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日々のつれづれ。ネタバレに過剰な配慮はしておりません。
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『スーパーマンリターンズ』公式サイト
また何故このさくひ…おっと、ジェームズ・マーズデンの出番はそこまでだ。
ということで、全くスーパーマンの知識がないまま鑑賞しました。なんだか旧作では地球の自転を操って女が生き返ったのは覚えているんですが…。

で、蝋人形みたいなハンサムが、蝋人形みたいな肉体で、蝋人形みたいにツルッパゲな悪役と戦う映画だったんですが、スーパーマンの立ち位置が大変気持ち悪くて「これがアメコミヒーローの力かよ…」と大変遠い目になりました。

スーパーマンって力が強くて空が飛べるだけなのかと思いきや、なんと超聴覚や透視能力も持っていて、好きな女が住んでいる住まいを宙に浮かんだまま透視というストーカー行動に走るヒーローだなんて、斬新…。いえ、なんとかとは紙一重と申しますが。

何せ、スーパーマンが一番映えるシーンであろう、「空を飛んで人命救助」までかかる時間が40分(思わず確かめた)ですからね。
テンポの悪い作品だなあとは思いました。
クラーク・ケントとして新聞社に復活してから人命救助事件が起こるのではなく、事件が起こってから出社すりゃあもう少しテンポよく見られたのに…。

実際、スーパーマンにかける時間と、悪役レックス・ルーサーにかける時間ほぼ半々くらい(それに対しては文句はない)で、キャラクターとしては圧倒的にレックスの妙に性根のせこい悪役が目立っているので、スーパーマンの個性は善人以外埋没している印象が強いです。

実際、その埋没さかげんというか、大変ステレオタイプな「善人」設定そのものは、スーパーマンとして満点なんだとは思います。
目立ちはしないし、魅力的ではないけれど、アメリカが体現する公平なヒーロー。
大切な人を守る力があるし、その危機に際して駆けつけるのは勿論なんだけど、それは「恋人」の役目であって、ヒーローの役目ではない。
ヒーローは、社会全ての人間を守るのが仕事なのだ。
という不文律をしっかり守って、愛しい人が危機に瀕しても、助けに行くのは恋敵であるダンナであって、スーパーマンはその場に直行しない。
混乱する街で、倒れるビルから、燃え上がる炎から「人々」を助けてから、愛する人の下へ向かう。

これ、ちょっと印象的でした。ようするに、スーパーマンっていうのは我々が想像するヒーローの体現者であり、そこに「ヒーロー」以外の個性は存在しないわけです。
だからこそ、顔も能面みたいだし、悩んでも人間的に見苦しく嘆いたり、他者を羨むような表現は一切ない。
ゆえに「個人の個性」は存在しない。あくまで「公人」なわけです。

スーパーマンは愛する人に選ばれずとも、その息子に父親だと名乗れずとも、それでも、世界が救えればそれでいい。
だからこそ、愛する相手に「いつでも会える」と言って去っていく。
去らなきゃならないわけです。
彼はみんなのヒーローであって、誰か一人のものであったら、それはヒーロではないから。

映画としてはわりと退屈…というか単調な話でしたし、勧善懲悪というノリでもない(どちらかといえばコメディ?)中途半端な印象が強いですが、「ヒーローとはこういうものだ」という紋切り型映画だと思えば、そのお約束っぷりを楽しめるかもしれません。

またスーパーマン役の役者さんが、笑顔怒り顔全部ひっくるめて蝋人形みたいなので、ある意味「ぴったりだ、色気も何もないが…」と感心しました。
そらあ、今の恋人役のジェームズ・マーズデンのほうが何倍もかっこいいですよ、役者としても。
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『トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン』公式サイト

特別ネタバレには配慮しておりません。




…といっても、純然たるアクション映画なのでネタバレもへったくれもあったもんじゃない、というのが正直な感想です。

この作品三時間くらいあるのですが、もう後半は尿意との戦いで映画の内容そっちのけでした。なんつうかもう、退屈で退屈で。
まずこの作品、完全完璧に続編仕様なので、この作品から見た人は内容わけがわからないと思います。ディセプティコンとオートボットは異星人、くらいの理解で充分だと思いますが、てきめんなのが、ヒモ主人公とブロンド彼女が一体なんなのというところにつきるのではないかと。

