ、サスペンスでもありません。
行方不明になった子供と、戻ってきた息子は、何の関係もありません。
これは、謎ではなく、警察側のただのミス隠しなのです。
子供が行方不明になった。
それらしき子供が見つかった。
引き合わせたら、違う人物だった。
その失態を隠すために、警察は、母親を問い詰め、さいなめ、侮辱し、人格を否定し、精神病院に送り込む。
恐ろしいことに、そういう話なのです。
反吐が出るほど、どうにもならない話なのです。
実際、行方不明になった少年が、巻き込まれてしまった事件そのものは、ちゃんと『事件』として片付くのですが、だからといって、息子は勿論帰ってこないし、決着だって、
「もう、この事件はこれで終わりにしたいのだ。生きているとなれば、また探さなければならない。だから、死んでいるのならばそれでいいだろう。それで、この事件は終わりだ」
と、警察のトップがぬけぬけと言ってしまうんですよ。
これはもう、胸糞が悪いどころの話ではありません。
息子が行方不明になった。当然、母親は狼狽します。正気を保てというのも無理な話でしょう。ですが、明らかに違うと母親は連れてこられた子供を見て思い、学校の教師も宣言し、歯医者までもが歯の特徴という確固たる証拠を見つけているのに、それなのに、警察は母親の言うことを、嘘だという。
「貴方はそうやって警察を馬鹿にして、楽しいのですか。捜査の邪魔をしたいのですか」
実際、母親一人で息子を探し出すことはできません。
どうあがいても、警察に頼らざるをえないのです。
その警察が信用ならない。信用ならないのはわかっている。だが、頭を下げるしかない。
「あの子は息子ではありません。探してください」
それに対する答えが、「精一杯やっていますが見つけられません」なら、まだましです。
だがもう、息子は見つかった。捜査はしない。
そう断じている警察に、一番不信感を抱くのは母親なのに、それでも涙を流して懇願するしかない。「お願いです」と。
母親が違う、と訴える時の警察の受け答えも絶妙です。
「貴方は混乱している」
「そんな言い方は子供の自尊心を傷つける」
「貴方は子供がいない間自由な生活を営んでいた。だから、帰ってきた途端邪魔になったのだろう」
「貴方は、母親としての責務を放棄し、帰ってきた息子に悪影響を与えている。子供と引き離す必要がある」
これですよ。
これ、本気で言ってるんですよ。
仮にも法の番人が、自分も家庭を持って子供もいるような年齢の男が、そう言ってるんですよ。
母親が違えば、医者まで持ち出して、柱の傷を指して身長が違うと訴える母親に「背骨が縮んだ。医学的にはよくあること」って言うんですよ。
信じられません。もう、あまりに腐っていて言葉も出ません。
精神病院に無理やり押し込められた後、出される書類は「息子が別人ではないと認める」というものなんですよ。それにサインをすればすぐに出られると。サインをしないのであれば、貴方はおかしいと断ぜられる。
手足もぎ取られて、意思まで陵辱される勢いです。
結果、「事件」に関わった人物が罪を告白し、結果としてその犯人は捕まり、刑に処されます。
だが、この事件で最も醜悪なのは、やはり警察でしょう。
この映画は、ちゃんと警察だけが悪いのではないという描き方をしているので、実際に犯罪を犯した犯人も、しっかりと報いを受けます。それこそ、法の裁きを。
犯人ですら法の裁きを受けるのに、肝心の警察が法の裁きを受けるのが、あまりに遅すぎた。
「問題は、その間に、助けられたかもしれない少年が死んだということです」
もう、恐ろしい以外の何物でもない物語でした。
あまりに警察の、もはや洗脳と思える言葉運びに、自分が当事者だったら、本気で「息子かもしれない。あれだけ言うのなら息子だろう。そうだこの子は息子なのだ」と納得してしまうかもしれません。
現実的に、他人が提示してくれた証拠がなかったら、別の意味で正気を保っていられるか自信がありません。
この映画、R-12指定なんですが、実際流血シーンはありません。ただ、見えない場面で行われているであろう行為を示す音が、異常に怖いです。
私の隣は、私よりも年上であろう女性だったんですが(多分、ご家庭があるんじゃないかと)もう、そのシーンでは顔を覆って見ていられない様子でした。
最後は、事件には決着がつき、母親はあるものを手に入れます。
ですが、決してハッピーエンドではありません。
