『容疑者Xの献身』
ちなみに私はテレビ版のガリレオは一回も見たことがありません。原作である小説も読んだことがありません。主役である福山氏と柴崎氏にも特別興味がありません。では何故見に行ったかというと、堤真一が出てるからさァ!
推理物として賛否両論と聞きましたが、個人的にはこれくらいでちょうどいいと思います。文字で読むと物足りないのかもしれませんが、実際に映像になって死体に細工したり、アリバイトリックの説明をされると、視覚に訴える部分で表現されると、強い印象が残りますし。
実際見ていて、「アレがアレではないのだな」というのはすぐわかったんですが、具体的な方法が思い浮かばず、トリックがすぐわかった、という感じではなかったです。説明されてがっかり、ということではないので、きれいにまとまっていたと思います。
テレビシリーズを一回も見たことがない私としては、完全に福山演じる湯川よりも堤演じる石神のための映画でした。というか、普通に主役。
「献身」の名に相応しい行動をする石神は、見た目冴えない高校の数学教師で、友人もおらず日々ただ無為に過ごす日々を送っているときは、猫背で本当にただのオッサンで、堤真一がこんなにブサイクに見えたのは初めてだ、というくらいだったんですが、これが、松雪泰子演じる花岡に接するとき、そして自分の目的を完璧に遂げた瞬間、びっくりするほど魅力的な顔立ちになります。
数学者として明晰な頭脳を持ち、自らの計画が完遂され、それに満足しきった石神。献身といえばいいが、結局自分勝手な愛情であることは変わらず、結果犯罪に手を染めたことは、倫理的に許されることではないけれど、彼にとってそんなことは問題ではなかった。
今まで数学しか関心のなかった男が、数学以外のことに自分の頭脳を使い、それは今までと同じように完璧だったはずなのに、そうはならなかった。
「どうして、どうして」
そう泣き叫ぶ石神の表情は、死んだような顔でも、自己陶酔したような顔でもなく、ただ人間の顔をしていた。
個人的に一方的な献身というのは、一方的な愛情であっても憎しみであっても、結局自分のためだけのものなので、石神に全部が全部感情移入できるはずもないのですが、石神という男の人間臭さがリアルで面白かったです。
あまりに花岡に懸想するので、どんな理由があるのか、ひょっとしたら体外受精かなんかで娘さんが自分の子なのか、まで邪推(苦笑)してたんですが、そんなことはなかったです。
そして、(反転)自殺しようとしていたところに、引っ越してきた花岡親子がやってきて、首に縄まで巻いていたのに、わざわざ呼び鈴に出てしまうのが、石神の捨てきれない人間くささなのでしょうな。この点から見ても、石神は数学以外に興味のない人間、という湯川の評価とは少し外れる男、ということになります。湯川は石神にとって一番近い人間だったけれど、石神と湯川は同じ人間ではなかった。だからこそ、石神は犯罪の渦中で「今自分の人生は充実している。こんなに美しいものを美しいと思える」と胸を張って言えた。それは湯川にとって理解できないものかもしれないけれど、石神にとってはそれが一番大切だったということなんでしょう。勿論これは、花岡の心中全く無視の、自己中心的な献身の中にしか存在しないわけですが。(反転終了)
いやあ、堤さんは本当に上手な役者さんですね。私はラストのこの泣き叫ぶ石神の顔があまりに男前で、ふるえがきました。
松雪さんも当然上手い。デトロイトメタルシティでアレな社長をやっていた人とは思えませんね。こんな美人な子持ちの女性がいたら、そりゃもう平常心ではいられないでしょう。
正直、石神と花岡母娘(娘さんも可愛いんだこれが。母親よりも純粋な好意で石神と接しているところが、凄く)だけいれば物語は進むようなものなので、湯川と柴崎演じる刑事(名前すら覚えていない)は、わりといてもいなくてもいいかな、と思います。
ラスト近くで湯川が警察の取調室で石神と対面するシーンも、別に要らないって言ったら要らないし。二人の友情をアピール、結局近くなれない二人
「その頭脳をもっと別の方向に」
「そう言ってくれるのはお前だけだよ」
をアピールしたかったのかもしれませんし。でもこれはあくまでガリレオの話だからなあ。だからこそ、最後は石神ではなく湯川が石神のことを思って終わるわけで。
個人的には非常に楽しめた映画でした。というか、堤さんを楽しむためだけにある映画だと思いました。
中年の恋愛にしては若干ファンタジーで、ドロドロした成分が薄いだけに、若い方にも受けるのかな、と。
ちなみに私はテレビ版のガリレオは一回も見たことがありません。原作である小説も読んだことがありません。主役である福山氏と柴崎氏にも特別興味がありません。では何故見に行ったかというと、堤真一が出てるからさァ!