一応続き物として全部の作品を見た上でこれ、ならまだしも、一番オートボットと信頼関係があるという「設定」の主人公がまあ一事が万事から回りしているというか、こいつと一体どんな信頼関係があったのかっていうことが、全く語られないので、その上で「君は友人だ」とか言われても感情移入全くできません。

主人公とオートボットたちの関係がもう、ゆるぎないものであるならばあるで、オートボットたちに尺を取ってもらいたい(信頼関係の構築に尺をとる必要がないのなら)のですが、それいっさい省いて、延々主人公とヒロインのどうでもいい会話とかラブコメみたいなものを見せ付けられても、面白くもなんともありません。
というか、そういうのは他でやってくれ。
こっちはオートボットとディセプティコンっていう、トランスフォーマーたちを見に来ているのであって、それ以外の人間ドラマなんてどうでもいいんだよ! とキレそうになるくらいオートボットたちが蚊帳の外です。

この蚊帳の外感が例えば序盤だけで後はクライマックスに向けて、変形シーンや戦闘シーンのオンパレード! ならカッコイイ映画だと思えたんですが、いざ物語が進んでも、延々人間の戦闘シーンが続くので、「で、オートボットは?」とずっと盛り上がらないままEDを迎えてしまった、という感じでした。

結局、巨大な敵VS人間ならばおかしくもない流れなのでしょうが、この映画だと、巨大な敵VS巨大な敵と人間、という図式になってしまっているので、味方であるオートボットの演出が控えめなんですね。
どうしても人間を目立たせたいらしくって。
そうなると、巨大な敵に人間の戦闘力で如何にして立ち向かうか、をメインに据えてしまっているので、そこに例え味方であろうが一撃で敵を粉砕できるオートボットは演出としていらねえってことになっちゃうわけです。

最後を持っていくのがオートボットであっても、そこに至るまで延々敵との戦い…ならぬ、崩壊する街からの脱出劇とか突入劇を見せられると、「もうわかったから!」と言いたくなってしまいました。

それはもう、普通の戦争映画というか、エイリアンでありプレデターであるので、見飽きてるんですよねこっちも。

せっかく、オートボットっていう「人間以外」の生物が味方としているのに、そこに尺を取らないでどうするのよ? 私はオートボットを見に来たのであって、人間同士のイチャイチャとかなんてどうでもいいんだよ! と終始テンションが盛り上がりませんでした。

それくらい、作中でオートボット出てきません。
その上で続編仕様でオートボットと人間の信頼関係性が全く描かれないので、「もう、オートボットは人間の味方しなくていいよ」とすら思ってしまいます。
主人公の提唱する信頼関係が空々しいっつうか、主人公が「僕は地球を救ったのに、この有様だ」的な卑屈さがあるので、余計に感情移入できないんですよね。

だったらまだ、軍でちゃんとオートボットと共闘している軍人さん主人公なら良かったのに。

まあとにかく、オートボットのカッコよさを求めるならば、この作品お勧めできません。
それくらいオートボットの出番そのものがありません。
最終決戦に至っても、出番ほんのわずかで、脚本のせいかオプティマス(オートボットのリーダー)も突っ込んでいって吊り下げられてそのまま、人間側のかたがつくまで出番ないとか、倒れそうになりましたよ。

他のオートボットの面々も、かろうじて個性が描かれるのはバンブルビー(主人公の元車)くらいで、あとのオートボットは名前も知らぬまま個性も描かれぬまま、死んだり生き残ったりで、意味がありません。
「誰?」と思っている間に消えたならまだいいですが、「誰?」と思うほど個性が描かれないので最初からいたんだかいなかったんだか、程度の認識です。

人間の個性を描く暇があるなら、オートボットたち全員に小さくてもいいから「個性」を生み出せるエピソード用意しとけよ! と不完全燃焼のまま終わりました。

一応ディセプティコンとの決着もついたので最終回なんでしょうけど、だったらむしろ、新しい主人公でその矮小な人間と信頼関係を持った上で、かつての同胞と戦うオプティマスっていう、第一話で描いた「一番大事な事」をもう一度再確認しても良かったのではないかと。
とにかく、オートボット側の事情、心情が全く語られないので、オートボットが地球のために戦う必要が圧倒的に不足です。
ただ、かつての同胞を止めたいのであれば、人間側にメンテの依存とか、逃亡の演出をする必要もはなからないわけですからね。

