皆様は羅針盤と聞いて、どんなイメージをお持ちでしょうか。
私個人としては、大海原を渡るために唯一必要不可欠な道しるべ。目的地に向かって指し示すもの、みたいな、荘厳で雄大なイメージがあるのですが、この映画にそんなもんどこにもねえ。
というわけで「ライラの冒険 黄金の羅針盤」を見てきました。しかし見づらい公式サイトだ………。
こうして漢字で羅針盤と書くとカッコイイですが、英語表記だと「THE GOLDEN COMPASS」ですよ。ゴールデンコンパスって結構笑えます。
羅針盤って、見た目ただのコンパクトなので、ライラがことあるごとに開いても、それはテクマクマヤコンにしか見えません。
大体羅針盤の使い方が笑える。
三つの針を文字盤の絵に合わせると、青い針が動いて、答えを導いてくれるという触れ込みなのですが、その導き方が、唐突にライラの脳内に浮かび上がるイメージ映像なので、傍で見ている人間は、ライラの妄想に付き合ってるのと一緒です。
そんなん信じられるか!
逆に目の当たりにしても、なんだろう具体的な結果と、具体的な現象が一致しない時点で、その羅針盤に凄みを感じないんですよね。
結構どうでもいい話題にも羅針盤は使えそうなので(それこそ明日のおかずを教えてとか)その使えそう、という時点で神秘性はかけらもないのがちょっと残念でした。
我々の想像する羅針盤ではないなあ、あれは。
元々ダニエル・クレイグ目当てで見に行ったのですが、ろくに出てきません。
本当に出てこないのでびっくりです。まあ続編では活躍するのだろう、というくらいは想像できますが、これから先完成するかどうかわからない作品を想像して楽しめと言われましても。
CGの使い方が結構あからさまにCGなので、背景と合致させようとか、そういう気はあまりないようです。
「あ、変わった」とか「あ、CG」とか画面の切り替えがわりと唐突で、一瞬興が冷める瞬間もあります。まあファンタジー作品でCGについて語りだすときりがありませんし、詳しくもないので、「デイモン」と呼ばれる自分の魂が動物の形をしたものの動きを楽しめればそれでいいんではないかと。
話の内容云々よりも、「うわあ、白熊萌え。白熊のくせに王子で決闘に敗れて今は落ちぶれているってどれだけ受け」とかそういうキャラクター造形や、外見(非常に重要)を素直に楽しめばいいのではないかと。
大体、女には男の動物、男には女の動物がつくっていう時点で、エロい以外の何者でもない。
役者陣では、ニコール・キッドマンの一人勝ちでした。エンドクレジットでも一番上ですし、二番目がダニエル・クレイグで、ライラなんてその次だ。
ニコール・キッドマンは振り返ったときの首のシワを見ると、「ああ年とったなあ」としみじみすることもありますが、はやり迫力のある美人で見ごたえがあります。髪形はサザエさんみたいでしたが。
とにかく白熊が可愛いのと、途中から出てくる魔女の衣装や演出が、非常に幻想的で良かったのが印象的でした。
唐突に「魔女」という種族が説明もなしに現れて、「戦いだ」と宙を縦横無尽に舞いながら、薄絹のびらびらのドレスを身にまとった妙齢の女性が、肉弾戦を繰り広げる様はやはり迫力があります。
知り合いが見に行った「ノーカントリー」と「バンテージ・ポイント」が予想外に面白かったそうなので、これも公開終了までに見に行く予定です。
「バンテージ・ポイント」なんて、B級の匂いがぷんぷんしてたんですが、そうか、面白いのか。意外だ(失礼な)。
私個人としては、大海原を渡るために唯一必要不可欠な道しるべ。目的地に向かって指し示すもの、みたいな、荘厳で雄大なイメージがあるのですが、この映画にそんなもんどこにもねえ。
というわけで「ライラの冒険 黄金の羅針盤」を見てきました。しかし見づらい公式サイトだ………。
こうして漢字で羅針盤と書くとカッコイイですが、英語表記だと「THE GOLDEN COMPASS」ですよ。ゴールデンコンパスって結構笑えます。
羅針盤って、見た目ただのコンパクトなので、ライラがことあるごとに開いても、それはテクマクマヤコンにしか見えません。
大体羅針盤の使い方が笑える。
三つの針を文字盤の絵に合わせると、青い針が動いて、答えを導いてくれるという触れ込みなのですが、その導き方が、唐突にライラの脳内に浮かび上がるイメージ映像なので、傍で見ている人間は、ライラの妄想に付き合ってるのと一緒です。
そんなん信じられるか!
逆に目の当たりにしても、なんだろう具体的な結果と、具体的な現象が一致しない時点で、その羅針盤に凄みを感じないんですよね。
結構どうでもいい話題にも羅針盤は使えそうなので(それこそ明日のおかずを教えてとか)その使えそう、という時点で神秘性はかけらもないのがちょっと残念でした。
我々の想像する羅針盤ではないなあ、あれは。
元々ダニエル・クレイグ目当てで見に行ったのですが、ろくに出てきません。
本当に出てこないのでびっくりです。まあ続編では活躍するのだろう、というくらいは想像できますが、これから先完成するかどうかわからない作品を想像して楽しめと言われましても。
CGの使い方が結構あからさまにCGなので、背景と合致させようとか、そういう気はあまりないようです。
「あ、変わった」とか「あ、CG」とか画面の切り替えがわりと唐突で、一瞬興が冷める瞬間もあります。まあファンタジー作品でCGについて語りだすときりがありませんし、詳しくもないので、「デイモン」と呼ばれる自分の魂が動物の形をしたものの動きを楽しめればそれでいいんではないかと。
話の内容云々よりも、「うわあ、白熊萌え。白熊のくせに王子で決闘に敗れて今は落ちぶれているってどれだけ受け」とかそういうキャラクター造形や、外見(非常に重要)を素直に楽しめばいいのではないかと。
大体、女には男の動物、男には女の動物がつくっていう時点で、エロい以外の何者でもない。
役者陣では、ニコール・キッドマンの一人勝ちでした。エンドクレジットでも一番上ですし、二番目がダニエル・クレイグで、ライラなんてその次だ。
ニコール・キッドマンは振り返ったときの首のシワを見ると、「ああ年とったなあ」としみじみすることもありますが、はやり迫力のある美人で見ごたえがあります。髪形はサザエさんみたいでしたが。
とにかく白熊が可愛いのと、途中から出てくる魔女の衣装や演出が、非常に幻想的で良かったのが印象的でした。
唐突に「魔女」という種族が説明もなしに現れて、「戦いだ」と宙を縦横無尽に舞いながら、薄絹のびらびらのドレスを身にまとった妙齢の女性が、肉弾戦を繰り広げる様はやはり迫力があります。
知り合いが見に行った「ノーカントリー」と「バンテージ・ポイント」が予想外に面白かったそうなので、これも公開終了までに見に行く予定です。
「バンテージ・ポイント」なんて、B級の匂いがぷんぷんしてたんですが、そうか、面白いのか。意外だ(失礼な)。
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一つの作品にしっかりとケリがついたところで(私は基本的に物事は早く終わりにしたい性質です)、タガが外れて、今更再燃した「リリーのアトリエプラス」を鬼のようにプレイしていました。
せっかく、股をかけるだけかけてやろうと思ったのに、どこかでフラグ立てに失敗したのか、ファーストプレイのように、調合とレベル上げと採取にかまけてイベントを取り逃したのか、結局最後、狙ってないウルリッヒが落とせてしまう始末で、あまりの悔しさに、工房を虹妖精で埋め尽くしたりして遊んでました。あの乱反射は目に眩しい。
攻略本だと一番真っ当なEDは、すべての錬金術のレベルも、評価も最高値まで上げることで、それが一番難しいとか言われてるんですが、そんなんほっといても上がる。
これが最優先である以上、他の条件を満たしていない、ある意味どこかは生きていく上で手を抜きましたよEDは、わざとレベルを上げないように気をつけなきゃいけないので、かえって面倒です。
いやあ、本当はPSの「みどりのマキバオー」をプレイしようと思っていたんですが、まだ文庫本も一回くらいしか読み返していないので、なんとなく恐れ多くて手を出せません(その気持ちよくわかりません)。
いや、マキバオーは好きなだけに、文庫を何度もしっかりと読み返したいわけで………! あの馬たちの魅力が何処だかちゃんと再確認しておきたいわけで………!