推理物として賛否両論と聞きましたが、個人的にはこれくらいでちょうどいいと思います。文字で読むと物足りないのかもしれませんが、実際に映像になって死体に細工したり、アリバイトリックの説明をされると、視覚に訴える部分で表現されると、強い印象が残りますし。
実際見ていて、「アレがアレではないのだな」というのはすぐわかったんですが、具体的な方法が思い浮かばず、トリックがすぐわかった、という感じではなかったです。説明されてがっかり、ということではないので、きれいにまとまっていたと思います。
テレビシリーズを一回も見たことがない私としては、完全に福山演じる湯川よりも堤演じる石神のための映画でした。というか、普通に主役。
「献身」の名に相応しい行動をする石神は、見た目冴えない高校の数学教師で、友人もおらず日々ただ無為に過ごす日々を送っているときは、猫背で本当にただのオッサンで、堤真一がこんなにブサイクに見えたのは初めてだ、というくらいだったんですが、これが、松雪泰子演じる花岡に接するとき、そして自分の目的を完璧に遂げた瞬間、びっくりするほど魅力的な顔立ちになります。
数学者として明晰な頭脳を持ち、自らの計画が完遂され、それに満足しきった石神。献身といえばいいが、結局自分勝手な愛情であることは変わらず、結果犯罪に手を染めたことは、倫理的に許されることではないけれど、彼にとってそんなことは問題ではなかった。
今まで数学しか関心のなかった男が、数学以外のことに自分の頭脳を使い、それは今までと同じように完璧だったはずなのに、そうはならなかった。
「どうして、どうして」
そう泣き叫ぶ石神の表情は、死んだような顔でも、自己陶酔したような顔でもなく、ただ人間の顔をしていた。
個人的に一方的な献身というのは、一方的な愛情であっても憎しみであっても、結局自分のためだけのものなので、石神に全部が全部感情移入できるはずもないのですが、石神という男の人間臭さがリアルで面白かったです。
あまりに花岡に懸想するので、どんな理由があるのか、ひょっとしたら体外受精かなんかで娘さんが自分の子なのか、まで邪推(苦笑)してたんですが、そんなことはなかったです。
そして、(反転)自殺しようとしていたところに、引っ越してきた花岡親子がやってきて、首に縄まで巻いていたのに、わざわざ呼び鈴に出てしまうのが、石神の捨てきれない人間くささなのでしょうな。この点から見ても、石神は数学以外に興味のない人間、という湯川の評価とは少し外れる男、ということになります。湯川は石神にとって一番近い人間だったけれど、石神と湯川は同じ人間ではなかった。だからこそ、石神は犯罪の渦中で「今自分の人生は充実している。こんなに美しいものを美しいと思える」と胸を張って言えた。それは湯川にとって理解できないものかもしれないけれど、石神にとってはそれが一番大切だったということなんでしょう。勿論これは、花岡の心中全く無視の、自己中心的な献身の中にしか存在しないわけですが。(反転終了)
いやあ、堤さんは本当に上手な役者さんですね。私はラストのこの泣き叫ぶ石神の顔があまりに男前で、ふるえがきました。
松雪さんも当然上手い。デトロイトメタルシティでアレな社長をやっていた人とは思えませんね。こんな美人な子持ちの女性がいたら、そりゃもう平常心ではいられないでしょう。
正直、石神と花岡母娘(娘さんも可愛いんだこれが。母親よりも純粋な好意で石神と接しているところが、凄く)だけいれば物語は進むようなものなので、湯川と柴崎演じる刑事(名前すら覚えていない)は、わりといてもいなくてもいいかな、と思います。
ラスト近くで湯川が警察の取調室で石神と対面するシーンも、別に要らないって言ったら要らないし。二人の友情をアピール、結局近くなれない二人
「その頭脳をもっと別の方向に」
「そう言ってくれるのはお前だけだよ」
をアピールしたかったのかもしれませんし。でもこれはあくまでガリレオの話だからなあ。だからこそ、最後は石神ではなく湯川が石神のことを思って終わるわけで。
個人的には非常に楽しめた映画でした。というか、堤さんを楽しむためだけにある映画だと思いました。
中年の恋愛にしては若干ファンタジーで、ドロドロした成分が薄いだけに、若い方にも受けるのかな、と。
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『ラッキーナンバー7』
個人的に、『スティング』みたいなどんでん返しギャング映画を想像していたんですが、違いました。
物語の初めこそ、「間違われた男」の笑い要素があったり、マフィアのボス二人から間違えられ、借金を返すか人を殺すかの二択を迫られた男がどうするか、の謎の要素があったんですが、基本的に謎を解くための要素は、物語の序盤でどかっと出てきてしまっているので、わかる人は開始十分くらいでオチがわかってしまうと思います。
私は手探りで「ああいうオチかもしれないし、こういうオチかもしれない」と考えながら見ていたので、実際に種明かしの行動が始まるまで、確証は持てませんが、わかってみればそれ以外に考えられない、というオチでした。
それが悪いというわけではないのですが、そこに行き着くまでの物語に、爽快感を得なければいけない種明かし部分から、一気に迷走し始めるのが気持ち的に萎えました。
確かに、謎がわかるのは嬉しいんですが、それまでの展開がなかったかのように画面から死体の嵐です。
そのギャップに驚いた、というほどこの映画は、「悲惨な殺戮における感動」を前面に出しているわけではないので、なんだか死体が続々と増えるという種明かしから、逆に冷めてしまいました。
バレる、ということだけに関して言えば、その一瞬だけが過ぎ去ってしまえば、後は説明でしかないわけですから、そこに感動や、某の感情を持ち込むのは難しいと思うんですけど、それにしたって、肝心の種を明かす人間の感情があまりに描かれないので、逆に興ざめしてしまった感じです。
いわゆる、ジェノサイド的な演出をしたいのであれば、それこそラストで語れるのは、渦中の主ではなく、渦中の主のそばにずっといた人間であって欲しいと思いました。あの人物は惜しい。
サスペンスとしてハラハラする内容ではまったくありません。主人公の間違われた男そのものがハラハラしていませんので。見ている側も、ハラハラしない間に(むしろ「お前なんでそんなにハラハラしないのよ」と思うことはあっても)解説されてしまうので、起承転結すべてがわりと平坦な映画でした。
ただ、役者さんとしては、当然モーガン・フリーマンは上手いですし、ブルース・ウィリスも静かな役が似合っていましたし、スタンリー・トゥッチが出ていたのには、びっくりしました。最後キャストを見るまで全く気づかなかったよ。いやらしい感じの役だったからなあ。これはもう、一人スタンリー・トゥッチ祭りをするべきなのだろうか。