それでも彼女は、胸を張って進める道を自分で選ぶことができた。
陰惨な映画でした。
ちょっとお勧めするのはどうかな、と思いますが、音楽や衣装、メイク含めて非常に良い映画でした。
特に、OPやEDで使用されるピアノ曲が静かな調べで凄く良かったです。
アンジェリーナ・ジョリーは母親役を熱演。正直、メイクがその時代のメイクなので、言われなきゃわからなかった。
彼女に味方する、ジョン・マルコビッチも好演。弁護士役の人も恰幅が良くて、声に特徴があってかっこよかった。
刑事役の、マイケル・ケリーもいかにもたたき上げの刑事で、熱血ではなく、当たり前のことを当たり前に調査する姿勢が、凄く好印象でした。
敵役である、ジェフリー・ドノヴァンは顔だけ見ればすんごくかっこいいんだけど、もう、なんか、出てくるたびに殴りたい衝動をこらえるのを必死でした。
最後、事件に巻き込まれた「息子」が戻ってきます。
五年も何故黙っていたのかと問われ、こう答えます。
「あいつが、僕や家族を殺しに来るのが怖かった。僕が逃げてしまったことで、黙っていることで、他の誰かが殺されてしまったのかもしれないと思うと、怖くて言い出せなかった」
こう、子供に言わせてしまう犯罪が、実際にあったのかと思うともう、気分が底辺まで滅入る………。
クリント・イーストウッドは本当に、役者としても監督としても、完全完璧に成功しましたね。もう80歳だっていうのに。凄い話です。
『リンカーン』の、『芸人 その時歴史が動いた』に、真剣に感動して泣いた私は、もう涙腺が赤いちゃんちゃんこなのでしょうか。もう駄目だ。
って、公式サイトがまるで更新されていないので、見て確かめることもできないのですが、要するに、出川哲朗と松村邦洋の友情ものでした。泣ける。
『複々製に進路をとれ 粟津潔60年の軌跡』
川崎市民ミュージアムで開催されている展覧会です。
ちょっとした縁があったのですが、私は全く存じ上げておらず、知り合いに「粟津潔って知ってる?」と聞いたところ、「アートを志している人で知らない人はまずいない。地方じゃなく、都心で個展をやっても客が入る人」と断言されて、仰天。
そうか、というわけではないのですが、ぐずぐずしていると開催が終わってしまうので、慌てて見に行きました。
実は私、昔この辺に住んでいたこともあって………死ぬほど昔ですが(遠い目)地の利に関してはばっちりです。
職場の同僚と見に行ったのですが、あまりの方向音痴さに仰天しつつ、無事たどり着きました。
せっかくなので、朝一に見に行ったのですが、人っ子一人いなかった。
そりゃ、平日の朝一に来る人なんていないだろうけどさ………。
おかげで、全く誰にも邪魔されることなく閲覧できました。室内に響く私の靴音が大きい(苦笑)。
すんごく良かったです。
もう八十歳になる人だから、年表も凄くて。 大体初めて賞をもらったのは私が生まれる前ですから。
戦争を体験して、学生運動があって、キャバレーの壁を書いて生活していたとか、まるでドラマのようでした。
インタビュー映像もあって(多分NHKかなんか)それを見ると、あまり「俺が俺が」という我が強い感じじゃないのです。
でも作品は、一撃の印象が強いものが多い。色使いとか。
穏やかで安らぎのある絵、という感じではない。
映像から受ける印象を一言で言うなれば、「モノマネのムツゴロウさん」でした。
まあ、インタビューを受けているのが七十歳越えですから、仕方がないんですけど。
相手の質問に「ああ~(そうだったっけ)」と、ぼんやりした返事をしたりとか、よくしゃべる普通のおじいさんでした。
覚えていない、っていうのも実際ありそうだし、それは別に自分にとって特別なことじゃなかった(大したことではない、という意味ではない)と言いたげに、偉業について説明する様は、やっぱり天才肌ならではですね。
ただ言っていることはやっぱりカッコよくて、二回立て続けに入選した後、その賞の審査員になっちゃったら(基本仕事は選ばない。なんでもやる)
「日本中から来る作品を一度に見られるなんてラッキー」
くらいのことを言っちゃえるわけですよ。
指導する立場でもあるんだけど、自分は当然自己表現をするアーティストだから、さまざまな作品に触れられるのが嬉しい、って素直に言っちゃうのがまたかっこいい。
他にも印象深かったのが、これ、芸術家と呼ばれる人がよく使う言葉なんですが、何事も、観察しろと。