少なくとも自分が擬人化絵でも描くとき、一番最初はトゥーカッターにしようと心に誓いました(何 故 だ)。
「ワンダと巨像」も随分長いこと積んであるんですが、アクションゲームがどうにも苦手で、中々開封まで思い切りがつきません。
これで躓いていたら、プレイする予定の「大神」なんてどうなっちゃうのだ、と自分で自分を励まそうと思います。
先日書きました「奈落の城」ですが、二つのルートをクリアした結果、自分なりに、犯人とか謎だった部分のオチが、予想が出来てしまったので、ますます購入から遠ざかりそうな気がします。
いや、正解しているかどうかはわかりませんが、多分はずれでもない。
でもそれを言うなら、「雨格子の館」も犯人や動機そのものはわりとすぐにわかったわけであって。
だからといって、「雨格子の館」がつまらなかったということもないので、このへん、ゲームの色として判断するのは中々難しいですね。
純粋にあれかな、他の国のキャラクターに興味がないってそれだけかな。
「シャレード」
ケーリー・グラントがかっこいいです。
ハンフリー・ボガードのようにクセのあるタフな顔ではなく、どちらかといえば、言い方が妙ですが、日本の頑固親父のような威厳が似合う俳優さんです。髪の毛の薄さ加減とか、灰色加減(決して銀髪ではないところがツボ)とかが。
雰囲気が伯父に似ていると思ってしまったのは秘密だ。
顎が太くて、顔が正方形で、相手役のオードリー・ヘップバーンが華奢(というかヘップバーンが人妻っていうのが既になんだかありえないんだけど)なだけに、物事に動じない役が非常に合っています。
内容としてはサスペンスになるのかもしれませんが、「殺した犯人は誰だ」という見方をするよりは、「謎めいたあの男の正体は」という見方をする作品です。
問題は、次々に死ぬ人間を誰が殺したか、というより、自分の身近にいるあの男の正体は一体(殺人犯にしろ、そうでないにしろ)というところに肝が置かれているので、それを想像しながら、ヘップバーンと一緒に骨抜きになりましょう。
作中でも言われているんですが、「年が違いすぎる」「君の父親のような年齢」と明らかな年の差カップルは、見ていて楽しいです。
それまで恵まれぬ結婚生活を送っていたヘップバーンは、殺された夫との関係が保たれている初期の頃は、本当にくすんだ感じなんですが、いざグラントと出会うと、別人のようにファニーガールになるのが、これが恋の魔力かと納得。
グラントはヘップバーンが好きというより、「やれやれ仕方がないな」というくらいの感情でお世話をしており、それが結果として、「やっぱり仕方がないか」というように愛情に横滑りした感じで、立場的にはやはり父性。
その父性がだよ、最後自分のオフィスでヘップバーンを膝に乗せてキスしてるんだからもう、たまんねえな!
私は父性的な要素が強くても、それはそれでカップルとして成立すると思うので、突如友愛から愛情に横滑りしてしまう作品より、最初から最後まで互いの恋のスタンス絶対に違うけど、でもいいじゃん、という二人の方が見ていて楽しいです。
ヘップバーンは相変わらず衣装に非常に恵まれています。真っ赤なコートとかあんなに可愛く着こなせるの彼女くらいだ。
純粋なサスペンスやミステリーではありませんし、残酷描写が激しいわけでもないので、女性向な映画としてお勧めです。
「キャバレー」
元々はミュージカルだった作品を映画化。
主演はライザ・ミネリです。
この映画、凄く面白かったです。
説明が非常に難しいんですが、とにかく引き込む力が物凄かった。
ツタヤで、ミュージカルを適当にピックアップして借りた一本だったんですが、大当たりだった。
話の内容としては、実は誰が死ぬわけでもないし、何が起こるわけでもないそれでも人生は続く系の映画なのですが、この映画は、それでこそいいと思えてしまう力があります。
題名が「キャバレー」で、主人公のライザ・ミネリ扮するサリーは女優を夢見るキャバレーの踊り子兼歌うたい。
彼女の生き様を描く途中途中に、キャバレーでのショーが挿入されるという形になっているのですが、このショーが、とんでもなく下種で下世話で、圧倒的にパワーがあるので、目が釘付けになります。
サリーが出ていないショーもたくさんあるのですが、そのどれもが、なんていうか、泥臭くてきれいじゃない。メイクもそうですし、衣装も美しくない。
例えば映画「シカゴ」でも、ショーのシーンはたくさんでてくるのですが、そこにある、きれいさは欠片もありません。
強いて言えば迫力。
その一言に尽きると思います。
きれいなダンスを見て、身体機能に驚いたり、美しい歌声にうっとりしたり、というショーではないのです。
映画「キャバレー」における「ショー」は、あくまで、キャバレーで行われている舞台であって、それ以上でもそれ以下でもない。
サリーは現実でも舞台の上でも、はすっぱなで身勝手で、真っ黒で前髪を切りそろえたショートカット。真っ青なマスカラをこれでもかと塗り、唇は真っ赤。普段の衣装も柄物で言葉遣いも下品。
そんなサリーが踊る舞台は、彼女の個性を示す場であって、彼女がいかに芸術的であるかを見る場ではない。
彼女はあくまで女優になりたくて、その上で、チャンスと金を掴むために、キャバレーの舞台に登る。
その覚悟。
そして、客を楽しませるためにすら存在しない、仕事としての名もない踊り子や、バンドマンたちが作り上げる舞台は、ただ圧倒的な迫力の一言につきます。
照明の具合や、色合いが、油絵のように、重厚で、いや、もっとくすんでにごった画面のイメージが強いのですが、それはあくまでキャバレーのシーンと、サリーの部屋だけ。
一歩外に出ると、相手役のブライアンや、郊外のシーンではきれいな緑色が広がります。
朴訥な青年であるブライアン。彼と隣同士になったサリー。
「友情に肉体関係は邪魔よね」
と言いつつも、父親に愛されていないと泣くサリーを慰めるために、なし崩しに関係を持ってしまう。
恋人同士になっても、別の男が現れれば、その金や人柄に彼女は賛美を惜しまない。
それを許容しつつも、困惑し、そして関係を続けるブライアン。