そろえた人たちとしては文句もないんですが(私は、ジョシュ・ハートネットにあまり関心がないので割愛)どうにもキャラクターとして生かしきれていないかな、という感じでした。
実際、本当の「どんでん返しサスペンス」であれば、映っている場面すべてにカギがある、カギと思わせるだけの演出があるくらいでもおかしくないと思っているので。サスペンスに必要なのは、謎とそれを凌駕するくらいの登場人物の個性じゃないとなあ。
『ブロークバックマウンテン』
極悪に体調が悪いときに届いたので、これは私にトドメをさしたがっているのだろうかツタヤがと真剣に思いました。具合の悪いときに見たい映画じゃねえー。
故・ヒース・レジャーの作品。とにかく知り合いがのめりこんでいるので、どんなもんだろうと借りてみました。私は普段、重くて暗くて辛気臭い人生哲学みたいな作品は絶対に選ばない(なんでフィクションの世界で辛い気持ちを味わう必要があるのか)ので、初めからかなり身構えた状態での鑑賞だったんですが、わりと普通でした。それほどセンセーショナルに構える必要があるとも思えません。実際、同性愛の映画というよりは、普通の恋愛映画という感じでした。
イニスとジャックは夏の間、ブロークバックマウンテンで仕事を行い、関係を持つ。その後、結婚や子供も生まれるが二人は二十年にわたり、秘密の逢瀬を重ねるのだが、というのが大体のあらすじ。
勿論私はその時代背景や、同性愛者だというだけで、リンチによって殺害されてしまう状況での恋愛、というのは実際想像もできませんが、当人達が気にするほど、周囲が気にしているのではなく、当人達が気にして(この場合、イニスが殆ど一人で他者の目を気にしているが)いるから気になる、という表現があったのが面白かったです。
まず、二人の関係のきっかけになる夏の仕事の雇い主なんぞは、自分の目で(憶測ではなく)二人の関係を見てしまっているのですが、次の夏、ジャックを雇用しないのは、あくまで「仕事をおろそかにして楽しんだせいで、俺の羊が死んだ」からなんですね。大体、その気になればこの雇い主は、いくらでもジャックとイニスを中傷できる立場にいるわけです(その時代の常識においては)。ですが、雇い主は二人は同性愛者であるということを、口外したふしは全くないし、世間の噂にもなっていない。彼にとって二人の関係性が重要なのではない、というのが、イニスのように神経質に同性愛を隠そうとする人間がいるものと、また対極をなしていて面白かったです。
イニスの奥さんも子供まで生んで離婚ですから、お気の毒としか言いようがありませんが、どうしても、子供を生んで生々しい女と、ひと夏山で出会い、恋焦がれる愛では、勝ち目は薄いなあとわりと冷静な目で見れてしまいました。これも、ようするに、亭主が他に好きな人間ができて離婚、自分と結婚したけど元の恋人に対する思いが残っていて上手くいかなかった、という話なので、恋愛としてはわりとありがちといえばありがちなテーマなわけです。
いざここで、同性愛であるということを強調すると、話の視点が違ってくるのかもしれませんが、私は割りとフラットな視線で最初から最後まで見られたので、前評判ではひっかかるかなと思っていた、このいわば、利用された形とも思える奥さんのエピソードも、さらっと流せました。
自分の欲望に忠実なジャックと違い、イニスは過去に同性愛者のリンチ殺人を目の当たりにしているだけあって、臆病な言動が多く見られますが、個人的にはイニスのほうが欲張りであって、こずるい感じがしました。同性愛者であることを、実は上手く隠せていないのは圧倒的にイニスであって、それなのに世間の目垣になるから夫婦間の関係も良好に見せたい。一緒にいたいというジャックの希望は叶えられないけど、ジャックがメキシコで他の男性と関係を持つと「次にやったら殺す」とまで嫉妬心を燃やす。お前それどっちつかずなだけに性質が悪いよ。切なさ担当というよりは、最初から最後まで乙女担当、という感じでした。
個人的には、ジャックの方がある意味オープン(同性愛主義のことではなく、己の欲望に対して)なので、逆に家族関係も仮面夫婦なりの平穏を保てていますし、ジャック以外の男の影もあるようで、かつビジネスでも成功を収めているようですから、あけすけな感じが好感度高かったです。
ジャックは他の男性と浮気をした、というよりは、同性愛者としてイニスを心から愛している。けれど、他の男も恋愛や肉体関係の対象として見られる、ということなんでしょう。イニスに関しては同性愛者というよりは、ジャックだけがイニスにとってたまたま特別だった、という感じもしますし。
音楽と、ブロークバックマウンテンの映像がとにかくきれいなので、そこに男二人が言葉少なに並んで座っている図は、非常に美しかったです。どうしてもこれが女同士だとかしましかったりしますし、男女だと生々しかったりしますが、これがいざ、その時代で禁じられている関係の二人となると、御伽噺要素も相まってか、非現実的なきれいさが出てくるのが不思議です。
結局二人の関係は、ジャックの死によって現実的には終わるんですが、この場合イニスによぎった妄想のように、リンチされたと見るか、そうでないと見るかは人それぞれということでいいんでしょうか。私は実際、リンチされたとは微塵も思わなかったんですが、結構意見としては半々のようですね。変な言い方をすれば、リンチにあうほど、ジャックの頭が悪いとは思えません。仮にも社会的にかなりの成功を収めているわけですし。イニスは逆にされそうですが。ジャックはごく普通に、タイヤのパンクを直していて事故で死んだ。呆気ないかもしれないけれど、それだけだった、という印象が強かったので、リンチされて死んだという解釈が現実だった、という感想はわりと意外でした。
その後、イニスはジャックの実家で始めての夏の山で、二人の血がついたシャツ(しかも重ねてハンガーにかかってる)を見つけ、それを持ち帰り、自分のクローゼットの中にしまって「永遠に一緒だ」みたいなことを言って終わります。
このラストは本当に、どこからどう見ても超王道な恋愛映画なんだなあ、としみじみしました。肉体は滅びても魂は永遠って、もうどれだけなのかと。
私は特別感動もしませんでしたし、涙を流したりもしませんでした。ひとえに、ごく普通の恋愛映画として見られたからかもしれません。とにかくまあ、イニスが煮え切らないんだこれが。自分の人生も、自分が他人の人生についてもたらす影響からも逃げている、という感じで。個人的には圧倒的にジャックが好きです。ただまあ、ジャックも両親が言うように口では偉そうなことを言っても、結局何一つ実行に移せなかった男でもあるわけですが。