ただ、物事を見るのではなく、様々なものを見て、触れて、そして自分で観察しなければならない。
そう、はっきり言っていました。
つまらないものなどない。何事も楽しかったし、興味のあることをやってきたから、と断言してしまえるのが、彼の凄さなのでしょう。
この世にあるもの全てを、自分の作品として昇華できてしまうわけですよ。凄すぎる。
最後、一問一答があるんですが、これがまあ笑えるくらいのやり取りで。
「アーティストにならなかったらどうなっていましたか」「わからないなあ」
「作品を作るうえで大変だったのは」「大変だと思ったことはないなあ」
これですよ。
これが天才じゃなくてなんなのだ。
「これからアーティストを目指す人に一言」では、
「ただ学校に通って、成功するなんて時代はもう終わった。何事もそれを一生のこととして取り組まねば意味がない」
と、非常に当たり前かつ、重い発言をされておりましたが。
展示も、モダンで目を見張るようでした。
賞を取ったポスター『海を返せ』なんて、1955年の作品ですよ? 生まれてないって私ですら。それだって全く古臭くない。
元々映画がお好きだったらしく、映画のポスターもいっぱいあって、ブックデザインがあれば、政治的なポスターもあり。自分で創刊したフィルムブックもあり、動画もあり、映画美術もあり、と興味があるものは何でもやるという、雑食性天才の表現はどれも凄く良かったです。
個人的にお気に入りを羅列。
リンク先は全て公式サイトです。
野盗、風の中を走る
Contemporary Print Exhibition Kiyoshi Awazu
BEYOND WAR '86
砂の女 -B
特に、『グラフィズム』は最高でした。これ、凄く大きい作品で壁にデカデカと飾ってあったんですが(他に表現方法はないのか)画面は文字だか記号だかでひたすら真っ黒。そこに、白地で英語やら日本語やらがちょぼちょぼと書いてある、という記号の組み合わせみたいな作品でしたが、ものすんごくかっこよかったです。何て言っていいのかわかりませんが、とにかく良かったんだよ!(上手い表現なんてわかるかよ)
この作品だって1977年とかですよ。30年以上前なんですよ。もうありえないぜなんだよこの才能!
市民ミュージアムなので800円で見られますし、ネットクーポンで100円引きもあるし、何より、もうすぐ終わるので人がいなくてゆっくり見られるので、皆様機会がありましたらぜひ。
方向音痴じゃなければ、最寄り駅から徒歩圏内です。
あー面白かったなー………。
って、公式サイトがまるで更新されていないので、見て確かめることもできないのですが、要するに、出川哲朗と松村邦洋の友情ものでした。泣ける。
『複々製に進路をとれ 粟津潔60年の軌跡』
川崎市民ミュージアムで開催されている展覧会です。
ちょっとした縁があったのですが、私は全く存じ上げておらず、知り合いに「粟津潔って知ってる?」と聞いたところ、「アートを志している人で知らない人はまずいない。地方じゃなく、都心で個展をやっても客が入る人」と断言されて、仰天。
そうか、というわけではないのですが、ぐずぐずしていると開催が終わってしまうので、慌てて見に行きました。
実は私、昔この辺に住んでいたこともあって………死ぬほど昔ですが(遠い目)地の利に関してはばっちりです。
職場の同僚と見に行ったのですが、あまりの方向音痴さに仰天しつつ、無事たどり着きました。
せっかくなので、朝一に見に行ったのですが、人っ子一人いなかった。
そりゃ、平日の朝一に来る人なんていないだろうけどさ………。
おかげで、全く誰にも邪魔されることなく閲覧できました。室内に響く私の靴音が大きい(苦笑)。
すんごく良かったです。
もう八十歳になる人だから、年表も凄くて。 大体初めて賞をもらったのは私が生まれる前ですから。
戦争を体験して、学生運動があって、キャバレーの壁を書いて生活していたとか、まるでドラマのようでした。
インタビュー映像もあって(多分NHKかなんか)それを見ると、あまり「俺が俺が」という我が強い感じじゃないのです。
でも作品は、一撃の印象が強いものが多い。色使いとか。
穏やかで安らぎのある絵、という感じではない。
映像から受ける印象を一言で言うなれば、「モノマネのムツゴロウさん」でした。
まあ、インタビューを受けているのが七十歳越えですから、仕方がないんですけど。
