『椿山課長の七日間』
映画としては、まとまっていてまあまあでした。
特に、ヤクザの組長が生まれ変わった成宮寛貴が上手で。
物語の主軸が、親子なんですが、小説でほぼ主役だった、椿山の父親の出番が、ほぼごっそり削られていたのは、凄く泣けました。
原作は、椿山よりもその父。元ヤクザの組長は、もっと父性丸出しで、とにかく、保護者としての人間が描かれるのですが、映画はそうでもありません。
映画は、椿山、里子に出された子供、ヤクザの親分の物語が、あまり深く掘り下げられずにさっくり進むのですが、基本出てくる人々がいい人たちなので、原作にありがちな、何故こうもカラっと描かれるのだろうという、ドロドロさ加減(人殺しもある話なので)がないのが、逆に物足りないかもしれません。
原作は、正直あまり救われる話ではありません。結果として、生きている人はそれぞれ得るものがあるのかもしれませんが、死んだ人はやはり死んだ人。嬉しい思いはあるけれど、それでも、生きているうちにその喜びを味わうことができた人々とは違う。
最後、やりきったという思いの比重が、原作よりも映画のほうが満足度が高いと思います。見ようによっては幸せではなく、誰が見ても幸せ、という図式というか。
個人的には椿山課長の云々よりも、祖父の生き様に焦点を当てて欲しかったなあ、と。
そうなると、精神年齢も実年齢もえっらい高い映画になってしまいますが、それだからこそ、少年と少女の純粋さ、それとは違う、年経た人間の純粋さが比べられていいというか。
映画は素直に泣ける映画。
小説は、現実としてしみる物語でした。
『シービスケット』
クリス・クーパーと、ウィリアム・H・メイシーが出ているという二大祭りだったのですが、凄く退屈な映画でした。
二時間以上もだらだらと、同じ感動と同じテーマを延々見せられた感じです。後半は正直まともに画面を見ていませんでした。
テーマとしては、恐慌の時代、希望を失った人々が、駄馬と呼ばれていたシービスケットという競走馬の活躍、怪我、そしてカムバックを見て勇気をもらうというような、わかりやすい感動物語なんですが、そのシービスケットが出てくるまで、三十分かかるってどういうことだよ。普通の映画の四分の一、『グットナイト&グットラック』だったら三分の一終わってるよ。
多分描きたいのはシービスケットではなく、それを取り巻く人々の成り立ちや、生き方なんでしょうけど、それにしたってとっかかりまでが長すぎるでしょう。しかも、バックボーンを描くために、登場人物の幼少から、青年(現在)まで写してしまうので、画面が変わったと思ったら一年後とか、別の登場人物でそれぞれ、ガンガンやります。
もう誰が誰で、何処で何をしていて、結局どうなったのかも見ているこっちは完全に把握できません。
しかもその「過去」が現代で見事に生かされているかというと、そんなことはないし。
前述しましたが、基本は「カムバック物」なので、いわゆる敗残者―人生において息子を失ったり、両親に捨てられたり、ハンデを抱えていたり、という人々がシービスケットとかかわり、その勝利する姿に興奮する、というのがメインです。
それはそれで別にかまわないのですが、それを、二度も三度も同じように映画の中で展開されてもかったるいだけです。
シービスケットそのものが、言い値で売られてろくな成績を出せずに射殺される寸前で、金持ちに引き取られるんですから、その馬のカムバックはそれだけで十分です。
騎手も同じく、恐慌で食うや食わずの暮らしを味わい、自堕落な生活を送っていたが、シーバックに騎乗できるようになった、これで十分。
オーナーも息子を失ったが、新しい伴侶を得て、息子のような騎手を庇護し、見捨てられかけていたシービスケットを養う、というこれだけで十分なのです。
それなのに、いざ馬が怪我しただの、騎手が怪我しただのを、後半でやられたところで、感動の質は同じなわけですから、見ていて面白くもなんともないのです。だって、「再起」がテーマでそれだけしか描かれていないのですから、前半でとっくに味わってるそんな感動。
期待しすぎたかな、という感じはありましたが、個人的には感動も感涙もない映画でした。
だらだらと、逆にそれぞれのバックボーンを描きすぎて、逆に感動が押し付けがましかったのかもしれません。
ゆえにその中で、バックボーンが一切語られないクリス・クーパーはいい役だったといって良いのか、別にいてもいなくても良かったんじゃと言うべきか。
実際、オーナーが堕ちかけていた騎手を拾い、そして同じような境遇の馬を拾う、というだけでも流れとしては十分な気がするけどなあ。
競馬シーンもどうなんだろう。別にかっこ悪いとは思いませんでしたが、特筆して美しいとも思いませんでした。
レースしながら、だらだら騎手同士や馬同士で話し合って許されるのは、二次元だけだろう。
その瞬間、完全に時が止まる二次元だからこそ、「会話」は許されるんだぜ。
決めるところで、たった一言だけ見事に決める。それが、レースという緊迫した場面で似合う演出なんじゃないかと思いました。
映画としては、まとまっていてまあまあでした。