二人は年老いていく。けれど、二人の間にある思いと、ブロークバックマウンテンの美しい景色は変わらない。
ごく普通の恋愛映画として、個人的には鑑賞しました。ただし二時間超は長すぎるなあ。
レンタルDVDの特典として、CFが入っていたんですがもうこのCFのコピーが、あまりにそれっぽくて笑えます。「僕達は永遠に離れない」とか、これそういう映画じゃな………いや、そういう映画か。
全く同じシーンを使っていても、和訳が全然違うのもびっくり。「俺はいい夫だろう」とかイニスが言うシーン、あれもう、とっくに離婚した後なんですが。
個人的に、『スティング』みたいなどんでん返しギャング映画を想像していたんですが、違いました。
物語の初めこそ、「間違われた男」の笑い要素があったり、マフィアのボス二人から間違えられ、借金を返すか人を殺すかの二択を迫られた男がどうするか、の謎の要素があったんですが、基本的に謎を解くための要素は、物語の序盤でどかっと出てきてしまっているので、わかる人は開始十分くらいでオチがわかってしまうと思います。
私は手探りで「ああいうオチかもしれないし、こういうオチかもしれない」と考えながら見ていたので、実際に種明かしの行動が始まるまで、確証は持てませんが、わかってみればそれ以外に考えられない、というオチでした。
それが悪いというわけではないのですが、そこに行き着くまでの物語に、爽快感を得なければいけない種明かし部分から、一気に迷走し始めるのが気持ち的に萎えました。
確かに、謎がわかるのは嬉しいんですが、それまでの展開がなかったかのように画面から死体の嵐です。
そのギャップに驚いた、というほどこの映画は、「悲惨な殺戮における感動」を前面に出しているわけではないので、なんだか死体が続々と増えるという種明かしから、逆に冷めてしまいました。
バレる、ということだけに関して言えば、その一瞬だけが過ぎ去ってしまえば、後は説明でしかないわけですから、そこに感動や、某の感情を持ち込むのは難しいと思うんですけど、それにしたって、肝心の種を明かす人間の感情があまりに描かれないので、逆に興ざめしてしまった感じです。
いわゆる、ジェノサイド的な演出をしたいのであれば、それこそラストで語れるのは、渦中の主ではなく、渦中の主のそばにずっといた人間であって欲しいと思いました。あの人物は惜しい。
サスペンスとしてハラハラする内容ではまったくありません。主人公の間違われた男そのものがハラハラしていませんので。見ている側も、ハラハラしない間に(むしろ「お前なんでそんなにハラハラしないのよ」と思うことはあっても)解説されてしまうので、起承転結すべてがわりと平坦な映画でした。
ただ、役者さんとしては、当然モーガン・フリーマンは上手いですし、ブルース・ウィリスも静かな役が似合っていましたし、スタンリー・トゥッチが出ていたのには、びっくりしました。最後キャストを見るまで全く気づかなかったよ。いやらしい感じの役だったからなあ。これはもう、一人スタンリー・トゥッチ祭りをするべきなのだろうか。
そろえた人たちとしては文句もないんですが(私は、ジョシュ・ハートネットにあまり関心がないので割愛)どうにもキャラクターとして生かしきれていないかな、という感じでした。
実際、本当の「どんでん返しサスペンス」であれば、映っている場面すべてにカギがある、カギと思わせるだけの演出があるくらいでもおかしくないと思っているので。サスペンスに必要なのは、謎とそれを凌駕するくらいの登場人物の個性じゃないとなあ。
『ブロークバックマウンテン』
極悪に体調が悪いときに届いたので、これは私にトドメをさしたがっているのだろうかツタヤがと真剣に思いました。具合の悪いときに見たい映画じゃねえー。
故・ヒース・レジャーの作品。とにかく知り合いがのめりこんでいるので、どんなもんだろうと借りてみました。私は普段、重くて暗くて辛気臭い人生哲学みたいな作品は絶対に選ばない(なんでフィクションの世界で辛い気持ちを味わう必要があるのか)ので、初めからかなり身構えた状態での鑑賞だったんですが、わりと普通でした。それほどセンセーショナルに構える必要があるとも思えません。実際、同性愛の映画というよりは、普通の恋愛映画という感じでした。
イニスとジャックは夏の間、ブロークバックマウンテンで仕事を行い、関係を持つ。その後、結婚や子供も生まれるが二人は二十年にわたり、秘密の逢瀬を重ねるのだが、というのが大体のあらすじ。
勿論私はその時代背景や、同性愛者だというだけで、リンチによって殺害されてしまう状況での恋愛、というのは実際想像もできませんが、当人達が気にするほど、周囲が気にしているのではなく、当人達が気にして(この場合、イニスが殆ど一人で他者の目を気にしているが)いるから気になる、という表現があったのが面白かったです。
まず、二人の関係のきっかけになる夏の仕事の雇い主なんぞは、自分の目で(憶測ではなく)二人の関係を見てしまっているのですが、次の夏、ジャックを雇用しないのは、あくまで「仕事をおろそかにして楽しんだせいで、俺の羊が死んだ」からなんですね。大体、その気になればこの雇い主は、いくらでもジャックとイニスを中傷できる立場にいるわけです(その時代の常識においては)。ですが、雇い主は二人は同性愛者であるということを、口外したふしは全くないし、世間の噂にもなっていない。彼にとって二人の関係性が重要なのではない、というのが、イニスのように神経質に同性愛を隠そうとする人間がいるものと、また対極をなしていて面白かったです。
イニスの奥さんも子供まで生んで離婚ですから、お気の毒としか言いようがありませんが、どうしても、子供を生んで生々しい女と、ひと夏山で出会い、恋焦がれる愛では、勝ち目は薄いなあとわりと冷静な目で見れてしまいました。これも、ようするに、亭主が他に好きな人間ができて離婚、自分と結婚したけど元の恋人に対する思いが残っていて上手くいかなかった、という話なので、恋愛としてはわりとありがちといえばありがちなテーマなわけです。
いざここで、同性愛であるということを強調すると、話の視点が違ってくるのかもしれませんが、私は割りとフラットな視線で最初から最後まで見られたので、前評判ではひっかかるかなと思っていた、このいわば、利用された形とも思える奥さんのエピソードも、さらっと流せました。
