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日々のつれづれ。ネタバレに過剰な配慮はしておりません。
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『武士の家計簿』公式サイト

映画館で鑑賞。水曜日はレディースデーだと息巻いて行ったものの、その映画館は違ってたという体たらく…。
滅多に行かない映画館だと勝手がまるでわからんわ。
話の内容としては、そろばんを極めた勘定方の家に生まれた男の人生なのですが、前半面白い、後半退屈っていうのがわりと顕著な映画でした。

前半は、猪山直之という男の父、母、祖母、妻を含めた家庭の内情、実際に加賀藩の御算用者とは、どのような仕事をして、どのような暮らしぶりをしていたのか、というようなあたりは、非常に楽しめました。
出勤して、並ぶ座卓に運ばれる帳簿。一日中そろばんをはじき、墨をする。
季節のものを食べ、親戚づきあいをし、弁当を広げる。
そんな一家に、明らかになった莫大な借金を返すために、猪山直之は家財道具を売り払い、商人に借金の無利子を願う。質素な生活を送っても、一時の恥も体面もどうでもいい。問題なのはこのまま借金で家がつぶれれば、それこそ武士としての勤めを果たす事ができないではないか。
最初は文句も言っていた家族も、次第にその生活に慣れ、妻は工夫も楽しいと微笑む。
生まれた子供にも同じようにしつけをし、同じ御算用者としてそろばんを教え込む猪山直之。
だが時代は徳川の世の終わりを告げ、そして息子との間に次第に軋轢が生まれていた。


弁当箱も売り払い、竹の皮におむすびと漬物、さつまいもを持ってくる猪山直之の父に、同僚がそっと
「うちに弁当箱のあまりがある。明日、持ってきましょう」
と告げられたりとか、猪山直之の同僚が困りながら
「その…いつもながら猪山直之殿の弁当は…美味そうですな…」
「奥の手作りですから」
という微妙な会話をしたり、言葉の上手さも楽しめます。

猪山直之というより、のんきな父母やけなげな妻、気丈な祖母の個性が非常に際立っていて見ていて楽しいです。
祖母役の草笛光子氏がかくしゃくとしたおばば様を演じていて、かっこいいです。その時代にも「算術本」つまり、今のパズル本と申しましょうか、私は数学のいろは全くわかりませんが、図形の組み合わせとか、証明算を行ったりしているのが、それも異質で良かったです。その時代の女人がやるもんではなかろうしねえ。

いつもたけのこから過去の自慢話に移行してしまう、父親役の中村雅俊もいいですし、母親役でおっとりしておきゃんな松坂慶子も素敵でした。元々松坂慶子さんは好きな女優さんなので、何をやっていても個人的には許せるのですが(笑)


後半ですがまず、貧乏っても困窮して苦しむまで行き着いた家の話ではない、とうこと。
薄給で働いていたにしても、父の代に70石取りの家柄になり、当人も出世して食うや食わずの生活ではないのです。
その上で武家の借金というものが至極当然に行われていた時代の変革期において、それを失くそうと粉骨する男の姿は、確かに異質であり面白いのですが、それが大体前半で終わってしまいます。

で、後半はというと主人公であり倹約家の父親と、語り部である息子の話、つまり家族愛みたいなものとか、しつけとかが主題になってしまい、そうすると人情話にスライドしてしまって、せっかくの「武士らしくない話」があまり生かされていないような気がするんですよね。
生かされていないというより、生かしすぎて、父親である主人公の男に対して、父性を感じたりすることがあまりできなくて、後半の取ってつけたような親子物に感情移入できないというか。

何処の世界に自分の祖父の葬儀に「葬式代の計算をしている」父親を尊敬できる息子がいるのか、という話です。
これが、息子へのしつけだとか、そういうのならまだいいんでしょうが、この主人公である猪山直之って見ているとひたすら「性分」でそろばんを弾くそういう主義の男であって、別に子供をおもんばかっているとか、実父を失った悲しみを普段の仕事をして癒しているとか、そういうのがあまり画面から見て取れないんですよね。

この手の心理描写を上手く描いてくれないと、子供が反発するのも当然だと思ってしまいますし、その後年老いてから息子に背負われて謝罪されても、そらうそ臭い感じがしてしまうのです。
ここで、猪山直之がとことん駄目人間であったら、周囲が「仕方がない人」だなあ、という目線でいわば「ただの個性的な人」で見られるし、実際そうであったのでしょうが、そこにとってつけたような「いい父親像」が浮いているというか。