まあトランスフォーマーの映画だと思ってみると損をする、という映画でした。
少なくとも、オプティマス、センチネル、メガトロンのカッコよさなんてものは描ききれておりません。
3Dアクションは凄いのかもしれませんが、まあ、ああいうのは三時間も見ていれば慣れるし、「凄い」以外の感想言えませんしね。
『きみに読む物語』

「僕の人生は大したことのない人生だった。それでも、一つだけ誇れることがある。たった一人の女性を、心から愛し続けたことだ」

最初から最後まで女が主役の映画でした。
一応語り部になっているのは男なのですが、男が悩むのは女のせいであり、女をずっと引きずっているのは男であり、女がいないと生きていけないのも男。

ある老人が、病気で入院している老婆のそばで、物語を読みきかせるボランティアをしている。
その物語は、若い男女の青春をかけたひと夏の恋の物語だった。
貧しい労働者である青年と、金持ちの令嬢である少女の中は引き裂かれ、そして時が流れる。
結婚が決まったかつての少女は、新聞で、かつての青年が自分との約束を守り、白い家を建てたことを知る。

「早く続きが知りたいわ? 二人はどうなるの?」

続きを、と急かす老婆はいつしか、その話が自らの過去であった事を思い出す。

「ノア」
「アリー」

老いによって自らの思い出すら忘れてしまった老女は、目の前で話を聞かせてくれた男性が、心から愛したその人であることを思い出す。

「いつまでこのままでいられるの?」
「わからない。この前は五分だったよ」

そして、老女はまた忘れる。目の前の老人を気味悪がり、「ダーリン」と呼ぶ男に絶叫する。

「こっちへ来ないで! 誰なの! 誰か、助けて!」
「ダーリン、アリー、お願いだ。どうか」

病気は進むばかりでよくならず、男も持病の心臓病が悪化し、生死の境をさまよっても、老女の記憶がよみがえることはなかった。
男は退院し、また妻の下へと向かう。
そこで横たわる老女は、男を見て微笑んだ。

「ノア」

どんどん薄れていく記憶。
これを読めば、そこに私がいる、私の愛がここにある、と書かれた男が持っていた本は、アリー自身が書いたものだった。

「私たち、一緒に死ねるかしら?」
そう告げた妻に対し、夫は、
「ああ。私たちの愛に不可能はない」
と微笑んで、手を握り合うのだった。


実際の内容としては、非常によくある話で、ひと夏で盛り上がっちゃった若者の恋愛話なのですが、なんていうか、その王道さかげんを恥ずかしげもなくしかも、堂々と感動の物語に仕立てようっていうのがあざといっていうか、真っ向勝負というか、そんな映画でした。
内容や、どんでん返し的なオチは正直珍しくもなんともないし、女性が男を選ぶのも「そんなんあるかい」と思わずにはいられないのですが、それでも、あの夏の愛は永遠であったし、それは今も昔も変わらないっていう御伽噺のような映画でした。

基本的にアリーはノアに比べて、別れてからちゃんと生活を営んで、別の男性と婚約関係になってますし、かつての恋人の姿を新聞で見て押しかけても、なんていうかな、その場その場で好きなことを情熱のままにやっているという「強い」印象があるんですが、これがまあ、ノアのへたれっぷりというか引きずり加減が本当にへたれです。
大体、声をかけて恋愛関係にまで見事持ち込んだのはノアの方なんですが、首っ丈になってからはもう、完全に女の尻にしかれ状態。戦争に行っても、何をしても、別の女と関係を持っていても考えるのはかつての恋人であるアリーのことばかり。
その結果、アリーに向かって、
「君を愛している。努力するから、どうか行かないで欲しい」
なんてことが、フツーに言えちゃうわけです。

ただこの愛が、青年から成人、そして老年まできちんと続いているのが、ノアであり、母親と一緒に老人施設にいることなんてない、という子供にも、
「私はママを愛している。ママのいる場所が私の家だ」
と胸を張って言えるわけです。私この台詞で一番泣きました(結局二時間殆ど泣いている…。苦笑)。

そして、ラスト。二人の間に「奇跡」が起こります。
歳を取って認知症が進み、どんどん記憶が不確かになっていく、自分で自分がわからないアリーと、それでも彼女を愛し続けたノア。
個人的には「こういう」奇跡、終わり方でよかったと思います。
これが、現実と御伽噺の境界線というか、双方ともに納得できるハッピーエンドでした。