自分の欲望に忠実なジャックと違い、イニスは過去に同性愛者のリンチ殺人を目の当たりにしているだけあって、臆病な言動が多く見られますが、個人的にはイニスのほうが欲張りであって、こずるい感じがしました。同性愛者であることを、実は上手く隠せていないのは圧倒的にイニスであって、それなのに世間の目垣になるから夫婦間の関係も良好に見せたい。一緒にいたいというジャックの希望は叶えられないけど、ジャックがメキシコで他の男性と関係を持つと「次にやったら殺す」とまで嫉妬心を燃やす。お前それどっちつかずなだけに性質が悪いよ。切なさ担当というよりは、最初から最後まで乙女担当、という感じでした。
個人的には、ジャックの方がある意味オープン(同性愛主義のことではなく、己の欲望に対して)なので、逆に家族関係も仮面夫婦なりの平穏を保てていますし、ジャック以外の男の影もあるようで、かつビジネスでも成功を収めているようですから、あけすけな感じが好感度高かったです。
ジャックは他の男性と浮気をした、というよりは、同性愛者としてイニスを心から愛している。けれど、他の男も恋愛や肉体関係の対象として見られる、ということなんでしょう。イニスに関しては同性愛者というよりは、ジャックだけがイニスにとってたまたま特別だった、という感じもしますし。
音楽と、ブロークバックマウンテンの映像がとにかくきれいなので、そこに男二人が言葉少なに並んで座っている図は、非常に美しかったです。どうしてもこれが女同士だとかしましかったりしますし、男女だと生々しかったりしますが、これがいざ、その時代で禁じられている関係の二人となると、御伽噺要素も相まってか、非現実的なきれいさが出てくるのが不思議です。
結局二人の関係は、ジャックの死によって現実的には終わるんですが、この場合イニスによぎった妄想のように、リンチされたと見るか、そうでないと見るかは人それぞれということでいいんでしょうか。私は実際、リンチされたとは微塵も思わなかったんですが、結構意見としては半々のようですね。変な言い方をすれば、リンチにあうほど、ジャックの頭が悪いとは思えません。仮にも社会的にかなりの成功を収めているわけですし。イニスは逆にされそうですが。ジャックはごく普通に、タイヤのパンクを直していて事故で死んだ。呆気ないかもしれないけれど、それだけだった、という印象が強かったので、リンチされて死んだという解釈が現実だった、という感想はわりと意外でした。
その後、イニスはジャックの実家で始めての夏の山で、二人の血がついたシャツ(しかも重ねてハンガーにかかってる)を見つけ、それを持ち帰り、自分のクローゼットの中にしまって「永遠に一緒だ」みたいなことを言って終わります。
このラストは本当に、どこからどう見ても超王道な恋愛映画なんだなあ、としみじみしました。肉体は滅びても魂は永遠って、もうどれだけなのかと。
私は特別感動もしませんでしたし、涙を流したりもしませんでした。ひとえに、ごく普通の恋愛映画として見られたからかもしれません。とにかくまあ、イニスが煮え切らないんだこれが。自分の人生も、自分が他人の人生についてもたらす影響からも逃げている、という感じで。個人的には圧倒的にジャックが好きです。ただまあ、ジャックも両親が言うように口では偉そうなことを言っても、結局何一つ実行に移せなかった男でもあるわけですが。
二人は年老いていく。けれど、二人の間にある思いと、ブロークバックマウンテンの美しい景色は変わらない。
ごく普通の恋愛映画として、個人的には鑑賞しました。ただし二時間超は長すぎるなあ。
レンタルDVDの特典として、CFが入っていたんですがもうこのCFのコピーが、あまりにそれっぽくて笑えます。「僕達は永遠に離れない」とか、これそういう映画じゃな………いや、そういう映画か。
全く同じシーンを使っていても、和訳が全然違うのもびっくり。「俺はいい夫だろう」とかイニスが言うシーン、あれもう、とっくに離婚した後なんですが。
この手の音楽は大好きです。スパロボ好きですから。
コンサートにも一回行って見たいなあ、と思っているのですが、そこまで詳しくない(というか殆どわからない)のと、さすがに一人では行きづらいのとで、細々と映像を楽しむばかりになっております。
この手のテーマソングは、その作品のためだけに存在しているので、なんともいえない迫力のある歌詞がたまりません。
「愛に勇気を与えてくれ」とか、普通では恥ずかしくてとてもじゃないけど言えないけど、特撮だと思えばなんでもヘッチャラだぜ。
アニメの視聴ですが、『喰魂』は新しく出てきた主役陣の演技があまりにあまりだったので(最近は視聴者と一緒に育とう、みたいなの多いんですか)見る気が失せました。『ラインバレル』ははなから見る気もないし。『キャシャーン』は映像がそれなりにきれいで見るものがあるので、今のところ生き残ってます。
巷で話題の『絶対可憐チルドレン』の新しいEDが男風味だというので見てみました。おお、私が知らないうちに知らない男たちがいる。この微妙な歌のレベルが実にキャラソンらしくて、こういうの大好きです。ただなあ、若干賢木成分が足りないなあ。
頭痛がやはり続くので、先生の言うとおり血流の問題であれば、マッサージにも行ってみよう、と本格的に行ってみました。私の中で本格的というのは、金払うということです。
オイルマッサージというのをやってみたんですが、ほぼ全裸で、下着まで下ろされて尻までやられたという、ある意味プレイっぽかったです。そりゃ相手の人は女性でしたが。
ここで、「むだ毛処理しておいてよかった………」と思ってしまった私は女性として死んでいるのでしょうか。ええーでも職場の人も「冬のむだ毛処理なんて面倒でやってない」って人いっぱいいますがー(お前には羞恥心がない)。
個人的には、気持ちがいい悪いというより、オイルをぬられて他人の手がずるずる触っている(その表現どうなんですか)という未知の感覚に鳥肌が立ってしまい、気持ちがいいのか悪いのかよくわからなかったです。ほぐれた………のか?
服の上からやるマッサージも当然あるので、次回からはそれにしようと思いました。結局マッサージの人からも「背中も肩も首もコリが酷い」と畳み掛けるように言われたので、頭痛も筋肉疲労からくるものなんでしょうなあ。
金額としては一時間およそ6000円。結構クーポンが充実しているお店だったので、次に服の上からの通常マッサージを選ぶと、5000円くらいになります。
「整体がおよそ30分で4500円だから、時間換算にするとマッサージの方がお得感が強いなあ」
と思ってしまった私に神の恩恵は降りてこないと思いました。
実際、整体にせよマッサージにせよどうも効果がよくわからないんですよねえ。しないよりはしたほうがいいんだろうなあ、というくらいしか。
それに金を払うのもあれだけど、何もしないのも悔しいし。(誰かと戦ってるんですか?)