武士としては異端であり、そろばんの事しか頭にないような変人だった。
しかし、人の親であり家族を助けるために火の車であった家を守るために、質素倹約を旨として実践した。
くらいで終わっていればよかったのに。
後、子供が大人になって父親を見直すとかそういう描写にもかけているので、唐突に息子と父親が仲良くなるというか、打ち解けるラストシーンが一番肩透かしだった感じです。
確かに子供は猪山直之に叩き込まれたそろばんで、身を立てて出世するのですが、逆に父親を尊敬するのであれば、如何に「帳簿が重要なものであり大変な仕事であるか」ということが、身にしみてわかるシーンが絶対に必要だと思うのです。
間接的にせよ、直接的にせよ、息子は例えば自分が失敗する事によって、多大な叱責を受ける事によって、如何に一文の差が大切かどうかわかるような描写とか、そういう息子の仕事描写が非常に乏しいので、そろばんの大切さが後半になるに連れて薄くなってしまったようで残念でした。
何で親子物って言うと、すぐに親を子が背負いたがるのかなあ…。その演出が出たとたんに、ちょっと飽食気味になってしまいました。
変にお涙頂戴の家族物や、親子三代の話などにせずに、変人な男の一生、で終わったほうが視点が散漫にならずによかったのではないかと。語り部の子供が完全に語り部ならまだましだったんでしょうけどね。
まあ、そろばん算要云々以外は、わりと普通の親子物というか、ベタな演出がされたベタな人情物、という感じですね。私は前半のテンションのほうが好みでした。
キャッチコピーの「そろばんで家族を守った侍がいた」というのも、ちょっと映画の内容と違います。実際、猪山が家族をどんな危機からどのように救ったのか、って画面からあんまり伝わってきませんしね。時間経過の描写が鈍いからなのかな~。


原作も購入したので読んでみたいと思います。こちらは完璧にノンフィクションというか史書なので、楽しみです。長方形の文庫本読むの久しぶりだわー。


客の大多数が年長者という中で、女一人きりでの鑑賞になりましたが、携帯のマナーの悪さは年よりも若いのも同じですね。
両サイドで、携帯がなって、ディスプレイを眺められたときは「死ね」と本気で思いました。
EDロールを見ないで立ち去るのは勝手ですし、別に止めませんが、まだこちらはその作品を見ているのであって、その中で携帯開ける奴は死ねばいい。
そしてお前がその携帯を見たところで、一分一秒を争って返事をしなければならない着信やメールなんて、間違いなく届いてねえんだよ!!
こういうマナーの悪い奴がいると、映画館で映画を見る気が本当にうせます。DVDでレンタルして家でイライラしないで見たほうがナンボかいいもんね。
もう映画館に入る、携帯電話預けるくらいの勢いでいいと思うんだ。
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『レッドクリフ Part1』
なんで今更これ? とお思いでしょうが、ディスカスが送ってきているので私の本意ではありません。他にも一杯レンタスリストには可能な作品が登録されているはずなんですが、なんでこれが送られてくるのか…謎。
こういうアクション作品は、映画館で見た方が絶対に面白いとわかっているのですが、長いし金城だしの二要素が足を遠のかせておりまして、やっとレンタルで鑑賞しました。
そうですねえ、長い、金城の二要素は見る前も見た後も変わらなかったし、三国志の映画というよりは、なんつうかお耽美映画でした。男たちの美学映画と申しましょうか、三国関係なく、かっけえ男たちの様式美を楽しむ映画というか。まあそのかっこよさの表現が合わないと正直すんげえ辛いとは思います。
特に、金城演じる孔明なんて、Part1ではただのサギ師かヤマ師です。こいつ、なんっっにもやってません。詭弁で相手を煙に巻いたり、お世辞で相手をいい気持ちにさせてはいますが…。こういう書き方をするとアレですが、本当に男妾みたいというか、自分を取り巻く男たちに愛想を振りまいているのが仕事なのかというか。もう少し、軍師としてかっこよかったなら良かったんですが、この物語の事実上の主役、呉の周瑜が戦える軍師なので、アクションシーンも、策謀のシーンも全部持っていかれて、孔明の立場がない。これで周瑜が何で孔明に友情を感じられるのかわけがわかりません。顔だけいい男を周瑜がはべらせたかったのでしょうか。周囲には美形がいないからな~。奥さんきれいだけど。