こう書くと、ブライアンはただの朴念仁のようですが、そうではなく、むしろ普通の人間の感性に近く、それでいて、サリーを愛することが出来ている上でぶっ飛んでいる人間ともいえます。
恋だの愛だの、という台詞は実はこの二人からはあまり語られず、脇を固める人間たちのほうが、純粋に自分の立場や感情に悩まされ、恋愛映画らしい恋愛をしています。
サリーとブライアンは二人で共に過ごし、笑い、怒って泣いて、子供ができたと告白したときも、
「子供ができちゃったのよ、くそ!」
と悪態をつき、そして、
「聞かないの?」
「それなら聞くけど、誰の子?」
「多分貴方だと思うけど、断言は出来ないわ」
と、愛し合っている二人とは思えない会話を交わします。
この二人の関係の「らしさ」が絶妙で、サリーは全く嫌な女には見えないし、ブライアンもただの凡人には見えないのです。
結果、ブライアンはサリーに結婚を申し込み、サリーもそれを受けるのですが、最終的にサリーは中絶してしまいます。
「何故」
「ほんの気まぐれよ」
「理由を話してくれ」
「このままケンブリッジに帰ったら、喧嘩ばかりして仲が悪くなるのは目に見えてる。私はパブに入り浸って。私はわがままで浅はかな女だけど、どうしても女優になる夢を捨てられないの」
「………………」
「ブライアン、私貴方を愛してるわ」
「それはわかってるよ」
言葉だけ並べると、サリーの自己中心的考えばかりが目立つのですが、むしろ感情移入するのは、圧倒的にサリーのほう。
彼女が、そうしたい、そう生きたいというのは画面から嫌と言うほど伝わってきて、それを妨害するのは誰にもできない。
この物語は、ナチスドイツが台頭してくる時代の話なので、ところどころに差別表現や、戦争が向かっていくどうしようもない泥沼が垣間見えて、決して後味が言い訳でもなく、明るい話でもないのですが、それでもその中で輝くサリーの魅力と、キャバレーのどうしようもないただの舞台が非常に魅力的な作品でした。
ミュージカルと言うジャンルとは到底思えませんので、ライザ・ミネリの魅力を堪能されたい方は是非一度ご覧ください。
せっかく、股をかけるだけかけてやろうと思ったのに、どこかでフラグ立てに失敗したのか、ファーストプレイのように、調合とレベル上げと採取にかまけてイベントを取り逃したのか、結局最後、狙ってないウルリッヒが落とせてしまう始末で、あまりの悔しさに、工房を虹妖精で埋め尽くしたりして遊んでました。あの乱反射は目に眩しい。
攻略本だと一番真っ当なEDは、すべての錬金術のレベルも、評価も最高値まで上げることで、それが一番難しいとか言われてるんですが、そんなんほっといても上がる。
これが最優先である以上、他の条件を満たしていない、ある意味どこかは生きていく上で手を抜きましたよEDは、わざとレベルを上げないように気をつけなきゃいけないので、かえって面倒です。
いやあ、本当はPSの「みどりのマキバオー」をプレイしようと思っていたんですが、まだ文庫本も一回くらいしか読み返していないので、なんとなく恐れ多くて手を出せません(その気持ちよくわかりません)。
いや、マキバオーは好きなだけに、文庫を何度もしっかりと読み返したいわけで………! あの馬たちの魅力が何処だかちゃんと再確認しておきたいわけで………!
少なくとも自分が擬人化絵でも描くとき、一番最初はトゥーカッターにしようと心に誓いました(何 故 だ)。
「ワンダと巨像」も随分長いこと積んであるんですが、アクションゲームがどうにも苦手で、中々開封まで思い切りがつきません。
これで躓いていたら、プレイする予定の「大神」なんてどうなっちゃうのだ、と自分で自分を励まそうと思います。
先日書きました「奈落の城」ですが、二つのルートをクリアした結果、自分なりに、犯人とか謎だった部分のオチが、予想が出来てしまったので、ますます購入から遠ざかりそうな気がします。
いや、正解しているかどうかはわかりませんが、多分はずれでもない。
でもそれを言うなら、「雨格子の館」も犯人や動機そのものはわりとすぐにわかったわけであって。
だからといって、「雨格子の館」がつまらなかったということもないので、このへん、ゲームの色として判断するのは中々難しいですね。
純粋にあれかな、他の国のキャラクターに興味がないってそれだけかな。
「シャレード」
ケーリー・グラントがかっこいいです。
ハンフリー・ボガードのようにクセのあるタフな顔ではなく、どちらかといえば、言い方が妙ですが、日本の頑固親父のような威厳が似合う俳優さんです。髪の毛の薄さ加減とか、灰色加減(決して銀髪ではないところがツボ)とかが。
雰囲気が伯父に似ていると思ってしまったのは秘密だ。
顎が太くて、顔が正方形で、相手役のオードリー・ヘップバーンが華奢(というかヘップバーンが人妻っていうのが既になんだかありえないんだけど)なだけに、物事に動じない役が非常に合っています。
内容としてはサスペンスになるのかもしれませんが、「殺した犯人は誰だ」という見方をするよりは、「謎めいたあの男の正体は」という見方をする作品です。
問題は、次々に死ぬ人間を誰が殺したか、というより、自分の身近にいるあの男の正体は一体(殺人犯にしろ、そうでないにしろ)というところに肝が置かれているので、それを想像しながら、ヘップバーンと一緒に骨抜きになりましょう。
作中でも言われているんですが、「年が違いすぎる」「君の父親のような年齢」と明らかな年の差カップルは、見ていて楽しいです。
それまで恵まれぬ結婚生活を送っていたヘップバーンは、殺された夫との関係が保たれている初期の頃は、本当にくすんだ感じなんですが、いざグラントと出会うと、別人のようにファニーガールになるのが、これが恋の魔力かと納得。
グラントはヘップバーンが好きというより、「やれやれ仕方がないな」というくらいの感情でお世話をしており、それが結果として、「やっぱり仕方がないか」というように愛情に横滑りした感じで、立場的にはやはり父性。
その父性がだよ、最後自分のオフィスでヘップバーンを膝に乗せてキスしてるんだからもう、たまんねえな!