来月当たりにまた考えてみます。私は毎月マッサージと整体両方に行く金はございません。
12月は職場の同僚だった人の結婚式があるので、美容院やらエクステやらにも行かねばならないし、年取ると設備投資が必要になってくるにしたって、もう少し頑張れ人体。
私は絵が好きですが、詳しくもないし、上手くもありません。
絵の上手い下手はわかりますが、それを他人に求めるほど自分の実力もないし、知識を下地にして鑑賞することもできません。
ただ、やはり自分にとって強い衝撃を受ける絵というものはあって、たまたま「小磯良平」氏の「斉唱」を見たときもそうでした。
私はお恥ずかしながら、日本の画家さんは現代美術か、昔の浮世絵かくらいの知識しかないので、ごく普通の画家さん、というだけでも衝撃だったんですよね。本当に「何でも鑑定団」は侮れない番組だよ。
とにかくその絵の衝撃はすさまじく、「これは………やはり………兵庫まで行かなければならないのか………」と真剣に思いました。兵庫って日帰りで行けるかなあ、とか、私新幹線の切符って買ったことないんだけどなあ、とか、現実的に実行に移せるかどうかは別問題なのですが。
その「絵」を見て、感動した、衝撃を受けたということを、文章で表すことは非常に難しく、却って変な言葉をあげつらえるより、「問答無用で見ろ! 見ればわかる!」といった、気合だけが前面に出てきた文章の方が「それほど凄いのか」と、相手が見てみようという気にさせるためには効果的ではないか、と思うこともあります。
勿論、それはそれで表現の一つなのですが、ただ「見ればわかる」というのではなく、もう少し具体的に伝えたいことがあるんだけどなあ、と知り合いと話していたところ、本のお勧めをいただきました。
実際私が読ませてもらったのは、1992年の光文社カッパ・ブックスだったのですが、非常に面白かったです。
一つの絵に対して、好きなところもそうでないところも、一定感情を越えない平坦な描写をしているだけに、読んでいる側も、著者の視点に惑わされず絵に対して特定の感情を抱けるところに、感情論に自分の感情がひきずられない意味があると思いました。
相手のテンションに引きずられる批評もいいですが、「絵」という違う媒体を紹介している以上、ニュートラルでいられるにこしたことはないですし、この感想、実際目にしたときの感想、この本を読んだときの感想と、色々な感想を抱けるほうが、得した気分になります(笑)。
実物の絵を目の当たりにし、感動して画集を買っても、結局は生身の絵には適わない、ということはよくあります。画集において絵を見ても、それは一度実物を見てしまった以上、その時目にした感動を思い返すためのファクターにしか過ぎない、ということです。勿論画集を見ることによって、実物はそう簡単に見られなかったりしますから、思い返すことの幸せも存在します。「あの時見た絵は良かったなあ」と思えるのも、幸せなことです。
ただ初めに画集で衝撃を受けた場合、実物を見る前の衝撃、実物を見て衝撃の2パターン味わえるので、それはそれでお得だと思います。平面の写真として絵を見た場合、実物を見てがっかり、ということはまずないでしょうし、またあったとしても、画集を見たときの感動は消えないわけですから。実物を先に見て画集が色あせて見えるよりもいいのかな、とも思えます。
ただこれも面白いのが、ただ自分の目だけで印刷物を見るのではなく、『日曜美術館』や、『美の巨人たち』のように、テレビと言う音楽も、絵も、それによる演出も全て含めた「一つの作品」として制作されたものを初めに目の当たりにした場合は、より受ける印象が違ってきます。
番組はナレーションで解説を入れてくれますし、絵をクローズアップしてくれますし、作者の人となりまで説明してくれたりもします。
ただ絵を見るためだけには要らないものかもしれませんが、私は、それはそれとして、「このような形」で紹介された一つの作品として、面白かったり、感銘を受けたりするのは、「あり」だと思います。
絵という題材を、テレビで映像として紹介する上で、最善を尽くした作品は、それはそれで、モチーフとなる絵とはまた違ったものとして、鑑賞に堪えうるものだったということなのでしょう。
ゲームでも、やっている最中は凄く面白くて、サントラも画集も買ってみたけど、ゲームをやったときほどのインパクトはない、ということもありますし、それぞれ抜き出せば一つの芸術として鑑賞できるものであっても、複合業で見せることは邪道ではないと思います。
自分が、その絵に対して、どんな立ち位置で出会うか。
実際、それによって受ける印象も違ってくるのかもしれませんね。
画集からかもしれないし、実物かもしれないし、テレビで紹介されたかもしれないし、解説の本を読んだからかもしれないし、知り合いにとにかく進められたから、という理由もあるかもしれません。
どちらにせよ、見るのも感動するのも自分なわけですから、どのように「面白い」と思えるか、問答無用で見ない、ではなく、見たいと思えるような自分でいたいと思います。
小磯良平………兵庫………どうすればいいのだろう………。(金も時間もない)
そして、棟方志功………青森………もどうすればいいのだろう………(鎌倉にもありますが………)。
絵の上手い下手はわかりますが、それを他人に求めるほど自分の実力もないし、知識を下地にして鑑賞することもできません。
ただ、やはり自分にとって強い衝撃を受ける絵というものはあって、たまたま「小磯良平」氏の「斉唱」を見たときもそうでした。
私はお恥ずかしながら、日本の画家さんは現代美術か、昔の浮世絵かくらいの知識しかないので、ごく普通の画家さん、というだけでも衝撃だったんですよね。本当に「何でも鑑定団」は侮れない番組だよ。
とにかくその絵の衝撃はすさまじく、「これは………やはり………兵庫まで行かなければならないのか………」と真剣に思いました。兵庫って日帰りで行けるかなあ、とか、私新幹線の切符って買ったことないんだけどなあ、とか、現実的に実行に移せるかどうかは別問題なのですが。
その「絵」を見て、感動した、衝撃を受けたということを、文章で表すことは非常に難しく、却って変な言葉をあげつらえるより、「問答無用で見ろ! 見ればわかる!」といった、気合だけが前面に出てきた文章の方が「それほど凄いのか」と、相手が見てみようという気にさせるためには効果的ではないか、と思うこともあります。
勿論、それはそれで表現の一つなのですが、ただ「見ればわかる」というのではなく、もう少し具体的に伝えたいことがあるんだけどなあ、と知り合いと話していたところ、本のお勧めをいただきました。
実際私が読ませてもらったのは、1992年の光文社カッパ・ブックスだったのですが、非常に面白かったです。
一つの絵に対して、好きなところもそうでないところも、一定感情を越えない平坦な描写をしているだけに、読んでいる側も、著者の視点に惑わされず絵に対して特定の感情を抱けるところに、感情論に自分の感情がひきずられない意味があると思いました。
相手のテンションに引きずられる批評もいいですが、「絵」という違う媒体を紹介している以上、ニュートラルでいられるにこしたことはないですし、この感想、実際目にしたときの感想、この本を読んだときの感想と、色々な感想を抱けるほうが、得した気分になります(笑)。