相手の質問に「ああ~(そうだったっけ)」と、ぼんやりした返事をしたりとか、よくしゃべる普通のおじいさんでした。
覚えていない、っていうのも実際ありそうだし、それは別に自分にとって特別なことじゃなかった(大したことではない、という意味ではない)と言いたげに、偉業について説明する様は、やっぱり天才肌ならではですね。
ただ言っていることはやっぱりカッコよくて、二回立て続けに入選した後、その賞の審査員になっちゃったら(基本仕事は選ばない。なんでもやる)
「日本中から来る作品を一度に見られるなんてラッキー」
くらいのことを言っちゃえるわけですよ。
指導する立場でもあるんだけど、自分は当然自己表現をするアーティストだから、さまざまな作品に触れられるのが嬉しい、って素直に言っちゃうのがまたかっこいい。
他にも印象深かったのが、これ、芸術家と呼ばれる人がよく使う言葉なんですが、何事も、観察しろと。
ただ、物事を見るのではなく、様々なものを見て、触れて、そして自分で観察しなければならない。
そう、はっきり言っていました。
つまらないものなどない。何事も楽しかったし、興味のあることをやってきたから、と断言してしまえるのが、彼の凄さなのでしょう。
この世にあるもの全てを、自分の作品として昇華できてしまうわけですよ。凄すぎる。
最後、一問一答があるんですが、これがまあ笑えるくらいのやり取りで。
「アーティストにならなかったらどうなっていましたか」「わからないなあ」
「作品を作るうえで大変だったのは」「大変だと思ったことはないなあ」
これですよ。
これが天才じゃなくてなんなのだ。
「これからアーティストを目指す人に一言」では、
「ただ学校に通って、成功するなんて時代はもう終わった。何事もそれを一生のこととして取り組まねば意味がない」
と、非常に当たり前かつ、重い発言をされておりましたが。
展示も、モダンで目を見張るようでした。
賞を取ったポスター『海を返せ』なんて、1955年の作品ですよ? 生まれてないって私ですら。それだって全く古臭くない。
元々映画がお好きだったらしく、映画のポスターもいっぱいあって、ブックデザインがあれば、政治的なポスターもあり。自分で創刊したフィルムブックもあり、動画もあり、映画美術もあり、と興味があるものは何でもやるという、雑食性天才の表現はどれも凄く良かったです。
個人的にお気に入りを羅列。
リンク先は全て公式サイトです。
野盗、風の中を走る
Contemporary Print Exhibition Kiyoshi Awazu
BEYOND WAR '86
砂の女 -B
特に、『グラフィズム』は最高でした。これ、凄く大きい作品で壁にデカデカと飾ってあったんですが(他に表現方法はないのか)画面は文字だか記号だかでひたすら真っ黒。そこに、白地で英語やら日本語やらがちょぼちょぼと書いてある、という記号の組み合わせみたいな作品でしたが、ものすんごくかっこよかったです。何て言っていいのかわかりませんが、とにかく良かったんだよ!(上手い表現なんてわかるかよ)
この作品だって1977年とかですよ。30年以上前なんですよ。もうありえないぜなんだよこの才能!
市民ミュージアムなので800円で見られますし、ネットクーポンで100円引きもあるし、何より、もうすぐ終わるので人がいなくてゆっくり見られるので、皆様機会がありましたらぜひ。
方向音痴じゃなければ、最寄り駅から徒歩圏内です。
あー面白かったなー………。
いよいよ次巻決着が。
うーん最近どうも、この人の描く感動に感情移入できません。なんだか、何を見ても同じっていうか………。
子供が恐怖のあまり同じ言葉を繰り返していたけど、最後のロボットとなったイプシロンと触れあううちに言葉が話せるようになったとか、演出がベタすぎやしませんか。
別に、ネタが悪いとかそんなことは全然ないんですが、でも、しゃべられるようになったのはいい。だが、子供がつぶやいていたことになんの意味があるんだ。
友人とか、同士になると、感情のやり取りを見てしらける、ということはないんですが、どうもこの人、親子ものになると本当に、表現の幅が狭い感じがします。
ゆえに、物語のキモである、アトムと天馬博士の擬似親子も流せてしまうというか。
前作までのほぼ主役であるゲジヒトも、あれはちょっと親子モノというより、小さいもの対する愛着にしか見えないし。