私は父性的な要素が強くても、それはそれでカップルとして成立すると思うので、突如友愛から愛情に横滑りしてしまう作品より、最初から最後まで互いの恋のスタンス絶対に違うけど、でもいいじゃん、という二人の方が見ていて楽しいです。
ヘップバーンは相変わらず衣装に非常に恵まれています。真っ赤なコートとかあんなに可愛く着こなせるの彼女くらいだ。
純粋なサスペンスやミステリーではありませんし、残酷描写が激しいわけでもないので、女性向な映画としてお勧めです。
「キャバレー」
元々はミュージカルだった作品を映画化。
主演はライザ・ミネリです。
この映画、凄く面白かったです。
説明が非常に難しいんですが、とにかく引き込む力が物凄かった。
ツタヤで、ミュージカルを適当にピックアップして借りた一本だったんですが、大当たりだった。
話の内容としては、実は誰が死ぬわけでもないし、何が起こるわけでもないそれでも人生は続く系の映画なのですが、この映画は、それでこそいいと思えてしまう力があります。
題名が「キャバレー」で、主人公のライザ・ミネリ扮するサリーは女優を夢見るキャバレーの踊り子兼歌うたい。
彼女の生き様を描く途中途中に、キャバレーでのショーが挿入されるという形になっているのですが、このショーが、とんでもなく下種で下世話で、圧倒的にパワーがあるので、目が釘付けになります。
サリーが出ていないショーもたくさんあるのですが、そのどれもが、なんていうか、泥臭くてきれいじゃない。メイクもそうですし、衣装も美しくない。
例えば映画「シカゴ」でも、ショーのシーンはたくさんでてくるのですが、そこにある、きれいさは欠片もありません。
強いて言えば迫力。
その一言に尽きると思います。
きれいなダンスを見て、身体機能に驚いたり、美しい歌声にうっとりしたり、というショーではないのです。
映画「キャバレー」における「ショー」は、あくまで、キャバレーで行われている舞台であって、それ以上でもそれ以下でもない。
サリーは現実でも舞台の上でも、はすっぱなで身勝手で、真っ黒で前髪を切りそろえたショートカット。真っ青なマスカラをこれでもかと塗り、唇は真っ赤。普段の衣装も柄物で言葉遣いも下品。
そんなサリーが踊る舞台は、彼女の個性を示す場であって、彼女がいかに芸術的であるかを見る場ではない。
彼女はあくまで女優になりたくて、その上で、チャンスと金を掴むために、キャバレーの舞台に登る。
その覚悟。
そして、客を楽しませるためにすら存在しない、仕事としての名もない踊り子や、バンドマンたちが作り上げる舞台は、ただ圧倒的な迫力の一言につきます。
照明の具合や、色合いが、油絵のように、重厚で、いや、もっとくすんでにごった画面のイメージが強いのですが、それはあくまでキャバレーのシーンと、サリーの部屋だけ。
一歩外に出ると、相手役のブライアンや、郊外のシーンではきれいな緑色が広がります。
朴訥な青年であるブライアン。彼と隣同士になったサリー。
「友情に肉体関係は邪魔よね」
と言いつつも、父親に愛されていないと泣くサリーを慰めるために、なし崩しに関係を持ってしまう。
恋人同士になっても、別の男が現れれば、その金や人柄に彼女は賛美を惜しまない。
それを許容しつつも、困惑し、そして関係を続けるブライアン。
こう書くと、ブライアンはただの朴念仁のようですが、そうではなく、むしろ普通の人間の感性に近く、それでいて、サリーを愛することが出来ている上でぶっ飛んでいる人間ともいえます。
恋だの愛だの、という台詞は実はこの二人からはあまり語られず、脇を固める人間たちのほうが、純粋に自分の立場や感情に悩まされ、恋愛映画らしい恋愛をしています。
サリーとブライアンは二人で共に過ごし、笑い、怒って泣いて、子供ができたと告白したときも、
「子供ができちゃったのよ、くそ!」
と悪態をつき、そして、
「聞かないの?」
「それなら聞くけど、誰の子?」
「多分貴方だと思うけど、断言は出来ないわ」
と、愛し合っている二人とは思えない会話を交わします。
この二人の関係の「らしさ」が絶妙で、サリーは全く嫌な女には見えないし、ブライアンもただの凡人には見えないのです。
結果、ブライアンはサリーに結婚を申し込み、サリーもそれを受けるのですが、最終的にサリーは中絶してしまいます。
「何故」
「ほんの気まぐれよ」
「理由を話してくれ」
「このままケンブリッジに帰ったら、喧嘩ばかりして仲が悪くなるのは目に見えてる。私はパブに入り浸って。私はわがままで浅はかな女だけど、どうしても女優になる夢を捨てられないの」
「………………」
「ブライアン、私貴方を愛してるわ」
「それはわかってるよ」
言葉だけ並べると、サリーの自己中心的考えばかりが目立つのですが、むしろ感情移入するのは、圧倒的にサリーのほう。
彼女が、そうしたい、そう生きたいというのは画面から嫌と言うほど伝わってきて、それを妨害するのは誰にもできない。
この物語は、ナチスドイツが台頭してくる時代の話なので、ところどころに差別表現や、戦争が向かっていくどうしようもない泥沼が垣間見えて、決して後味が言い訳でもなく、明るい話でもないのですが、それでもその中で輝くサリーの魅力と、キャバレーのどうしようもないただの舞台が非常に魅力的な作品でした。
ミュージカルと言うジャンルとは到底思えませんので、ライザ・ミネリの魅力を堪能されたい方は是非一度ご覧ください。
「こんなに世界は美しいのに………。こんなに世界は輝いているのに………」
と、ナウシカが思わずつぶやいてしまいそうなほどに、いいお天気が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
私は、本間さん宅で『奈落の城』をプレイさせていただいておりました。
実際、私は買ってないんですが、見させていただけるとのことで喜び勇んで参加。
全体的な感想としては、前作よりもよりいっそう、推理要素が薄い作品です。
推理というよりは、パズル要素が強く、たとえ推理を要する場面があったとしても、今考えなきゃいけないのってそれ? という進行側の精神面と、プレイヤー側の精神面の齟齬があちらこちらに見られます。
例えば、普通推理モノって、
Aが死ぬ→その犯人を捜すために、アリバイを確認したり、動機を暴いたりする→犯人がわかる、もしくはまた事件が起こる
みたいな流れがあると思うんですが、このゲームそんな流れぶっちぎりなので、中盤まで自分が何を求めて城内をさ迷っているのかよくわかりません。
大体、バッドEDに行かないために必要なものって、大体何処かの部屋に転がっている物品からフラグが立ったり、イベントが開始されたりするので、「事件からの推理」という流れはとりあえず置いておいて、この日までにコレを聞いておかなきゃ駄目(今わかっている事件と関係ない)とか、この日までにコレを見つけておかなきゃ駄目(やっぱり今わかっている事件に関係ない)とか、事件とは関係のない行動を取るのが必然とされている時点で、推理ゲームっていうのかな、と根本的なところがひっかかります。
推理ゲームというよりは、ADVゲームですね。
どこそこの部屋でサブマシンガンをゲットすれば、ドラゴンが倒せるぜとか、そういうバイオハザード系です。推理関係ない。
これも、何か事件が起こり、その捜査の途中で偶然見つけてそれが大事だと気づくとかそんなのならいいんですが、そういう流れもないので、話の聞き込みよりも、城内の家捜しという泥棒家業と必要とされるゲームなのです。
でも思い返してみれば、『雨格子の館』だって、人が死んでるのに、屋敷内の展示物を隠すという作業が求められましたから、このシリーズの必然ったらそうなのかもしれませんね。