役者さん、主人公のノアが「ラースとその彼女」で主役だったライアン・ゴズリングでびっくり。
そしてアリーが「シャーロック」のレイチェル・マクアダムズでこれまたびっくり。
確かこれ、ジェームズ・マーズデン目当てで借りた(彼は完全にカッコイイ当て馬でしたが。笑)んですが、思いがけず知っている役者さんが多くて驚きました。
ジェームズ・マーズデンは戦争で怪我をして、ギプスで足も体も首も、ぐるぐる巻きになった状態で、アリーをナンパするんですが、
「先に言っておくけど、僕はダンスが死ぬほど上手い」
とそんな状態でももんのすげえおしゃれに言ってくるのが、アメリカのモテる男センスだなあ、と思いました。
ネタバレ含みます。特に反転もしておりませんので、自己責任において閲覧ください。反転処理もしておりません。
公式サイトの物語上で普通にネタバレしてしまっているので、その程度なら問題ないのだな、と判断したようなレベルです。



















『コクリコ坂から』公式サイト

大変面白かったです。
原作は未読ですが、戦争要素もいれつつ、基本的には主人公海と、少年俊との恋愛話なので、最初から最後まで爽やかに鑑賞できました。

まず、主人公(ヒロイン)の海ちゃんが非常にいい子。
親がいないので、変わりに下宿を営み、朝は誰よりも先に起きて御飯を作る。家事全般を引き受けて、夕飯の支度もしなければならないために、学校には遅くまで居残ることができない。
彼女は毎朝旗をあげる。船乗りだった父親に届くように。
そんなある日、自分で作った弁当を食べている昼休みに、学校内にあるカルチェラタン存続を叫びながら、デモンストレーションとして池に飛び込んだ少年と出会う。
その少年に憧れを抱く妹と共に、海はカルチェラタンを訪れ、埃と、見たこともない部活動を行っている生徒たちと、そして、カルチェラタン新聞を発行する、池に飛び込んだ俊と再会するのだった。

非常によく出来たボーイミーツガールものでした。
海ちゃんがとにかく可愛い。根っからの長女気質で、我慢強くて愚痴も文句も言わない。自由奔放な妹に振り回されて俊と出会い、そして、デートではなく新聞の手伝いをすることによって二人の関係は深くなっていく。 カルチェラタンの存続も、ただ黙って見ているだけではなく、実際に提案しそれを実行に移す行動力が、如何にも長女、という感じです。

いや、自分の感情に自制がききすぎている子って、本当に応援したくなるんだよ!(苦笑)

俊がとある理由からそっけなくなっても、誰に相談するわけでもなく、泣き喚くわけでもなく、ただ懸命に毎日を過ごす。
そして、はっきりと「私が嫌いになったのなら、そう言って」と言えちゃう強さ(というか悩んでいる時間が無駄だという合理性というか)も可愛い。
この場面で別に泣きそうになりながら言うとか、俊の気持ちを引き止めたいとかではなく、純粋に「急変した貴方の態度がきにかかる」というようなケリをつけたい(笑)的な行動力が本当にああ、我慢強い女の子だなあというか。

この主人公である海ちゃんが、「しっかり」と日常生活を営んでいる、という絵がOPずっと表されます。
旗をあげ、髪を結い、お釜のふたを開けて水につけてあるお米を確認し、マッチでガスコンロに火をつける。ハムエッグを作り、育ち盛りの弟の分はハムが何枚か多い。安売りしていたアジでアジフライを作り、洗濯をして、買い物をして、そして、学生として俊や仲間たちと過ごす。
この日常描写があってこその、「御伽噺」なんですよね。
一生懸命生活をしている女の子が、可愛くないわけがない。
その子はしっかり足に地をつけて生きている。
だからこそ、カルチェラタンの混沌として面白おかしい部活動の面々や、俊とのメロドラマのような関係、そしてそのご都合主義的な結末すらも、応援してしまえるファンタジー作品なのだと思います。

全く一からの(ゼロからの)ファンタジーよりも、人間がいて、今生活している基盤があって、そこから「別の世界」に訪れてしまう事こそ「御伽噺」だと思うので、海ちゃんが父親の影ではなく、はっきりと俊という少年と淡い恋愛感情を育てていくのは、恋愛という別の世界の中、現実ファンタジーの中での出来事なのでしょうなあ。

公式サイトの物語の説明にもあるので、ネタバレしますが、物語中盤で俊と海は腹違いの兄妹ではないか、という事実が明らかになります。
俊は海を避けますが、海はその様子に気づいてはっきりと尋ねるのが、前述したシーン。
「私が嫌いになったらそう言って」