特に、ヤクザの組長が生まれ変わった成宮寛貴が上手で。
物語の主軸が、親子なんですが、小説でほぼ主役だった、椿山の父親の出番が、ほぼごっそり削られていたのは、凄く泣けました。
原作は、椿山よりもその父。元ヤクザの組長は、もっと父性丸出しで、とにかく、保護者としての人間が描かれるのですが、映画はそうでもありません。
映画は、椿山、里子に出された子供、ヤクザの親分の物語が、あまり深く掘り下げられずにさっくり進むのですが、基本出てくる人々がいい人たちなので、原作にありがちな、何故こうもカラっと描かれるのだろうという、ドロドロさ加減(人殺しもある話なので)がないのが、逆に物足りないかもしれません。
原作は、正直あまり救われる話ではありません。結果として、生きている人はそれぞれ得るものがあるのかもしれませんが、死んだ人はやはり死んだ人。嬉しい思いはあるけれど、それでも、生きているうちにその喜びを味わうことができた人々とは違う。
最後、やりきったという思いの比重が、原作よりも映画のほうが満足度が高いと思います。見ようによっては幸せではなく、誰が見ても幸せ、という図式というか。
個人的には椿山課長の云々よりも、祖父の生き様に焦点を当てて欲しかったなあ、と。
そうなると、精神年齢も実年齢もえっらい高い映画になってしまいますが、それだからこそ、少年と少女の純粋さ、それとは違う、年経た人間の純粋さが比べられていいというか。
映画は素直に泣ける映画。
小説は、現実としてしみる物語でした。
『シービスケット』
クリス・クーパーと、ウィリアム・H・メイシーが出ているという二大祭りだったのですが、凄く退屈な映画でした。
二時間以上もだらだらと、同じ感動と同じテーマを延々見せられた感じです。後半は正直まともに画面を見ていませんでした。
テーマとしては、恐慌の時代、希望を失った人々が、駄馬と呼ばれていたシービスケットという競走馬の活躍、怪我、そしてカムバックを見て勇気をもらうというような、わかりやすい感動物語なんですが、そのシービスケットが出てくるまで、三十分かかるってどういうことだよ。普通の映画の四分の一、『グットナイト&グットラック』だったら三分の一終わってるよ。
多分描きたいのはシービスケットではなく、それを取り巻く人々の成り立ちや、生き方なんでしょうけど、それにしたってとっかかりまでが長すぎるでしょう。しかも、バックボーンを描くために、登場人物の幼少から、青年(現在)まで写してしまうので、画面が変わったと思ったら一年後とか、別の登場人物でそれぞれ、ガンガンやります。
もう誰が誰で、何処で何をしていて、結局どうなったのかも見ているこっちは完全に把握できません。
しかもその「過去」が現代で見事に生かされているかというと、そんなことはないし。
前述しましたが、基本は「カムバック物」なので、いわゆる敗残者―人生において息子を失ったり、両親に捨てられたり、ハンデを抱えていたり、という人々がシービスケットとかかわり、その勝利する姿に興奮する、というのがメインです。
それはそれで別にかまわないのですが、それを、二度も三度も同じように映画の中で展開されてもかったるいだけです。
シービスケットそのものが、言い値で売られてろくな成績を出せずに射殺される寸前で、金持ちに引き取られるんですから、その馬のカムバックはそれだけで十分です。
騎手も同じく、恐慌で食うや食わずの暮らしを味わい、自堕落な生活を送っていたが、シーバックに騎乗できるようになった、これで十分。
オーナーも息子を失ったが、新しい伴侶を得て、息子のような騎手を庇護し、見捨てられかけていたシービスケットを養う、というこれだけで十分なのです。
それなのに、いざ馬が怪我しただの、騎手が怪我しただのを、後半でやられたところで、感動の質は同じなわけですから、見ていて面白くもなんともないのです。だって、「再起」がテーマでそれだけしか描かれていないのですから、前半でとっくに味わってるそんな感動。
期待しすぎたかな、という感じはありましたが、個人的には感動も感涙もない映画でした。
だらだらと、逆にそれぞれのバックボーンを描きすぎて、逆に感動が押し付けがましかったのかもしれません。
ゆえにその中で、バックボーンが一切語られないクリス・クーパーはいい役だったといって良いのか、別にいてもいなくても良かったんじゃと言うべきか。
実際、オーナーが堕ちかけていた騎手を拾い、そして同じような境遇の馬を拾う、というだけでも流れとしては十分な気がするけどなあ。
競馬シーンもどうなんだろう。別にかっこ悪いとは思いませんでしたが、特筆して美しいとも思いませんでした。
レースしながら、だらだら騎手同士や馬同士で話し合って許されるのは、二次元だけだろう。
その瞬間、完全に時が止まる二次元だからこそ、「会話」は許されるんだぜ。
決めるところで、たった一言だけ見事に決める。それが、レースという緊迫した場面で似合う演出なんじゃないかと思いました。
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