極論ですが、このゲーム随分初期の段階で、推理そのものというか、動機とか、「この人がこういう理由でこうしたんじゃないの」「この人犯人じゃないの」「この事件ってこういうあらましだよねきっと」とか、その手の「筋」としての概要は大体わかるんじゃないかと思います。少なくとも我々はプレイしていて想像していたことは、大体想像通りでした。
二つのルートのEDを見ましたが、それによって別にびっくりするほど明らかな真相があばかれたわけでもありませんし。一つ目のルート内でわかったことを、あらためて別のルートで説明してくれたよね、くらいな。
物語の進み具合や、被害者は違っても、大本が違わないので、特別感慨も薄くなるんですよね。
推理一本に絞るのであれば、このゲーム実際かなりの苦行だと思います。
このゲームに必要なのは、推理力ではなく、忍耐力と三半規管の丈夫さだと信じて疑いません。
これがもう、3D画面で酔うんだ。
しかも、よりによって移動画面での操作性が最悪なので、主人公がこちらの思いもよらぬ場所へ移動してしまうこともしばしば。
意味のないところで画面が読み込まれたり、階段を登ったとたん画面切り替えで扉があったり(階段の前に現れた部屋の扉ではなく、階段を登りきってその階段を出るための扉)して、そのへんの視点や移動は非常に不親切です。
というか、あまり親切にしてやろうという気もなさそうです。このゲーム。
大体、物語の要である「時計」なんて、謎じゃなく、その操作方法が一番わかりません。
問題は謎じゃないんだぜ。我々は攻略サイト様に頼りきっていたので、その「謎」はわかっても、どうやって時計の針を動かすのか根本的なことが全くわからないで困惑することしばし。
なんなのだろう、この不親切さは。
作った人は、プレイヤーの忍耐を試したいSか、こんなゲーム作って喜んじゃうMか両極端だったんだと思います。
推理ゲームとして、万人にはとてもじゃないけれどお勧めできません。
推理の限界に挑戦というよりは、プレイヤーの地道な忍耐に挑戦、のほうが正しいのでは。
個人的には、半年くらい後に完璧なフローチャートが出きてからプレイするほうが精神面での安定は得られるのではないかと思います。
8時間ぐらいぶっ通しでプレイした後、我々は死んだように眠った………。
キャラクターの個性に関しては、まだ何ともいえませんが、『雨格子の館』のほうがキャラ立ちしていると思いました。
以下、ゲームネタバレ含みますので、自己責任において閲覧ください。
2009年3月追記。
クリア後の感想はコチラから。
と、ナウシカが思わずつぶやいてしまいそうなほどに、いいお天気が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
私は、本間さん宅で『奈落の城』をプレイさせていただいておりました。
実際、私は買ってないんですが、見させていただけるとのことで喜び勇んで参加。
全体的な感想としては、前作よりもよりいっそう、推理要素が薄い作品です。
推理というよりは、パズル要素が強く、たとえ推理を要する場面があったとしても、今考えなきゃいけないのってそれ? という進行側の精神面と、プレイヤー側の精神面の齟齬があちらこちらに見られます。
例えば、普通推理モノって、
Aが死ぬ→その犯人を捜すために、アリバイを確認したり、動機を暴いたりする→犯人がわかる、もしくはまた事件が起こる
みたいな流れがあると思うんですが、このゲームそんな流れぶっちぎりなので、中盤まで自分が何を求めて城内をさ迷っているのかよくわかりません。
大体、バッドEDに行かないために必要なものって、大体何処かの部屋に転がっている物品からフラグが立ったり、イベントが開始されたりするので、「事件からの推理」という流れはとりあえず置いておいて、この日までにコレを聞いておかなきゃ駄目(今わかっている事件と関係ない)とか、この日までにコレを見つけておかなきゃ駄目(やっぱり今わかっている事件に関係ない)とか、事件とは関係のない行動を取るのが必然とされている時点で、推理ゲームっていうのかな、と根本的なところがひっかかります。
推理ゲームというよりは、ADVゲームですね。
どこそこの部屋でサブマシンガンをゲットすれば、ドラゴンが倒せるぜとか、そういうバイオハザード系です。推理関係ない。
これも、何か事件が起こり、その捜査の途中で偶然見つけてそれが大事だと気づくとかそんなのならいいんですが、そういう流れもないので、話の聞き込みよりも、城内の家捜しという泥棒家業と必要とされるゲームなのです。
でも思い返してみれば、『雨格子の館』だって、人が死んでるのに、屋敷内の展示物を隠すという作業が求められましたから、このシリーズの必然ったらそうなのかもしれませんね。
極論ですが、このゲーム随分初期の段階で、推理そのものというか、動機とか、「この人がこういう理由でこうしたんじゃないの」「この人犯人じゃないの」「この事件ってこういうあらましだよねきっと」とか、その手の「筋」としての概要は大体わかるんじゃないかと思います。少なくとも我々はプレイしていて想像していたことは、大体想像通りでした。
二つのルートのEDを見ましたが、それによって別にびっくりするほど明らかな真相があばかれたわけでもありませんし。一つ目のルート内でわかったことを、あらためて別のルートで説明してくれたよね、くらいな。
物語の進み具合や、被害者は違っても、大本が違わないので、特別感慨も薄くなるんですよね。
推理一本に絞るのであれば、このゲーム実際かなりの苦行だと思います。
このゲームに必要なのは、推理力ではなく、忍耐力と三半規管の丈夫さだと信じて疑いません。
これがもう、3D画面で酔うんだ。
しかも、よりによって移動画面での操作性が最悪なので、主人公がこちらの思いもよらぬ場所へ移動してしまうこともしばしば。
意味のないところで画面が読み込まれたり、階段を登ったとたん画面切り替えで扉があったり(階段の前に現れた部屋の扉ではなく、階段を登りきってその階段を出るための扉)して、そのへんの視点や移動は非常に不親切です。
というか、あまり親切にしてやろうという気もなさそうです。このゲーム。
大体、物語の要である「時計」なんて、謎じゃなく、その操作方法が一番わかりません。
問題は謎じゃないんだぜ。我々は攻略サイト様に頼りきっていたので、その「謎」はわかっても、どうやって時計の針を動かすのか根本的なことが全くわからないで困惑することしばし。
なんなのだろう、この不親切さは。
作った人は、プレイヤーの忍耐を試したいSか、こんなゲーム作って喜んじゃうMか両極端だったんだと思います。
推理ゲームとして、万人にはとてもじゃないけれどお勧めできません。
推理の限界に挑戦というよりは、プレイヤーの地道な忍耐に挑戦、のほうが正しいのでは。
個人的には、半年くらい後に完璧なフローチャートが出きてからプレイするほうが精神面での安定は得られるのではないかと思います。
8時間ぐらいぶっ通しでプレイした後、我々は死んだように眠った………。
キャラクターの個性に関しては、まだ何ともいえませんが、『雨格子の館』のほうがキャラ立ちしていると思いました。
以下、ゲームネタバレ含みますので、自己責任において閲覧ください。
2009年3月追記。
クリア後の感想はコチラから。
どうにもツタヤディスカスで、画面が止まるDVDを掴まされることが多く、「なんだよ」と思いながら、半年振りくらいにPS2を起動させて、そちらで再生してみたところ、しっかり映りやがんの。
犯人はお前かDVDレコーダー!
と、PS2で見終わり念のため、レコーダーで再生してみたところ、ちゃんと映りやがんの。
なんなんだよ!
地デジ対応のテレビと共に、新しいレコーダーも買えってか!
