『シド』創作に、『采配のゆくえ』島津豊久短文更新。
久しぶりの二次創作に、血が騒ぎました。 よろしければ、ご意見などお聞かせください。
以下『采配のゆくえ』島津豊久妄想。
若干島津歴史談義。
豊久と奥さんの関係とか調べだすと結構面白いですね。
返す返すも、奥さんの名前がわからないのが悔しいなあ。
ちょこちょこと調べてみた限りだと、豊久はどうやらバリバリ政略結婚だったらしいですね。
島津忠長の長女さんらしいんですが、(豊久とは又従兄弟の関係)豊久の父親と、忠長がもめてその仲直りの一環だったとかなんとか。
縁戚関係で結婚したり、人質だったり、仲直りだったりするのは、別に戦国時代では珍しくもないと思うので、きっかけはどうあれ、二人はとりあえず夫婦だったわけですが、殆ど結婚生活がないんですな。
揉め事があったのが、1584年といわれ、その当時姫は11歳。
その後豊久と結婚し、小田原攻めが1590年で奥さん17歳の時。その時にはもう結婚しているので、まあ15歳くらいで結婚したとして、一緒にいたのは二年間くらい。
その後は、1592年に朝鮮出兵が始まりまた別れ別れになって、1598年に終結。
その二年後、1600年に豊久死亡。
正味、六年間くらいしか一緒にいられなかった夫婦って、どうなの………!!(多分江戸と薩摩の往復だからもっと少ない)
しかも、豊久と奥さんの間には子供がおらず、それを不仲と見るべきなのか、そんなことしている暇もなかったと見るべきか、どちらかの身体の状況があったのか、と、とにかくこの夫婦、色々な意味で関係性が不透明な感じです。
また、豊久の死後後妻として町田久幸と結婚しているんですが、そこでも出産を経験しないで三十八歳で死亡しています。
この町田久幸も豊久と同じように、大忙しの人だったので、子供もおらず、殆ど一緒に暮らしていないことを考えると、やはり、豊久との間に子供がいないのも、多忙の二文字で片付けられてしまうような気がします。
本当に豊久が、子供作る気満々の人間であれば、いくらでも側室を持てばいいし、江戸で作ったっていいんだし、そういう意味では、お互いが嫌いで子供ができなかった、という関係ではないといいなーと思ってしまうのは、私がネオロマに毒されているからでしょうか。
本当に奥さんが嫌いだったら、逆にその反動で、他所にぼこぼこ女を作って、結果子供がいそうだし。
今のご時勢より、戦国時代は子供を作るということが死活問題だったこともあって、作るのは仕事のうち、と考えると、やっぱり豊久は率先的に女性と関係を持ったり、おのれの血族を残すことに熱心じゃなかったのかな、と。うーんストイック。
父親が変死(まあ病死なんでしょうけども)したせいもあり、家族とか身内とかいうものに、若干懐疑的というか。
それでも自分を必要としてくれた伯父には、一族の人間として報いたいとか、このアンビバレンツ感がなんともいえません。(断るまでもないですが勿論妄想ですよ)
そんな、一族の中で微妙な立場の豊久と、例え政略結婚で、長い間一緒にいられなかったとしても、それでも互いが互いに大切な人であって欲しいなあと思いました。
久しぶりの二次創作に、血が騒ぎました。 よろしければ、ご意見などお聞かせください。
以下『采配のゆくえ』島津豊久妄想。
若干島津歴史談義。
豊久と奥さんの関係とか調べだすと結構面白いですね。
返す返すも、奥さんの名前がわからないのが悔しいなあ。
ちょこちょこと調べてみた限りだと、豊久はどうやらバリバリ政略結婚だったらしいですね。
島津忠長の長女さんらしいんですが、(豊久とは又従兄弟の関係)豊久の父親と、忠長がもめてその仲直りの一環だったとかなんとか。
縁戚関係で結婚したり、人質だったり、仲直りだったりするのは、別に戦国時代では珍しくもないと思うので、きっかけはどうあれ、二人はとりあえず夫婦だったわけですが、殆ど結婚生活がないんですな。
揉め事があったのが、1584年といわれ、その当時姫は11歳。
その後豊久と結婚し、小田原攻めが1590年で奥さん17歳の時。その時にはもう結婚しているので、まあ15歳くらいで結婚したとして、一緒にいたのは二年間くらい。
その後は、1592年に朝鮮出兵が始まりまた別れ別れになって、1598年に終結。
その二年後、1600年に豊久死亡。
正味、六年間くらいしか一緒にいられなかった夫婦って、どうなの………!!(多分江戸と薩摩の往復だからもっと少ない)
しかも、豊久と奥さんの間には子供がおらず、それを不仲と見るべきなのか、そんなことしている暇もなかったと見るべきか、どちらかの身体の状況があったのか、と、とにかくこの夫婦、色々な意味で関係性が不透明な感じです。
また、豊久の死後後妻として町田久幸と結婚しているんですが、そこでも出産を経験しないで三十八歳で死亡しています。
この町田久幸も豊久と同じように、大忙しの人だったので、子供もおらず、殆ど一緒に暮らしていないことを考えると、やはり、豊久との間に子供がいないのも、多忙の二文字で片付けられてしまうような気がします。
本当に豊久が、子供作る気満々の人間であれば、いくらでも側室を持てばいいし、江戸で作ったっていいんだし、そういう意味では、お互いが嫌いで子供ができなかった、という関係ではないといいなーと思ってしまうのは、私がネオロマに毒されているからでしょうか。
本当に奥さんが嫌いだったら、逆にその反動で、他所にぼこぼこ女を作って、結果子供がいそうだし。
今のご時勢より、戦国時代は子供を作るということが死活問題だったこともあって、作るのは仕事のうち、と考えると、やっぱり豊久は率先的に女性と関係を持ったり、おのれの血族を残すことに熱心じゃなかったのかな、と。うーんストイック。
父親が変死(まあ病死なんでしょうけども)したせいもあり、家族とか身内とかいうものに、若干懐疑的というか。
それでも自分を必要としてくれた伯父には、一族の人間として報いたいとか、このアンビバレンツ感がなんともいえません。(断るまでもないですが勿論妄想ですよ)
そんな、一族の中で微妙な立場の豊久と、例え政略結婚で、長い間一緒にいられなかったとしても、それでも互いが互いに大切な人であって欲しいなあと思いました。
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