どうにもツタヤディスカスで、画面が止まるDVDを掴まされることが多く、「なんだよ」と思いながら、半年振りくらいにPS2を起動させて、そちらで再生してみたところ、しっかり映りやがんの。
犯人はお前かDVDレコーダー!
と、PS2で見終わり念のため、レコーダーで再生してみたところ、ちゃんと映りやがんの。
なんなんだよ!
地デジ対応のテレビと共に、新しいレコーダーも買えってか!
レコーダー内臓のテレビ選べってか!
ちなみに私は、家電製品電子話題に全く詳しくないので、テレビもどうしていいんだかよくわからないまま今に至ります。
チューナー買えば今使ってるテレビでもいいんだっけ、え、住まいが対応してないとどうにもならないんだっけ、ええ?
来年、再来年後が楽しみです。
『王様と私』
ジョディ・フォスターが凄く好きで、『アンナと王様』は先に見ていたのですが、予想外に違う話でびっくり。
シリアスを求めるよりは、子どもっぽい王様の立ち居振る舞いを見て、にやりとする作品です。
見ようによっては、人種差別的(というほどでもないのは、私がその時代の人間ではないからなんでしょうか)に見えたりするのかもしれませんが、その辺は、笑いの要素として流せました。
主役の英国から来たアンナの可憐さと、ドレスの美しさに衝撃。
未亡人なので、若い娘らしい格好はしていないのですが、コルセットにまるで大きな花のように広がるドレスの裾は、まさに一枚の絵。
絞ったウェストに、ダーツの入った上着に、ストライプや青基調の衣装は、堅い美しさがあって、肩の見えるパーティードレスよりも、首元までしっかりと絞ってあるドレスの方が、より「女性的」でした。ああいう、ぴっちりした服装をどうにかしたいのが欲望ですよねえ(同意を求めないでください)。
セットの豪華さよりも、照明の使い方も見事でした。
ここで「この色を出したい」という照明のあて方や、小道具の色が非常にたくみで、CGもない頃にこれを人力で出していたのか、と思うとため息が出ます。光の当て方によってこうも違うんだなあ。
そして、眉のりりしい王様とアンナが踊るシーンは、あまりにも有名。
「これでは違う」
「違いませんわ」
「他の客とは手の位置が違う」
「………………………」
そう言って、ユル・ブリンナー扮する王が、アンナの腰に手を回すシーンは、踊りも始まっていないのに、思わず、「エロッ!」と叫びそうになりました。
いざ踊り始めてみれば、踊りというより、フロアを楽しげに飛び回っているという図のほうが正しいので、そこに行き着くまでの会話の方がムードがありました。
まあ王様のわがままさ加減も、許せる人と許せない人がいるのでしょうが、第一王妃の
「約束を守ってもらえなくても、それを忘れてしまうほどの言葉」
といううっとり歌には賛同しかねる。
どういううっとりだよそれ!
話の筋的には、『アンナと王様』のほうが好みです。というか、この二つ基本的には全然別の話です。
『アンナと王様』のほうがより政治色が強いですし、まずミュージカルではないし。自分の後宮の女が他の男と不義を働いたシーンも、より残酷な処刑という絵がはっきりと描かれ、その上で、アンナが聖書を投げるという宗教的描写もあり、どちらかといえば硬派な作品です。
最後も、(反転)死にそうなのになんでそんなに元気なんですか(反転終了)というツッコミをしたくなる『王様と私』よりも、『アンナと王様』の(反転)よりそう二人から遠ざかるカメラ。そしてナレーションで、その二人の関係は王の死まで続いたという、という終わりの方が静かで印象深かったです。台詞はちょっとうろ覚えですが。(反転終了)
あの時代の映画がお好きな方なら、可愛い衣装と、可愛い王様目当てで是非ご覧ください。
ユル・ブリンナーがちょっと背が低いのがまた萌えるんだ(笑)。
『モノノ怪』
以前お勧めいただいたような気がするんですが、夢でしょうか。
最近、そういうの凄く多いので、もし重複していたらすみません。
私結構長い間雑記を書いてきて、まず間違いなく同じ話題を二度三度語っている自信があるので。イヤー本当に脳みそ危なくなってきたわー。
さて、ノイタミナ枠で放映されて、その前衛的な色彩や動画で話題になった作品ですが、話の筋は殆ど理解できませんでした。みんな大丈夫だ! 私もさっぱりわからないぜ! と、どこかにいる誰かとちょっと肩を組みたい感じです。