その後、二人は別に特別とか背徳的な関係になるわけではありません。俊は実の父親が誰であれ、育ててくれた養父母を尊敬しているし、海は勿論戦争で死んでしまった父親を尊敬している。
その上で海が、「帰ってこないお父さんのかわりに、風間さん(俊)が来たんだって、思うことにしたの。だから、今も、これからも好き」と告げるのが、ある意味ファザコン発言ですが、その逆で、父親から脱却して俊のために旗をあげるという行動に繋がるのではないかと。
そこまで思い切ってやっているのではなく、お父さんのために旗をあげるのが習慣になっていたけれど、そこに、俊のためにあげるっていう比重が大きくなっていく、というかその辺の不器用さ加減がたまりません。

カルチェラタンを取り巻く行動は、学生集会であったり、ガリ版をすったり、校歌を高らかに歌い上げたりと、今の若い子完全にわからない(33歳の私も正直ガリ版はすったことない)でしょうが、だからこそ楽しめます。
日常描写は、今でも通じる家事労働の部分のほかにも、今だとちょとピンとこない、学生生活の「ノリ」も垣間見られて実に面白かったです。

実際戦争描写があるわけではないですし、作中で死亡描写があるわけではありませんが、やはりそこは戦争の影があります。
海ちゃんの父親は機雷にぶつかって死んでいるし、もう一人もまたしかり、です。
主人公の父親たち三人が学生服で映っている写真で、生き残っているのは一人だけ。他の二人は死んでいる。
写真を撮る際に、「お前たち、俺よりも先に死んでくれるなよ」と言った青年はもういない。

海の母親は、俊の生い立ちと過去について、こう語ります。
「戦争中は、こういうことが数え切れないほどあったの。珍しい話じゃなかったのよ」

この一連の流れで、私号泣(苦笑)。
最近涙腺が弱くなったっていうのもありますが、本来死ぬはずではなかった、死ぬ理由、殺される理由もなにもなかった人々が死に、残され、殺さねばならなかったっていう事実を、当事者が淡々と告げている様はもう個人的には涙なくして見られません。

基本的に少女漫画のハッピーエンドですから(原作はちょっとわからないですが)話の展開などは、大変ご都合主義です。
海と俊の関係も、カルチェラタンの存続も、ちゃんと幸せな結末を迎えます。

だからこその、現実あってこその幸せな御伽噺で、あっさりしたラストも含めて非常に良作だと思います。大変面白かったです。

個人的に好きだったシーンは、事実を確かめに海と俊が二人で走るところ。
最初俊が先を行っているんですが、海が追いついて追い抜かす。
体一つ分程度だけ前に行ってから、二人は併走する。
俊は海の手を引いたりしないし、海も真っ直ぐに前を向いて、港へ向かって走る。
こういう海のスタンス(基本一人でなんでもやる)と、俊のスタンス(それを不必要に構ったりしない)が凄く良くて、お互いの信頼関係が見えるようでした。幸せだ。

後、海が下宿していた女医さんを尊敬していて、はっきりと「医者になれればいいなと思っている」と俊に言うのが、凄くこれまた個性的ですね。お嫁さんになりたいとか、そういうんじゃない。 海の自立的な個性がよく出ていると思います。まあ、親の家系が医者だっていうのもあるんですけども。

海についてばかり語りましたが、俊も勿論男前ですよ。優しくて行動力もあって、生い立ちについても必要以上に引きずらず、一人で抱え込まず、自分でちゃんと調べた上で海に事実を告げることができる。
二人の微妙な視線のすれ違いとか、「ああ、ここで俊は海を可愛いと思ってるんだな」っていうのもはっきりわかって、見ていて常ににやにやしっぱなしでしたが。

絵に関しては、同監督作品『ゲド戦記』では、開始早々の海の描写だけで眉間にしわがよったものでしたが、今回は絵の演出に関しても非常によくできていたと思います。
年々キャラクターの顔が可愛いより、きれい系に偏っているのはお約束ですが、それ以外のなんだかよくわからないけれど芋っぽいモブ、その群像シーンも非常に良かったです。
哲学部のいかつい男子生徒と、海の友達の気の強い女の子との恋愛未満みたいな描写、凄く良かったです。花柄のカーテン女の子が作ってきちゃって、それでも断りきれなくて哲学部の部室にちゃんと取り付けちゃうとかね…甘酸っぱい! 青春万歳!(笑)