レコーダー内臓のテレビ選べってか!
ちなみに私は、家電製品電子話題に全く詳しくないので、テレビもどうしていいんだかよくわからないまま今に至ります。
チューナー買えば今使ってるテレビでもいいんだっけ、え、住まいが対応してないとどうにもならないんだっけ、ええ?
来年、再来年後が楽しみです。
『王様と私』
ジョディ・フォスターが凄く好きで、『アンナと王様』は先に見ていたのですが、予想外に違う話でびっくり。
シリアスを求めるよりは、子どもっぽい王様の立ち居振る舞いを見て、にやりとする作品です。
見ようによっては、人種差別的(というほどでもないのは、私がその時代の人間ではないからなんでしょうか)に見えたりするのかもしれませんが、その辺は、笑いの要素として流せました。
主役の英国から来たアンナの可憐さと、ドレスの美しさに衝撃。
未亡人なので、若い娘らしい格好はしていないのですが、コルセットにまるで大きな花のように広がるドレスの裾は、まさに一枚の絵。
絞ったウェストに、ダーツの入った上着に、ストライプや青基調の衣装は、堅い美しさがあって、肩の見えるパーティードレスよりも、首元までしっかりと絞ってあるドレスの方が、より「女性的」でした。ああいう、ぴっちりした服装をどうにかしたいのが欲望ですよねえ(同意を求めないでください)。
セットの豪華さよりも、照明の使い方も見事でした。
ここで「この色を出したい」という照明のあて方や、小道具の色が非常にたくみで、CGもない頃にこれを人力で出していたのか、と思うとため息が出ます。光の当て方によってこうも違うんだなあ。
そして、眉のりりしい王様とアンナが踊るシーンは、あまりにも有名。
「これでは違う」
「違いませんわ」
「他の客とは手の位置が違う」
「………………………」
そう言って、ユル・ブリンナー扮する王が、アンナの腰に手を回すシーンは、踊りも始まっていないのに、思わず、「エロッ!」と叫びそうになりました。
いざ踊り始めてみれば、踊りというより、フロアを楽しげに飛び回っているという図のほうが正しいので、そこに行き着くまでの会話の方がムードがありました。
まあ王様のわがままさ加減も、許せる人と許せない人がいるのでしょうが、第一王妃の
「約束を守ってもらえなくても、それを忘れてしまうほどの言葉」
といううっとり歌には賛同しかねる。
どういううっとりだよそれ!
話の筋的には、『アンナと王様』のほうが好みです。というか、この二つ基本的には全然別の話です。
『アンナと王様』のほうがより政治色が強いですし、まずミュージカルではないし。自分の後宮の女が他の男と不義を働いたシーンも、より残酷な処刑という絵がはっきりと描かれ、その上で、アンナが聖書を投げるという宗教的描写もあり、どちらかといえば硬派な作品です。
最後も、(反転)死にそうなのになんでそんなに元気なんですか(反転終了)というツッコミをしたくなる『王様と私』よりも、『アンナと王様』の(反転)よりそう二人から遠ざかるカメラ。そしてナレーションで、その二人の関係は王の死まで続いたという、という終わりの方が静かで印象深かったです。台詞はちょっとうろ覚えですが。(反転終了)
あの時代の映画がお好きな方なら、可愛い衣装と、可愛い王様目当てで是非ご覧ください。
ユル・ブリンナーがちょっと背が低いのがまた萌えるんだ(笑)。
『モノノ怪』
以前お勧めいただいたような気がするんですが、夢でしょうか。
最近、そういうの凄く多いので、もし重複していたらすみません。
私結構長い間雑記を書いてきて、まず間違いなく同じ話題を二度三度語っている自信があるので。イヤー本当に脳みそ危なくなってきたわー。
さて、ノイタミナ枠で放映されて、その前衛的な色彩や動画で話題になった作品ですが、話の筋は殆ど理解できませんでした。みんな大丈夫だ! 私もさっぱりわからないぜ! と、どこかにいる誰かとちょっと肩を組みたい感じです。
私は元々、『岩窟王』とか『モノノ怪』のように、色彩感覚に尖がっていたり、なんていうか、奇抜なデザイン的なセンスに対する感性に乏しいので、その手の演出に関しては、わりと評価が低くなります。低いというか、あまり関心がないというほうが正しいのですが。
紙芝居のような動画にため息をつくよりも、主人公である薬売りがお札を何十枚も自分の周りに円筒形状(細かいが大切)に飛ばし、結界を作る「動き」のあるシーンのほうが好きです。
静止画が嫌いだというわけではまったくありませんが、この作品における静止の場は、奇抜な演出の場なので、それよりも、流れとして見られる場のほうが、好みなのです。
しかし、話よくわかりませんな。
今のところ、『座敷童子』と『海坊主』と『のっぺらぼう』まで見たんですが、なんかこう、わかったようなわからないような。
多分この作品、こういう雰囲気を味わうアニメなんでしょうね。
「これこれこういう話なのだ」という解釈をするよりは、「これこれこういう解釈も出来るよね」という楽しみ方の方がいいというか。物語のアラを探したいわけでもありませんし。
大体、理と真と形の意味も実は未だによく理解できません。
物語の最中で、薬売り自身がちゃんとわかってるみたいなので、まあそれはそれでいいのかな、と。
ただ、要所要所で妙に萌えるので要注意。
薬売りがエロいのは、ニコニコのMADで散々知っていたのですが、薬売りにはそれほど萌えず、のっぺらぼうに大萌えでした。
緑川氏と櫻井氏が一人の女を取り合うなんて、そんなシチュエーション、ネオロマ以外ありえないだろう!?(歪んだ視点)
『のっぺらぼう』の話自体は、精神的に追い詰められた女が、自らの心を殺し、澱をためて生きている。
その姿を見かねた、モノノ怪であるのっぺらぼうが、自分の力を使い、女に家族を殺して鬱憤を晴らさせる。
その幻想を見せ続け、女はその世界で自分を殺しすぎてモノノ怪になってしまい、妄想世界のループを繰り返す。
というような話だと思うんですが(私の解釈です、あくまで)、その妄想の中に、薬売りが現れるわけですよ。モノノ怪を切りに。奴の仕事なんだか知りませんが。
個人的には、妄想でもなんでもいいので、のっぺらぼうと女を無事に結婚させてあげてくださいよと思うんですが、薬売りは妙に意固地(そういう問題じゃない)ので、問答無用でモノノ怪を切ろうとするんですね。頼むからほっといてやれ。
まあ結局、薬売りは女の分身であるモノノ怪を切るっぽいんですが、はっきりとした描写は出てこず(でも剣は女のモノノ怪に反応して抜けたわけだから)、しかも、のっぺらぼうを切った描写がないために、私、ごく普通に、あののっぺらぼうは薬売りのもう一つの姿だとか、自然に解釈してしまいました。
顔は映りませんが、外見がのっぺらぼうと、薬売りが剣を抜いた状態(どうやら違う存在になるというか、身体が入れ替わるような設定らしいので、別人であっても(というかそれぞれ感知できない状態であっても)おかしくないのではと)と瓜二つで、かつ、薬売りがラストで、のっぺらぼうの使っていたキセルをふかしていて時点で、
「あ、なるほど。茶色の薬売りがあの女に惚れちゃって、こっちの白い薬売りは別にそれと関係なく、モノノ怪を切りにきたんだ。そりゃ、自分で自分は切れないよなあ。だからのっぺらぼうを切った描写はないんだ」
とか勝手に納得してました。
冷静に考えると、祝言の場所とか、女の作った世界で、のっぺらぼうと薬売りは対峙しているので、無理があるっちゃあ無理があるんですが、全く違う存在あり、茶色は、剣を抜かれて初めて「ああいう存在として認知される」のであれば、これもありかなあと。
実際はそんなことないんでしょうが、「それもありか」という、想像をさせる話作りとしては、この『のっぺらぼう』が一番上手かったです。
でも、どっちが物悲しいかと言えば、どこにでも転がっている、人に愛される可能性のない、ただのモノノ怪が、女に恋をした、という設定の方がより悲しいですよね。
自分で妄想しておいてなんですが、自分の妄想でない設定のほうが萌えます。
まだ「鵺」と「化け猫」は見ていないので、そちらはそちらで楽しみです。
最後にあまりに有名な「モノノ怪」MADのご紹介。
本当にこういう才能って羨ましい。自分の想像できるものをビジュアルに昇華できるって、本当に凄いことだと思います。
犯人はお前かDVDレコーダー!