私は元々、『岩窟王』とか『モノノ怪』のように、色彩感覚に尖がっていたり、なんていうか、奇抜なデザイン的なセンスに対する感性に乏しいので、その手の演出に関しては、わりと評価が低くなります。低いというか、あまり関心がないというほうが正しいのですが。
紙芝居のような動画にため息をつくよりも、主人公である薬売りがお札を何十枚も自分の周りに円筒形状(細かいが大切)に飛ばし、結界を作る「動き」のあるシーンのほうが好きです。
静止画が嫌いだというわけではまったくありませんが、この作品における静止の場は、奇抜な演出の場なので、それよりも、流れとして見られる場のほうが、好みなのです。
しかし、話よくわかりませんな。
今のところ、『座敷童子』と『海坊主』と『のっぺらぼう』まで見たんですが、なんかこう、わかったようなわからないような。
多分この作品、こういう雰囲気を味わうアニメなんでしょうね。
「これこれこういう話なのだ」という解釈をするよりは、「これこれこういう解釈も出来るよね」という楽しみ方の方がいいというか。物語のアラを探したいわけでもありませんし。
大体、理と真と形の意味も実は未だによく理解できません。
物語の最中で、薬売り自身がちゃんとわかってるみたいなので、まあそれはそれでいいのかな、と。
ただ、要所要所で妙に萌えるので要注意。
薬売りがエロいのは、ニコニコのMADで散々知っていたのですが、薬売りにはそれほど萌えず、のっぺらぼうに大萌えでした。
緑川氏と櫻井氏が一人の女を取り合うなんて、そんなシチュエーション、ネオロマ以外ありえないだろう!?(歪んだ視点)
『のっぺらぼう』の話自体は、精神的に追い詰められた女が、自らの心を殺し、澱をためて生きている。
その姿を見かねた、モノノ怪であるのっぺらぼうが、自分の力を使い、女に家族を殺して鬱憤を晴らさせる。
その幻想を見せ続け、女はその世界で自分を殺しすぎてモノノ怪になってしまい、妄想世界のループを繰り返す。
というような話だと思うんですが(私の解釈です、あくまで)、その妄想の中に、薬売りが現れるわけですよ。モノノ怪を切りに。奴の仕事なんだか知りませんが。
個人的には、妄想でもなんでもいいので、のっぺらぼうと女を無事に結婚させてあげてくださいよと思うんですが、薬売りは妙に意固地(そういう問題じゃない)ので、問答無用でモノノ怪を切ろうとするんですね。頼むからほっといてやれ。
まあ結局、薬売りは女の分身であるモノノ怪を切るっぽいんですが、はっきりとした描写は出てこず(でも剣は女のモノノ怪に反応して抜けたわけだから)、しかも、のっぺらぼうを切った描写がないために、私、ごく普通に、あののっぺらぼうは薬売りのもう一つの姿だとか、自然に解釈してしまいました。
顔は映りませんが、外見がのっぺらぼうと、薬売りが剣を抜いた状態(どうやら違う存在になるというか、身体が入れ替わるような設定らしいので、別人であっても(というかそれぞれ感知できない状態であっても)おかしくないのではと)と瓜二つで、かつ、薬売りがラストで、のっぺらぼうの使っていたキセルをふかしていて時点で、
「あ、なるほど。茶色の薬売りがあの女に惚れちゃって、こっちの白い薬売りは別にそれと関係なく、モノノ怪を切りにきたんだ。そりゃ、自分で自分は切れないよなあ。だからのっぺらぼうを切った描写はないんだ」
とか勝手に納得してました。
冷静に考えると、祝言の場所とか、女の作った世界で、のっぺらぼうと薬売りは対峙しているので、無理があるっちゃあ無理があるんですが、全く違う存在あり、茶色は、剣を抜かれて初めて「ああいう存在として認知される」のであれば、これもありかなあと。
実際はそんなことないんでしょうが、「それもありか」という、想像をさせる話作りとしては、この『のっぺらぼう』が一番上手かったです。
でも、どっちが物悲しいかと言えば、どこにでも転がっている、人に愛される可能性のない、ただのモノノ怪が、女に恋をした、という設定の方がより悲しいですよね。
自分で妄想しておいてなんですが、自分の妄想でない設定のほうが萌えます。
まだ「鵺」と「化け猫」は見ていないので、そちらはそちらで楽しみです。
最後にあまりに有名な「モノノ怪」MADのご紹介。
本当にこういう才能って羨ましい。自分の想像できるものをビジュアルに昇華できるって、本当に凄いことだと思います。
犯人はお前かDVDレコーダー!