実物の絵を目の当たりにし、感動して画集を買っても、結局は生身の絵には適わない、ということはよくあります。画集において絵を見ても、それは一度実物を見てしまった以上、その時目にした感動を思い返すためのファクターにしか過ぎない、ということです。勿論画集を見ることによって、実物はそう簡単に見られなかったりしますから、思い返すことの幸せも存在します。「あの時見た絵は良かったなあ」と思えるのも、幸せなことです。
ただ初めに画集で衝撃を受けた場合、実物を見る前の衝撃、実物を見て衝撃の2パターン味わえるので、それはそれでお得だと思います。平面の写真として絵を見た場合、実物を見てがっかり、ということはまずないでしょうし、またあったとしても、画集を見たときの感動は消えないわけですから。実物を先に見て画集が色あせて見えるよりもいいのかな、とも思えます。
ただこれも面白いのが、ただ自分の目だけで印刷物を見るのではなく、『日曜美術館』や、『美の巨人たち』のように、テレビと言う音楽も、絵も、それによる演出も全て含めた「一つの作品」として制作されたものを初めに目の当たりにした場合は、より受ける印象が違ってきます。
番組はナレーションで解説を入れてくれますし、絵をクローズアップしてくれますし、作者の人となりまで説明してくれたりもします。
ただ絵を見るためだけには要らないものかもしれませんが、私は、それはそれとして、「このような形」で紹介された一つの作品として、面白かったり、感銘を受けたりするのは、「あり」だと思います。
絵という題材を、テレビで映像として紹介する上で、最善を尽くした作品は、それはそれで、モチーフとなる絵とはまた違ったものとして、鑑賞に堪えうるものだったということなのでしょう。
ゲームでも、やっている最中は凄く面白くて、サントラも画集も買ってみたけど、ゲームをやったときほどのインパクトはない、ということもありますし、それぞれ抜き出せば一つの芸術として鑑賞できるものであっても、複合業で見せることは邪道ではないと思います。
自分が、その絵に対して、どんな立ち位置で出会うか。
実際、それによって受ける印象も違ってくるのかもしれませんね。
画集からかもしれないし、実物かもしれないし、テレビで紹介されたかもしれないし、解説の本を読んだからかもしれないし、知り合いにとにかく進められたから、という理由もあるかもしれません。
どちらにせよ、見るのも感動するのも自分なわけですから、どのように「面白い」と思えるか、問答無用で見ない、ではなく、見たいと思えるような自分でいたいと思います。
小磯良平………兵庫………どうすればいいのだろう………。(金も時間もない)
そして、棟方志功………青森………もどうすればいいのだろう………(鎌倉にもありますが………)。
ネタバレしております。自己責任においてごらんください。
■百年前の神木村。
サクヤがロリポジションまで網羅した………!
「シャクヤ」ってなんだ「シャクヤ」って! お前尻といい、胸といい、へそといい、幼女といい守備範囲広すぎだろ! 一体一人でどれだけのスキル身につけるつもりなんだよ!
錯乱しつつも村々を回ると、イザナギがいたりイナザミがいたり。この二人は百年前から馬鹿ップルでした。これもDNAか………。
強引にイザナギを気絶させ、神州平原から十六夜の祠へ向かいます。このあたりの敵、弱い上に金がウハウハなので、一生ここにいたいと思いました。どれだけ金に泣く日々を送ればいいのだろう。
そして、以前も何処かで見たようにイザナギをほったらかして、真ヤマタノオロチと対決です。
何故かそこにオキクルミが現れるんですが、案の定剣は反応しません。したら凄い。
見事真ヤマタノオロチを討ち果たし、その時代のシラヌイと、イッスンのじいちゃんイッシャクの雄姿を目に焼き付けつつ、現代へ戻ります。結局シラヌイたちはアマテラスが戦っている間どうしてたんだろう。
■イリワク神殿
見事ピリカも助け出し、いざエゾフジにある魔物を祭っていた神殿へ。オキクルミが結界ぶち破ってましたが、お前これいくら責任を感じているからって色々暴走しすぎだ。これも若さでしょうか。私はサマイクルのほうが好きです(聞いてません)。
相変わらず謎で脳みそが解けそうです。燃える蜘蛛をどうにかせねばと、延々考えた挙句、通路を見逃していただけだったときは泣きたくなりました。イッスンがお前余計なことを言うから………! 今すぐにあそこに行くようなことを………!(人のせいにしては酷い言い訳)
遂に最後の筆神も仲間になりました。氷の神ですが、何故ラストが牛だったのかわかりません。コントもしてくれなかったし。最後だから期待していたのに。笑いの。
そして、今更白状するのもなんですが、ジャンプの距離感が全くわかりません。古き良き時代のゲームみたいに全部真横スクロールだったら、飛んで、とどく、とどかないがわかるんですが、アマテラスを画面上で下に位置して真上(に近い状態)に飛び上がるだと、もう何処に飛んでいるのか自分でもさっぱりです。スクロールできるったって、壁際だったりすると結局壁以外見えないみたいになるから何の意味もないし。
いやもう、二段ジャンプとか以前の問題で、ジャンプは鬼門だ。まるで自分がどのくらい飛べるのかどうなっているのか、未だにわからない(もう終盤なんですが………)。
せっかく氷付けにできる業を手に入れても、それとは関係なく落下しまくるアマテラス。こっちも心臓に堪えます。
謎にかける時間よりも遙かに、落下に時間をかけましたが、なんとか頂上へ。
そこでオキクルミとの共闘になるのですが、相変わらず突っ走り、敵にやられそうになります。
それを颯爽と救い、自ら傷を受けたのは百年前のアマテラス。
お前何しにきたんだ?(正直な感想)
この辺のタイムパラドックスがよくわからないまま、オキクルミは正義の心に目覚め、アマテラス(未来)とオキクルミの共闘が実現します。二羽のフクロウ相手に、無駄な攻撃を繰り返すオキクルミが馬鹿で可愛いです。そうか、こういうポジションだったのか。
エゾフジに平和が戻ったものの、百年後のアマテラスの傷は治るものでもなく、傷ついた体を支えながら、イッシャクとアマテラス(過去)は消えていきました。そして、これが未来のアマテラスが真ヤマタノオロチと戦って、いいところで助けに飛び込んだアマテラス(過去)につながるわけか。
すると、
過去アマテラスがヤマタノオロチと戦おうとしている
↓
未来アマテラスがなんだか来ちゃったので真ヤマタノオロチと過去で戦う
その間、過去アマテラスは自分を助けてくれた未来アマテラスを助けるために、未来へ飛びオキクルミを庇って重傷を負う。
↓
過去の世界に戻った過去アマテラスはイザナギを助けるも、未来で受けた傷を負っており、その傷が元で死亡。
過去の真ヤマタノオロチを倒したのも、未来のヤマタノオロチを倒したのも、事実上未来のアマテラス。
という解釈でいいのでしょうか。自由自在に飛べる時間を選べるわけではないから、齟齬が起きたと。
しかし、何で過去のアマテラスは未来のアマテラスが今ピンチってわかったんだろうか。未来はまあ過去のことを知りうることができたとしても、未来はわからないし。過去アマテラスが未来に飛んだのはその一度きりだったわけだし。それとも、たまたまピンチだったというだけなんでしょうか。そんなおっちょこも可愛い。
この辺よくわかりませんが、とりあえず先に進みます。
■百年前の神木村。
サクヤがロリポジションまで網羅した………!