と、PS2で見終わり念のため、レコーダーで再生してみたところ、ちゃんと映りやがんの。
なんなんだよ!
地デジ対応のテレビと共に、新しいレコーダーも買えってか!
レコーダー内臓のテレビ選べってか!
ちなみに私は、家電製品電子話題に全く詳しくないので、テレビもどうしていいんだかよくわからないまま今に至ります。
チューナー買えば今使ってるテレビでもいいんだっけ、え、住まいが対応してないとどうにもならないんだっけ、ええ?
来年、再来年後が楽しみです。
『王様と私』
ジョディ・フォスターが凄く好きで、『アンナと王様』は先に見ていたのですが、予想外に違う話でびっくり。
シリアスを求めるよりは、子どもっぽい王様の立ち居振る舞いを見て、にやりとする作品です。
見ようによっては、人種差別的(というほどでもないのは、私がその時代の人間ではないからなんでしょうか)に見えたりするのかもしれませんが、その辺は、笑いの要素として流せました。
主役の英国から来たアンナの可憐さと、ドレスの美しさに衝撃。
未亡人なので、若い娘らしい格好はしていないのですが、コルセットにまるで大きな花のように広がるドレスの裾は、まさに一枚の絵。
絞ったウェストに、ダーツの入った上着に、ストライプや青基調の衣装は、堅い美しさがあって、肩の見えるパーティードレスよりも、首元までしっかりと絞ってあるドレスの方が、より「女性的」でした。ああいう、ぴっちりした服装をどうにかしたいのが欲望ですよねえ(同意を求めないでください)。
セットの豪華さよりも、照明の使い方も見事でした。
ここで「この色を出したい」という照明のあて方や、小道具の色が非常にたくみで、CGもない頃にこれを人力で出していたのか、と思うとため息が出ます。光の当て方によってこうも違うんだなあ。
そして、眉のりりしい王様とアンナが踊るシーンは、あまりにも有名。
「これでは違う」
「違いませんわ」
「他の客とは手の位置が違う」
「………………………」
そう言って、ユル・ブリンナー扮する王が、アンナの腰に手を回すシーンは、踊りも始まっていないのに、思わず、「エロッ!」と叫びそうになりました。
いざ踊り始めてみれば、踊りというより、フロアを楽しげに飛び回っているという図のほうが正しいので、そこに行き着くまでの会話の方がムードがありました。
まあ王様のわがままさ加減も、許せる人と許せない人がいるのでしょうが、第一王妃の
「約束を守ってもらえなくても、それを忘れてしまうほどの言葉」
といううっとり歌には賛同しかねる。
どういううっとりだよそれ!
話の筋的には、『アンナと王様』のほうが好みです。というか、この二つ基本的には全然別の話です。
『アンナと王様』のほうがより政治色が強いですし、まずミュージカルではないし。自分の後宮の女が他の男と不義を働いたシーンも、より残酷な処刑という絵がはっきりと描かれ、その上で、アンナが聖書を投げるという宗教的描写もあり、どちらかといえば硬派な作品です。
最後も、(反転)死にそうなのになんでそんなに元気なんですか(反転終了)というツッコミをしたくなる『王様と私』よりも、『アンナと王様』の(反転)よりそう二人から遠ざかるカメラ。そしてナレーションで、その二人の関係は王の死まで続いたという、という終わりの方が静かで印象深かったです。台詞はちょっとうろ覚えですが。(反転終了)
あの時代の映画がお好きな方なら、可愛い衣装と、可愛い王様目当てで是非ご覧ください。
ユル・ブリンナーがちょっと背が低いのがまた萌えるんだ(笑)。
『モノノ怪』
以前お勧めいただいたような気がするんですが、夢でしょうか。
最近、そういうの凄く多いので、もし重複していたらすみません。
私結構長い間雑記を書いてきて、まず間違いなく同じ話題を二度三度語っている自信があるので。イヤー本当に脳みそ危なくなってきたわー。
さて、ノイタミナ枠で放映されて、その前衛的な色彩や動画で話題になった作品ですが、話の筋は殆ど理解できませんでした。みんな大丈夫だ! 私もさっぱりわからないぜ! と、どこかにいる誰かとちょっと肩を組みたい感じです。
私は元々、『岩窟王』とか『モノノ怪』のように、色彩感覚に尖がっていたり、なんていうか、奇抜なデザイン的なセンスに対する感性に乏しいので、その手の演出に関しては、わりと評価が低くなります。低いというか、あまり関心がないというほうが正しいのですが。
紙芝居のような動画にため息をつくよりも、主人公である薬売りがお札を何十枚も自分の周りに円筒形状(細かいが大切)に飛ばし、結界を作る「動き」のあるシーンのほうが好きです。
静止画が嫌いだというわけではまったくありませんが、この作品における静止の場は、奇抜な演出の場なので、それよりも、流れとして見られる場のほうが、好みなのです。
しかし、話よくわかりませんな。
今のところ、『座敷童子』と『海坊主』と『のっぺらぼう』まで見たんですが、なんかこう、わかったようなわからないような。
多分この作品、こういう雰囲気を味わうアニメなんでしょうね。
「これこれこういう話なのだ」という解釈をするよりは、「これこれこういう解釈も出来るよね」という楽しみ方の方がいいというか。物語のアラを探したいわけでもありませんし。
大体、理と真と形の意味も実は未だによく理解できません。
物語の最中で、薬売り自身がちゃんとわかってるみたいなので、まあそれはそれでいいのかな、と。
ただ、要所要所で妙に萌えるので要注意。
薬売りがエロいのは、ニコニコのMADで散々知っていたのですが、薬売りにはそれほど萌えず、のっぺらぼうに大萌えでした。
緑川氏と櫻井氏が一人の女を取り合うなんて、そんなシチュエーション、ネオロマ以外ありえないだろう!?(歪んだ視点)
『のっぺらぼう』の話自体は、精神的に追い詰められた女が、自らの心を殺し、澱をためて生きている。
その姿を見かねた、モノノ怪であるのっぺらぼうが、自分の力を使い、女に家族を殺して鬱憤を晴らさせる。
その幻想を見せ続け、女はその世界で自分を殺しすぎてモノノ怪になってしまい、妄想世界のループを繰り返す。
というような話だと思うんですが(私の解釈です、あくまで)、その妄想の中に、薬売りが現れるわけですよ。モノノ怪を切りに。奴の仕事なんだか知りませんが。
個人的には、妄想でもなんでもいいので、のっぺらぼうと女を無事に結婚させてあげてくださいよと思うんですが、薬売りは妙に意固地(そういう問題じゃない)ので、問答無用でモノノ怪を切ろうとするんですね。頼むからほっといてやれ。