音楽もいいですし、OPでかかる可愛らしく明るい曲は世界観にあっていてよかったです。
ただ、これ何度もテレビでCF見て思ったんですが、CFで使われている場面に何故殆どカルチェラタンがないのか疑問。
これがネタバレ禁止とかならまだしも、公式サイトの物語で9割はもう内容書かれちゃってますしね。
むしろ、海と俊の関係が深まっていくのはカルチェラタンでなので、その描写が省かれているCFってどうなんかなあとは思いました。大体あのCF暗いというか地味というか。確かに派手な作品ではないでしょうが、明るい、幸せな内容でしたよ。
声の演技はもう慣れちゃった(苦笑)というか、可もなく不可もなく。長澤さんのほうが頑張ってたと思います。

個人的には、アリエッティよりも何倍も面白かったです。あの排他的な恋愛未満のようなぬぐいきれない後味の悪さよりも、何倍も見てよかったと思える映画でした。
『フィリップ! きみを愛してる』公式サイト

愛情をエネルギーにしたバイタリティに脱帽。
これ、一応男性同士の恋愛とかそういう要素もあるのかもしれませんが、基本的には、ジム・キャリー演じる主人公が、ひたすら恋人であるユアン・マクレガーのために詐欺を働いていく、という純粋な恋愛映画でした。
個人的には、せっかく頭も良くて真っ当に働いてりゃいくらでも、二人で幸せな生活が築けたであろうに、何で犯罪に走っちゃうかなあ…と価値観の上では 価値観の上では全く理解できないのですが、それでも、ひたすら恋人のために懸命に努力する主人公に、自然に肩入れしてしまいそうでした。
基本的にはコメディ路線の映画なので、どうやって収監されている刑務所から脱走するか、の脱走劇がキモになるわけですが、これまた「…素直に服役して二人で公明正大に暮らし始めればいいんじゃね?」と思わずにはいられないのですが、その上で「 恋人と一分一秒たりとも離れていたくない」から、弁護士を偽って刑務所から早期出所させるとか、もうお前の愛が行き過ぎていて怖い。
恋人はずっと主人公が嘘をついていた、ついている、ということを知らないままなので、知ってしまってから二人の関係は破綻します。
「君は僕に信じてくれというけれど、全てが嘘だった君の一体何を信じればいい? 君自身が自分の事を何一つわかっていないのに」
結局その後、主人公はエイズであることが判明して、民間の医療施設に移送されます。
「結局、僕たちはおかしな愛のとりこなんだね。君を許せないけれど、僕は君を愛してる。ずっと、そばにいるよ」
そう、恋人の声を電話口から聞きながら、主人公は目を閉じるのでした。

………と、どの後にもまた続きがあるのですが、個人的には「俺の涙を返せ!」と絶叫しそうになりました。まあ、所詮人間は自分の行動力に根付く部分なんて、そうそう変わるもんじゃねえよな…。

ジム・キャリーは胡散臭さ炸裂の主人公を熱演。ただまあ、この人はどう見てもゲイの人には見えませんが…。知らない間にずいぶんオッサンになったなあ、という印象。どうしてもただよう知的さがあるので、逆に胡散臭い詐欺師役はぴったりったらそうなんですけどね。
そして、何といっても恋人役のユアン・マクレガーですよ! なんじゃこの可愛い物体! 勿論ユアンもええ歳なので、そこに薔薇色な世界が広がるわけではないのですが、よくもまあこんな可愛いしぐさ勉強してきたよな、と私ですらむしろユアンを幸せにしたいと思ってしまう始末でした。
別にしぐさが女性的だから可愛いのではなく、構ってあげたい、幸せにしてあげたい、大切にしたい、っていうオーラが満ち溢れすぎていてもうだめ。
刑務所の中で音楽をかけて「一緒に踊ろうよ。踊りたいんだ」とかおねだりされたらもう、こちらも正気ではいられません。
柵越しに走って、「愛してる! スティーブン! 君を愛してる!」なんて絶叫されたらもう、そりゃあ幸せにしてやらんとな、と鼻息も荒くなりますよね。
………だからって犯罪活動にあっさり手を染める主人公はどうかと思いますが…。
ゲイ生活には金がかかる、ってよく言い訳するんですが、そういう問題じゃない。

個人的には、最初から最後までひたすら可愛いユアン・マクレガーを堪能する映画だと思います。オチとかそういうのはまあ別にいいかな、というか。
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