「シャクヤ」ってなんだ「シャクヤ」って! お前尻といい、胸といい、へそといい、幼女といい守備範囲広すぎだろ! 一体一人でどれだけのスキル身につけるつもりなんだよ!
錯乱しつつも村々を回ると、イザナギがいたりイナザミがいたり。この二人は百年前から馬鹿ップルでした。これもDNAか………。
強引にイザナギを気絶させ、神州平原から十六夜の祠へ向かいます。このあたりの敵、弱い上に金がウハウハなので、一生ここにいたいと思いました。どれだけ金に泣く日々を送ればいいのだろう。
そして、以前も何処かで見たようにイザナギをほったらかして、真ヤマタノオロチと対決です。
何故かそこにオキクルミが現れるんですが、案の定剣は反応しません。したら凄い。
見事真ヤマタノオロチを討ち果たし、その時代のシラヌイと、イッスンのじいちゃんイッシャクの雄姿を目に焼き付けつつ、現代へ戻ります。結局シラヌイたちはアマテラスが戦っている間どうしてたんだろう。
■イリワク神殿
見事ピリカも助け出し、いざエゾフジにある魔物を祭っていた神殿へ。オキクルミが結界ぶち破ってましたが、お前これいくら責任を感じているからって色々暴走しすぎだ。これも若さでしょうか。私はサマイクルのほうが好きです(聞いてません)。
相変わらず謎で脳みそが解けそうです。燃える蜘蛛をどうにかせねばと、延々考えた挙句、通路を見逃していただけだったときは泣きたくなりました。イッスンがお前余計なことを言うから………! 今すぐにあそこに行くようなことを………!(人のせいにしては酷い言い訳)
遂に最後の筆神も仲間になりました。氷の神ですが、何故ラストが牛だったのかわかりません。コントもしてくれなかったし。最後だから期待していたのに。笑いの。
そして、今更白状するのもなんですが、ジャンプの距離感が全くわかりません。古き良き時代のゲームみたいに全部真横スクロールだったら、飛んで、とどく、とどかないがわかるんですが、アマテラスを画面上で下に位置して真上(に近い状態)に飛び上がるだと、もう何処に飛んでいるのか自分でもさっぱりです。スクロールできるったって、壁際だったりすると結局壁以外見えないみたいになるから何の意味もないし。
いやもう、二段ジャンプとか以前の問題で、ジャンプは鬼門だ。まるで自分がどのくらい飛べるのかどうなっているのか、未だにわからない(もう終盤なんですが………)。
せっかく氷付けにできる業を手に入れても、それとは関係なく落下しまくるアマテラス。こっちも心臓に堪えます。
謎にかける時間よりも遙かに、落下に時間をかけましたが、なんとか頂上へ。
そこでオキクルミとの共闘になるのですが、相変わらず突っ走り、敵にやられそうになります。
それを颯爽と救い、自ら傷を受けたのは百年前のアマテラス。
お前何しにきたんだ?(正直な感想)
この辺のタイムパラドックスがよくわからないまま、オキクルミは正義の心に目覚め、アマテラス(未来)とオキクルミの共闘が実現します。二羽のフクロウ相手に、無駄な攻撃を繰り返すオキクルミが馬鹿で可愛いです。そうか、こういうポジションだったのか。
エゾフジに平和が戻ったものの、百年後のアマテラスの傷は治るものでもなく、傷ついた体を支えながら、イッシャクとアマテラス(過去)は消えていきました。そして、これが未来のアマテラスが真ヤマタノオロチと戦って、いいところで助けに飛び込んだアマテラス(過去)につながるわけか。
すると、
過去アマテラスがヤマタノオロチと戦おうとしている
↓
未来アマテラスがなんだか来ちゃったので真ヤマタノオロチと過去で戦う
その間、過去アマテラスは自分を助けてくれた未来アマテラスを助けるために、未来へ飛びオキクルミを庇って重傷を負う。
↓
過去の世界に戻った過去アマテラスはイザナギを助けるも、未来で受けた傷を負っており、その傷が元で死亡。
過去の真ヤマタノオロチを倒したのも、未来のヤマタノオロチを倒したのも、事実上未来のアマテラス。
という解釈でいいのでしょうか。自由自在に飛べる時間を選べるわけではないから、齟齬が起きたと。
しかし、何で過去のアマテラスは未来のアマテラスが今ピンチってわかったんだろうか。未来はまあ過去のことを知りうることができたとしても、未来はわからないし。過去アマテラスが未来に飛んだのはその一度きりだったわけだし。それとも、たまたまピンチだったというだけなんでしょうか。そんなおっちょこも可愛い。
この辺よくわかりませんが、とりあえず先に進みます。