後、何巻かで西原氏が言っておりましたが、この人、人型じゃない「ロボット」のデザインは正直イマイチだと思います。プルートゥとか、何だよあれ………。
『殿といっしょ!』
あまりに笑えなかったので、私の感性がおかしくなってしまったのかと思いました。
ごく普通の………どちらかといえば、人を選ばない時代4コマ漫画なんですが、何故か、全く笑えなかった。
笑いの感性っていうのは凄く個人差があるので、つまらないとは言えないんですけど、別に毒があるわけでもなく、エロがあるわけでもなく、シュールだというわけもない、本当に一般に受け入れやすいギャグ漫画のはずなんですけど………。
『魁! クロマティ高校』
アニメがわりと面白かったので、(最終的なお気に入りは、前田とマスク・ド・竹之内に決まりました)漫画を大人買いしてみたのですが、これも、まあ、普通かなあ。
アニメが漫画の前期からチョイスしました、というのではなく、わりとまんべんなく選んでいるのがちょっと意外でした。
こっちの漫画のほうが、明らかに人を選ぶシュールさがあると思うんですが、まだ笑えた。
でも、声の威力は偉大ですね。
メカ沢君とか、メカ沢弟とかは、明らかにアニメのほうが面白いし。
数ある何のつながりもない単発キャラクターが出てくる中で、渋い医者とサトウ電器を選んだアニメスタッフのチョイスに敬意を表したいと思います。
『帯をギュっとね!』
一世を風靡した、青春こぎれいな柔道漫画。
連載当時、読んだことがあるようなないような、くらいの知識でしたがこれもいい機会なので全巻購入して読んでみました。
まあ、これも思ったよりは………普通………。
絵がきれいなのは凄くとっつきやすいんですが、あまりにもきれいなので、逆に柔道のシーンの迫力にかけるというか。クロマティ高校みたいな、ペンタッチギザギザの荒々しい絵で描かれていた方が、ぱっと見の迫力はありますよね。(勿論本当に上手い方は、ペンタッチがどうのなんてレベルじゃないんですが)
実際に、漫画として動きの表現が上手いかどうかはちょっとよくわからないのですが、少なくとも、柔道の試合シーンを見てドキドキする、ということはなかったので。
練習風景とか、高校生の青春群像とか、個人的にはやっぱりその辺を楽しむ漫画なんだと思います。
正直、後半の柔道の試合とか、まともに読んでなかった。
始まりからして、段もち高校生が主人公たちなわけですから、挫折してどうのとか、地べたにはいつくばって泣き喚くとか、そういう泥臭さ一切ないんですよ。
いや、ないわけじゃないんですが、これも、情けない姿がかっこいいという感じではないので、非常にソフティケイトされているので、読んでいるこっちも、「そんなもんか」と流せてしまうんですね。画面から受ける印象がきれい過ぎるっていうか。
なんか、ゲロまで虹色みたいな。スラムダンクで、魚住が体育館裏でゲロ吐いているシーンは、感動したんだけどなあ。
まあ、そんなこんなで、ラブコメ要素や普通のコメディ語っている時のほうが楽しめました。
連載時は、ごく普通に線目の斉藤がいいとか思っていた気がするんですが、読み終わってみれば、ミッタン(三溝)可愛いよ、ミッタン。
可愛さではダントツでした。斉藤は見た目あんななだけで、結構普通の熱血野郎ですし(それの何がいけないんだ)。
杉や宮崎もいいんですけど、惜しむらくはこの二人本当に出番がない。
主人公の巧に出番が集中するのはいいとしても、杉と宮崎は酷すぎるだろうと、読んでいていつも不安になりました。日常パートのギャグ要因なのか………? 桜子とか、別所さんとかにお株を奪われてどうする。
そんな中、ミッタンは結構出番もあるし、実力もあるように描かれているので、個人的には満足でした。うーん、斉藤と別所さんみたいに、固定カップルができればよかったのにー。
気は優しくて力持ちで強面の大男、という設定は王道ですね。もっとも後半では、びびりという設定は何処かへ行ってしまったようでしたが。
私がミッタンで惚れ、一番お気に入りのシーンは、序盤での肝試しのシーンです。
クジをひいて男女ペアになって肝試しをすることになるのですが、主人公巧と、彼女近藤のカップルの番号が違っちゃうわけです。そこで、
「あ、俺四番だ。変わってやるよ」
と、さらっと自分の札を差し出して、主人公たちにカップル組ませようとする様に、惚れた。(こういうものはえてして具体的な日常描写であることが多い)
いやあ、もう本当に可愛いなあミッタン!