まあ結局、薬売りは女の分身であるモノノ怪を切るっぽいんですが、はっきりとした描写は出てこず(でも剣は女のモノノ怪に反応して抜けたわけだから)、しかも、のっぺらぼうを切った描写がないために、私、ごく普通に、あののっぺらぼうは薬売りのもう一つの姿だとか、自然に解釈してしまいました。
顔は映りませんが、外見がのっぺらぼうと、薬売りが剣を抜いた状態(どうやら違う存在になるというか、身体が入れ替わるような設定らしいので、別人であっても(というかそれぞれ感知できない状態であっても)おかしくないのではと)と瓜二つで、かつ、薬売りがラストで、のっぺらぼうの使っていたキセルをふかしていて時点で、
「あ、なるほど。茶色の薬売りがあの女に惚れちゃって、こっちの白い薬売りは別にそれと関係なく、モノノ怪を切りにきたんだ。そりゃ、自分で自分は切れないよなあ。だからのっぺらぼうを切った描写はないんだ」
とか勝手に納得してました。
冷静に考えると、祝言の場所とか、女の作った世界で、のっぺらぼうと薬売りは対峙しているので、無理があるっちゃあ無理があるんですが、全く違う存在あり、茶色は、剣を抜かれて初めて「ああいう存在として認知される」のであれば、これもありかなあと。
実際はそんなことないんでしょうが、「それもありか」という、想像をさせる話作りとしては、この『のっぺらぼう』が一番上手かったです。
でも、どっちが物悲しいかと言えば、どこにでも転がっている、人に愛される可能性のない、ただのモノノ怪が、女に恋をした、という設定の方がより悲しいですよね。
自分で妄想しておいてなんですが、自分の妄想でない設定のほうが萌えます。
まだ「鵺」と「化け猫」は見ていないので、そちらはそちらで楽しみです。
最後にあまりに有名な「モノノ怪」MADのご紹介。
本当にこういう才能って羨ましい。自分の想像できるものをビジュアルに昇華できるって、本当に凄いことだと思います。
『Nights of the Knife』NScripter版公開。体験版撤去。
『創作』に「Nights of the Knife」SS、4コマ漫画色々更新。
まず、NS版公開が非常に遅くなってしまったことを、深くお詫び申し上げます。また来年とか言ってましたが、来年どころの騒ぎじゃなかった。
乙女ゲーム製作サイトであった『陸路の果て』は今回の更新にて、ゲーム製作活動を終了いたします。
展示物の撤去などは考えておりませんので、作品そのものが消えることはありませんが、今後、ゲーム製作をする予定はありませんので、ご了承ください。
創作などは行うかもしれませんが、未来の予定は未定です。
当初のこちらの目的であった、ゲームを製作してみる、という欲求は今回のNスク版移植で叶えられましたので、キリがいいところで終了したいと思います。
あっさり始まって、あっさり終わるサイト基本理念も達成されました(あったのかそんなもの)。
元々、立ち絵もない下手すりゃスチルもないところから始まった乙女ゲームをプレイしていただいた皆様には、感謝の念が絶えません。
現実的に、ゲームを作るという一連の流れが、あまりに時間がかかってしまい、他のことが一切できない状況に陥ったり、自分でも作品を作る、というモチベーションが、時間をかければかけるほど極端に下がってしまうこともあり、今回サイト終了となりました。いやもう、あまりに何度も自分のゲームを見る羽目になって、叩き潰したくなった(ご自分の脳をですか)。
ゲームのご指摘、誤字脱字などの報告は随時受け付けておりますので、遠慮なくお申し出ください。
文章だけなら、更新するかもしれませんが、私も根っからのゲーム好き。全く同じ内容であっても、小説とゲームでは印象が全く違うのも百も承知です。需要としても、例えば乙女小説よりも、乙女ゲームのほうがあるでしょうし、また、大体土俵が違うのに比べるのもおかしな話です。
そういったわけで、区切りをつけるためにも、『ゲーム製作は終了』にさせていただきたく思います。
今まで、『陸路の果て』に訪れてくださった方、ゲームをプレイしてくださった方に、改めてお礼申し上げます。 皆様のご意見、ご感想はすべて非常にためになりました。
ありがとうございました。
これからも皆様の萌え人生にも幸多からんことを。
『創作』に「Nights of the Knife」SS、4コマ漫画色々更新。
まず、NS版公開が非常に遅くなってしまったことを、深くお詫び申し上げます。また来年とか言ってましたが、来年どころの騒ぎじゃなかった。
乙女ゲーム製作サイトであった『陸路の果て』は今回の更新にて、ゲーム製作活動を終了いたします。
展示物の撤去などは考えておりませんので、作品そのものが消えることはありませんが、今後、ゲーム製作をする予定はありませんので、ご了承ください。
創作などは行うかもしれませんが、未来の予定は未定です。
当初のこちらの目的であった、ゲームを製作してみる、という欲求は今回のNスク版移植で叶えられましたので、キリがいいところで終了したいと思います。
あっさり始まって、あっさり終わるサイト基本理念も達成されました(あったのかそんなもの)。
元々、立ち絵もない下手すりゃスチルもないところから始まった乙女ゲームをプレイしていただいた皆様には、感謝の念が絶えません。
現実的に、ゲームを作るという一連の流れが、あまりに時間がかかってしまい、他のことが一切できない状況に陥ったり、自分でも作品を作る、というモチベーションが、時間をかければかけるほど極端に下がってしまうこともあり、今回サイト終了となりました。いやもう、あまりに何度も自分のゲームを見る羽目になって、叩き潰したくなった(ご自分の脳をですか)。
ゲームのご指摘、誤字脱字などの報告は随時受け付けておりますので、遠慮なくお申し出ください。
文章だけなら、更新するかもしれませんが、私も根っからのゲーム好き。全く同じ内容であっても、小説とゲームでは印象が全く違うのも百も承知です。需要としても、例えば乙女小説よりも、乙女ゲームのほうがあるでしょうし、また、大体土俵が違うのに比べるのもおかしな話です。
そういったわけで、区切りをつけるためにも、『ゲーム製作は終了』にさせていただきたく思います。
今まで、『陸路の果て』に訪れてくださった方、ゲームをプレイしてくださった方に、改めてお礼申し上げます。 皆様のご意見、ご感想はすべて非常にためになりました。
ありがとうございました。
これからも皆様の萌え人生にも幸多からんことを。