と、PS2で見終わり念のため、レコーダーで再生してみたところ、ちゃんと映りやがんの。
なんなんだよ!
地デジ対応のテレビと共に、新しいレコーダーも買えってか!
レコーダー内臓のテレビ選べってか!
ちなみに私は、家電製品電子話題に全く詳しくないので、テレビもどうしていいんだかよくわからないまま今に至ります。
チューナー買えば今使ってるテレビでもいいんだっけ、え、住まいが対応してないとどうにもならないんだっけ、ええ?
来年、再来年後が楽しみです。
『王様と私』
ジョディ・フォスターが凄く好きで、『アンナと王様』は先に見ていたのですが、予想外に違う話でびっくり。
シリアスを求めるよりは、子どもっぽい王様の立ち居振る舞いを見て、にやりとする作品です。
見ようによっては、人種差別的(というほどでもないのは、私がその時代の人間ではないからなんでしょうか)に見えたりするのかもしれませんが、その辺は、笑いの要素として流せました。
主役の英国から来たアンナの可憐さと、ドレスの美しさに衝撃。
未亡人なので、若い娘らしい格好はしていないのですが、コルセットにまるで大きな花のように広がるドレスの裾は、まさに一枚の絵。
絞ったウェストに、ダーツの入った上着に、ストライプや青基調の衣装は、堅い美しさがあって、肩の見えるパーティードレスよりも、首元までしっかりと絞ってあるドレスの方が、より「女性的」でした。ああいう、ぴっちりした服装をどうにかしたいのが欲望ですよねえ(同意を求めないでください)。
セットの豪華さよりも、照明の使い方も見事でした。
ここで「この色を出したい」という照明のあて方や、小道具の色が非常にたくみで、CGもない頃にこれを人力で出していたのか、と思うとため息が出ます。光の当て方によってこうも違うんだなあ。
そして、眉のりりしい王様とアンナが踊るシーンは、あまりにも有名。
「これでは違う」
「違いませんわ」
「他の客とは手の位置が違う」
「………………………」
そう言って、ユル・ブリンナー扮する王が、アンナの腰に手を回すシーンは、踊りも始まっていないのに、思わず、「エロッ!」と叫びそうになりました。
いざ踊り始めてみれば、踊りというより、フロアを楽しげに飛び回っているという図のほうが正しいので、そこに行き着くまでの会話の方がムードがありました。
まあ王様のわがままさ加減も、許せる人と許せない人がいるのでしょうが、第一王妃の
「約束を守ってもらえなくても、それを忘れてしまうほどの言葉」
といううっとり歌には賛同しかねる。
どういううっとりだよそれ!
話の筋的には、『アンナと王様』のほうが好みです。というか、この二つ基本的には全然別の話です。
『アンナと王様』のほうがより政治色が強いですし、まずミュージカルではないし。自分の後宮の女が他の男と不義を働いたシーンも、より残酷な処刑という絵がはっきりと描かれ、その上で、アンナが聖書を投げるという宗教的描写もあり、どちらかといえば硬派な作品です。
最後も、(反転)死にそうなのになんでそんなに元気なんですか(反転終了)というツッコミをしたくなる『王様と私』よりも、『アンナと王様』の(反転)よりそう二人から遠ざかるカメラ。そしてナレーションで、その二人の関係は王の死まで続いたという、という終わりの方が静かで印象深かったです。台詞はちょっとうろ覚えですが。(反転終了)
あの時代の映画がお好きな方なら、可愛い衣装と、可愛い王様目当てで是非ご覧ください。
ユル・ブリンナーがちょっと背が低いのがまた萌えるんだ(笑)。
『モノノ怪』
以前お勧めいただいたような気がするんですが、夢でしょうか。
最近、そういうの凄く多いので、もし重複していたらすみません。
私結構長い間雑記を書いてきて、まず間違いなく同じ話題を二度三度語っている自信があるので。イヤー本当に脳みそ危なくなってきたわー。
さて、ノイタミナ枠で放映されて、その前衛的な色彩や動画で話題になった作品ですが、話の筋は殆ど理解できませんでした。みんな大丈夫だ! 私もさっぱりわからないぜ! と、どこかにいる誰かとちょっと肩を組みたい感じです。
私は元々、『岩窟王』とか『モノノ怪』のように、色彩感覚に尖がっていたり、なんていうか、奇抜なデザイン的なセンスに対する感性に乏しいので、その手の演出に関しては、わりと評価が低くなります。低いというか、あまり関心がないというほうが正しいのですが。