しかし、漫画の内容とは別に、扉絵とかにある、ウィンクとか、キョンキョンとか、チェッカーズとか、プリプリとかその手の時事ネタは、本当に恥ずかしいですね。
はっきり言って、今読むと痛い。
懐かしいなあとか、そんな生易しい気持ちにはなれませんでした。これ、きっと本編のドシリアスな場面とかよりも、何億倍も恥ずかしいよ。
ただでさえ床にダンボールに『はじめの一歩』が詰まったまま置いてあるのに、これ以上漫画が増えたらどうしよう、と思っていたのですが、そんなことにはならず、そういった意味では………まあ、一安心でした。
そろそろまた、ブックオフに取りに来てもらわにゃいかんな。
以前、鍋を焦がして私が錯乱した話をしたと思いますが、結局気にしないことにしたので、今現在、第一線で麦茶を煮出したり、米を煮たりしているのはその鍋です。
職場の同僚に、新しい鍋をいただいたのですが、結局、湯たんぽに入れるお湯を沸かすくらいで、これといって目立った活躍の場を与えていなかったのが気がかりでした(何処の監督だ)。
だから、というわけではないのですが、先日、ミネストローネを作ってみました。元々、スープ系………というと聞こえがいいですが、要するに、水っぽい料理は好きなので、一度は作ってみたかったのです。
さて、勿論作り方など知るわけもないので、ネットでレシピを検索してみます。
基本、これから先二度と使わないであろう調味料は、脳から除外します。ローリエとかね。そういう、おしゃれ調味料は買っても次がない。
パセリとか、パルメザンチーズといった、仕上げにふりかけると一味違って美味しいよ的なモノも除外します。味噌を使い切らせずに腐らせた私にとって、そんなもんどうしようもありません。
次に料理するのが一年後とか、十分にありえますしね。
基本は、野菜をいためて、トマトの缶詰を加えて、コンソメで煮込む、というこれだけのようで、一安心。
ただ、ニンニクを使うというのが困ったんですが(どうやら必須らしい)、ニンニクそのものを買っても腐らせるだけなので、チューブニンニクで代用します。でも、全く平気だった。
結局選んだ野菜は、キャベツ、じゃがも、たまねぎ、しめじ、ナスです。にんじんは高かったから買わなかった。(なら、ナスを除外しろ)
後、大豆の水煮。
私、ミネストローネに豆が入っているのは知っていたのですが(私は、甘い豆シリーズは食べられませんが、しょっぱい豆シリーズは好きです(わからん))今までさすがに大豆は購入したことがなく、値段がよくわかりません。なので、職場の同僚に聞いてみることに。
私「………というわけなんだけど、大豆の水煮ってどれくらいの値段するもんなの? 高いの?」
同僚「100円で買えますよ」
本当に100円で売ってました。
へえーそんなもんなのか。まあ、豆だしな………。と思いつつ、結局、豆売り場がわからなくてスーパーでさまよったのは秘密だ。(結局、納豆やらと同じ棚にあった)(考えれば当たり前だ)
さて、材料抱えて帰宅し、とにかく野菜を刻みます。
ジャガイモをラップにくるんで、電子レンジで加熱している間に、鬼のように野菜を刻みます。うちは、独身者用の住まいなので、コンロも一つしかないし、シンクも普通の家庭で使っているまな板はまず置けないくらいの広さしかありません。
そこらじゅうに飛び散るキャベツ。
刻んだものをいれておくボールもないので、焦げた片手鍋や、どんぶりや、水切り籠に、うずたかく野菜を盛り上げます。
私「………多いんじゃないか?」
これは、鍋に最終的に入りきらないのではないだろうか。
不安になったのですが、今更刻んだものは元に戻らないので、黙々と作業を進めます。基本、調味料さえ大体あっていれば、中に入れるものの量なんて、多かろうが少なかろうが好みだと思っているので、私はこの手の材料の分量無視はよくやります。
いやー何人前とか書いてあっても、実際、どの程度の大きさの鍋で調理しているのかなんてわからないしー。
ともかく、野菜を刻み終わったので、フライパンで炒めよう………と思った時点で気づきました。
油がない。
そうだ、この前(結構前)ジャガイモとベーコンを炒めた時に使った油は、どうせ使わないだろうからって、職場の同僚にあげちゃったんだ。
目の前には、うずたかく積まれた野菜。
仕方がないので、みぞれ混じる中、原付でコンビニまで油を買いに行きましたよ。
私「そうまでして食べたくもないんだけど」
と思うと、心がくじけそうになるので、考えないことにします。
どれだけ安いスーパーで野菜買っても、コンビニで値引きされない調味料を買ったらそれで終わりだよな、と思いつつ棚を見てみると、大体同じ値段で、大きいサラダ油と、小さいオリーブオイルがありました。
普通なら、油にこだわりがなければ、大きいのを選ぶんでしょうけど、私は使い切れない(またしても)ので、オリーブオイルを選択。
いや、小さくたって野菜を炒めるだけだから、やっぱり使いきれるわけもないんですが。
震えながら帰宅し、にんにくチューブを投入し、とにかく野菜を炒めます。火が通りにくいものから炒める、ということくらいはわかりますが、どれが火が通りにくいのかはよくわかっていないので、とりあえず、生で食えと言われたらキツいだろうと思えるものから投入。
ナス、しめじ、たまねぎ、キャベツ、ベーコンを投入し、じゃかじゃか炒めていると、それなりに縮んできました(他に言いようはないのか)。
よし、これなら鍋に入りそうだ。
炒め終わった後、トマト缶とコンソメを加えます。
私が参考にさせていただいたレシピでは、水1200CCと書いてあるのですが、当然、うちに計量カップなどありません。
まず、空いたトマト缶に水を投入して、一杯加えます。くっついてたトマトも使えるし一石二鳥。
これで大体300だから、後は、空いている500のペットボトルに水を入れて二回加えればいいだろう。(私は麦茶を空いているペットボトルにつめて職場に持っていっている)
と、水を一回投入したところで、鍋が満水になりました。
私「しまった」
かき回せるのもギリくらいまでいっぱいっぱいになってしまったので、仕方がないので残り500は諦めます。
まあいいや、いずれ煮詰まってきてから水を加えても良いんだし。
後は、ジャガイモ、大豆を加えてひたすら煮込むだけです。
で、できたのがこれ。
結論から言うと、美味しかったですが、これはミネストローネなんておしゃれな料理じゃなく、野菜のトマト煮込みでした。
いいけど別に………味は良かったし。
ただ、鍋目一杯に作ってしまったので、当分これだけ食べる生活になりそうです。
あまりに一杯あるので、職場に弁当代わりに持っていったら、
「井原さんが料理を持ってきている!」ととんだ騒ぎになりました。悪かったな。
まあ、しょうゆだのダシだの昆布だのを使った和風煮込みより、とりあえずコンソメを入れておけば間違いない洋風煮込みは、失敗することもまずないと思うので、皆様もぜひ(お前にだけは料理を勧められたくない)。
ただ、鍋一杯のこれを食べ終わっても、まだ、材料の野菜はしっかり半分残っているので、腐らせる前にまた作ることになりそうです。
なんで、じゃがいも一個とか、ナス一個とか、たまねぎ一個から売ってくれないんだろう(売っていたとしても、結局「高い」とか言って、何本か袋詰めされたものを買うくせに)。
職場の同僚に、新しい鍋をいただいたのですが、結局、湯たんぽに入れるお湯を沸かすくらいで、これといって目立った活躍の場を与えていなかったのが気がかりでした(何処の監督だ)。
だから、というわけではないのですが、先日、ミネストローネを作ってみました。元々、スープ系………というと聞こえがいいですが、要するに、水っぽい料理は好きなので、一度は作ってみたかったのです。
さて、勿論作り方など知るわけもないので、ネットでレシピを検索してみます。
基本、これから先二度と使わないであろう調味料は、脳から除外します。ローリエとかね。そういう、おしゃれ調味料は買っても次がない。
パセリとか、パルメザンチーズといった、仕上げにふりかけると一味違って美味しいよ的なモノも除外します。味噌を使い切らせずに腐らせた私にとって、そんなもんどうしようもありません。
次に料理するのが一年後とか、十分にありえますしね。
基本は、野菜をいためて、トマトの缶詰を加えて、コンソメで煮込む、というこれだけのようで、一安心。
ただ、ニンニクを使うというのが困ったんですが(どうやら必須らしい)、ニンニクそのものを買っても腐らせるだけなので、チューブニンニクで代用します。でも、全く平気だった。
結局選んだ野菜は、キャベツ、じゃがも、たまねぎ、しめじ、ナスです。にんじんは高かったから買わなかった。(なら、ナスを除外しろ)
後、大豆の水煮。
私、ミネストローネに豆が入っているのは知っていたのですが(私は、甘い豆シリーズは食べられませんが、しょっぱい豆シリーズは好きです(わからん))今までさすがに大豆は購入したことがなく、値段がよくわかりません。なので、職場の同僚に聞いてみることに。
私「………というわけなんだけど、大豆の水煮ってどれくらいの値段するもんなの? 高いの?」
同僚「100円で買えますよ」
本当に100円で売ってました。