紙芝居のような動画にため息をつくよりも、主人公である薬売りがお札を何十枚も自分の周りに円筒形状(細かいが大切)に飛ばし、結界を作る「動き」のあるシーンのほうが好きです。
静止画が嫌いだというわけではまったくありませんが、この作品における静止の場は、奇抜な演出の場なので、それよりも、流れとして見られる場のほうが、好みなのです。
しかし、話よくわかりませんな。
今のところ、『座敷童子』と『海坊主』と『のっぺらぼう』まで見たんですが、なんかこう、わかったようなわからないような。
多分この作品、こういう雰囲気を味わうアニメなんでしょうね。
「これこれこういう話なのだ」という解釈をするよりは、「これこれこういう解釈も出来るよね」という楽しみ方の方がいいというか。物語のアラを探したいわけでもありませんし。
大体、理と真と形の意味も実は未だによく理解できません。
物語の最中で、薬売り自身がちゃんとわかってるみたいなので、まあそれはそれでいいのかな、と。
ただ、要所要所で妙に萌えるので要注意。
薬売りがエロいのは、ニコニコのMADで散々知っていたのですが、薬売りにはそれほど萌えず、のっぺらぼうに大萌えでした。
緑川氏と櫻井氏が一人の女を取り合うなんて、そんなシチュエーション、ネオロマ以外ありえないだろう!?(歪んだ視点)
『のっぺらぼう』の話自体は、精神的に追い詰められた女が、自らの心を殺し、澱をためて生きている。
その姿を見かねた、モノノ怪であるのっぺらぼうが、自分の力を使い、女に家族を殺して鬱憤を晴らさせる。
その幻想を見せ続け、女はその世界で自分を殺しすぎてモノノ怪になってしまい、妄想世界のループを繰り返す。
というような話だと思うんですが(私の解釈です、あくまで)、その妄想の中に、薬売りが現れるわけですよ。モノノ怪を切りに。奴の仕事なんだか知りませんが。
個人的には、妄想でもなんでもいいので、のっぺらぼうと女を無事に結婚させてあげてくださいよと思うんですが、薬売りは妙に意固地(そういう問題じゃない)ので、問答無用でモノノ怪を切ろうとするんですね。頼むからほっといてやれ。
まあ結局、薬売りは女の分身であるモノノ怪を切るっぽいんですが、はっきりとした描写は出てこず(でも剣は女のモノノ怪に反応して抜けたわけだから)、しかも、のっぺらぼうを切った描写がないために、私、ごく普通に、あののっぺらぼうは薬売りのもう一つの姿だとか、自然に解釈してしまいました。
顔は映りませんが、外見がのっぺらぼうと、薬売りが剣を抜いた状態(どうやら違う存在になるというか、身体が入れ替わるような設定らしいので、別人であっても(というかそれぞれ感知できない状態であっても)おかしくないのではと)と瓜二つで、かつ、薬売りがラストで、のっぺらぼうの使っていたキセルをふかしていて時点で、
「あ、なるほど。茶色の薬売りがあの女に惚れちゃって、こっちの白い薬売りは別にそれと関係なく、モノノ怪を切りにきたんだ。そりゃ、自分で自分は切れないよなあ。だからのっぺらぼうを切った描写はないんだ」
とか勝手に納得してました。
冷静に考えると、祝言の場所とか、女の作った世界で、のっぺらぼうと薬売りは対峙しているので、無理があるっちゃあ無理があるんですが、全く違う存在あり、茶色は、剣を抜かれて初めて「ああいう存在として認知される」のであれば、これもありかなあと。
実際はそんなことないんでしょうが、「それもありか」という、想像をさせる話作りとしては、この『のっぺらぼう』が一番上手かったです。
でも、どっちが物悲しいかと言えば、どこにでも転がっている、人に愛される可能性のない、ただのモノノ怪が、女に恋をした、という設定の方がより悲しいですよね。
自分で妄想しておいてなんですが、自分の妄想でない設定のほうが萌えます。
まだ「鵺」と「化け猫」は見ていないので、そちらはそちらで楽しみです。
最後にあまりに有名な「モノノ怪」MADのご紹介。
本当にこういう才能って羨ましい。自分の想像できるものをビジュアルに昇華できるって、本当に凄いことだと思います。
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