へえーそんなもんなのか。まあ、豆だしな………。と思いつつ、結局、豆売り場がわからなくてスーパーでさまよったのは秘密だ。(結局、納豆やらと同じ棚にあった)(考えれば当たり前だ)
さて、材料抱えて帰宅し、とにかく野菜を刻みます。
ジャガイモをラップにくるんで、電子レンジで加熱している間に、鬼のように野菜を刻みます。うちは、独身者用の住まいなので、コンロも一つしかないし、シンクも普通の家庭で使っているまな板はまず置けないくらいの広さしかありません。
そこらじゅうに飛び散るキャベツ。
刻んだものをいれておくボールもないので、焦げた片手鍋や、どんぶりや、水切り籠に、うずたかく野菜を盛り上げます。
私「………多いんじゃないか?」
これは、鍋に最終的に入りきらないのではないだろうか。
不安になったのですが、今更刻んだものは元に戻らないので、黙々と作業を進めます。基本、調味料さえ大体あっていれば、中に入れるものの量なんて、多かろうが少なかろうが好みだと思っているので、私はこの手の材料の分量無視はよくやります。
いやー何人前とか書いてあっても、実際、どの程度の大きさの鍋で調理しているのかなんてわからないしー。
ともかく、野菜を刻み終わったので、フライパンで炒めよう………と思った時点で気づきました。
油がない。
そうだ、この前(結構前)ジャガイモとベーコンを炒めた時に使った油は、どうせ使わないだろうからって、職場の同僚にあげちゃったんだ。
目の前には、うずたかく積まれた野菜。
仕方がないので、みぞれ混じる中、原付でコンビニまで油を買いに行きましたよ。
私「そうまでして食べたくもないんだけど」
と思うと、心がくじけそうになるので、考えないことにします。
どれだけ安いスーパーで野菜買っても、コンビニで値引きされない調味料を買ったらそれで終わりだよな、と思いつつ棚を見てみると、大体同じ値段で、大きいサラダ油と、小さいオリーブオイルがありました。
普通なら、油にこだわりがなければ、大きいのを選ぶんでしょうけど、私は使い切れない(またしても)ので、オリーブオイルを選択。
いや、小さくたって野菜を炒めるだけだから、やっぱり使いきれるわけもないんですが。
震えながら帰宅し、にんにくチューブを投入し、とにかく野菜を炒めます。火が通りにくいものから炒める、ということくらいはわかりますが、どれが火が通りにくいのかはよくわかっていないので、とりあえず、生で食えと言われたらキツいだろうと思えるものから投入。
ナス、しめじ、たまねぎ、キャベツ、ベーコンを投入し、じゃかじゃか炒めていると、それなりに縮んできました(他に言いようはないのか)。
よし、これなら鍋に入りそうだ。
炒め終わった後、トマト缶とコンソメを加えます。
私が参考にさせていただいたレシピでは、水1200CCと書いてあるのですが、当然、うちに計量カップなどありません。
まず、空いたトマト缶に水を投入して、一杯加えます。くっついてたトマトも使えるし一石二鳥。
これで大体300だから、後は、空いている500のペットボトルに水を入れて二回加えればいいだろう。(私は麦茶を空いているペットボトルにつめて職場に持っていっている)
と、水を一回投入したところで、鍋が満水になりました。
私「しまった」
かき回せるのもギリくらいまでいっぱいっぱいになってしまったので、仕方がないので残り500は諦めます。
まあいいや、いずれ煮詰まってきてから水を加えても良いんだし。
後は、ジャガイモ、大豆を加えてひたすら煮込むだけです。
で、できたのがこれ。
![](http://sid.uh-oh.jp/hoge/img/2009_03_02.jpg)
結論から言うと、美味しかったですが、これはミネストローネなんておしゃれな料理じゃなく、野菜のトマト煮込みでした。
いいけど別に………味は良かったし。
ただ、鍋目一杯に作ってしまったので、当分これだけ食べる生活になりそうです。
あまりに一杯あるので、職場に弁当代わりに持っていったら、
「井原さんが料理を持ってきている!」ととんだ騒ぎになりました。悪かったな。
まあ、しょうゆだのダシだの昆布だのを使った和風煮込みより、とりあえずコンソメを入れておけば間違いない洋風煮込みは、失敗することもまずないと思うので、皆様もぜひ(お前にだけは料理を勧められたくない)。
ただ、鍋一杯のこれを食べ終わっても、まだ、材料の野菜はしっかり半分残っているので、腐らせる前にまた作ることになりそうです。
なんで、じゃがいも一個とか、ナス一個とか、たまねぎ一個から売ってくれないんだろう(売っていたとしても、結局「高い」とか言って、何本か袋詰めされたものを買うくせに)。