この映画のキモであるアクションシーンや、集団の軍馬シーンなどは、非常に楽しめます。ただの個人のアクションだけでなく、集団で一人を引きずりこんでめった刺しにするとか、戦争らしいシーンも満載ですので、アクションだけ抜き出せばまあまあなんでしょうが、これも、結局個人無双は、一番最初に出てくる、趙雲が全部持っていっているので、最初のインパクトになれてしまうと、途中からまあどれも同じように見えます正直。

同じように見得はるアクション映画の『HERO』なんて、アクションシーンしかなかったんですが、それぞれ個性的なシーンが多くて凄く楽しめたのですが、今作に関してはなんつうか、誰のアクションもわりと全部一緒で、それぞれの個性に乏しい印象が強かったです。
その中で、関羽が青龍偃月刀を操って戦う様はやはりインパクトが強くて、この映画が関羽無双と呼ばれるのも頷けます。まあ他に見るもんがない、という意味にも取れるんですが…。
とにかく編集が冗長です。アクションにせよ、物語(というか心理描写)にしても、いくらでも巻くとこあんだろうにと思いながらの二時間オーバーは正直辛すぎます。
ある程度、三国志の知識があるから辛いのか、全くない方が面白いのか、正直判断つきかねるのですがそれにしたって長すぎる。

レンタルDVDの配慮なのか、映画館での字幕でもそうだったのかはわかりませんが、一番最初の出番にのみ字幕がつくのではなく、それからも場面が変わるごとに人物紹介や、土地の説明が出てくれたのは、とっても親切でした。こういう配慮は本当に偉い。ただでさえとっつきづらい世界観なんだから、これくらいやってくれないと。

正直続編はもう見なくてもいいかなーとは思うんですが、関羽無双以外に見るものあるんでしょうか。
Part1だと、戦乱の英雄である曹操の描き方がわりと色ボケじじいで、人心のカケラもないのが、釈然としないので、2では挽回されていると嬉しいんですが…。英雄色を好むったって、ただの色ボケと英雄が女好きだってのは意味が違うだろ!
個人的には、驪姫(架空の人物・曹操の側室)の方が、小喬よりも色っぽくてきれいだと思うけどねえ…。というか、曹操が好みそうな女性のタイプって、イメージ的に絶対に驪姫の方だよなあ。あ、小喬役の方はさすがに絶世の美女設定なので、凄くキレイですよ。でもそのキレイさは、純真無垢の家庭的なきれいさであって、私が想像する曹操の求める女像がちょっとズレている、というだけの話です。




『ペネロピ』
魔女の呪いによって、豚の鼻と耳を持って生まれてきた少女が、運命の相手とめぐり合って、そして呪いを解くという純然たるシンデレラストーリー現代風、ってところでしょうか。
運命の相手と出会って幸せになるのはシンデレラですが、実際呪いを解いたり、幸せになる過程は己の手で掴み取る、っていうのが現代風。
御伽噺風の可愛い話なので、クセなく見られると思います。脇を固める人物描写が妙にリアルで憎めないのがミソ。
ペネロピを使ってスクープを得たい記者、ペネロピを化け物扱いする同じ一族の青年。どちらも悪い人ではなく、こずるさが先にたつので、見ていて嫌な気持ちにはなりません。
むしろ、ペネロピを閉じ込めて呪い開放のために躍起になる母親の方が、ナンボか怖いんですが…。善意や親心の怖さっていうんですか。最終的にはある種の報いを彼女も受ける事になるので、まあ、帳尻はあってるんですけども。

しかし、設定の豚の鼻を持つ女の子、っていうの、正直ペネロピ役のクリスティーナ・リッチが素で可愛すぎるので、豚の鼻がついているからってそれがなんだよと思ってしまいました(苦笑)。
だって鼻さえ隠していれば絶世の美女だし、性格が陰鬱なわけでもないから、鼻出てたって普通に可愛いんだもん。
まあ彼女が外に出て行くきっかけになった男性も、それぞれが影響されて自立していくっていう、本当にストレートな恋愛話でした。人間見た目じゃない、とかそういう話でもありません。各々の自立の話。
ヒロインのクリスティーナ・リッチが可愛いのは勿論ですが、相手役のジェームズ・マカヴォイも退廃的な美形でよかったです。『ウォンテッド』の時は本当に冴えない青年でかっこよさ何処にもなかったのになあ…(失礼)。地味に、お父さんとか執事とか、新聞記者とか脇を固める俳優さんが個性派ぞろいなので、役者陣は非常に見ごたえがあります。
OPクレジット、EDクレジットも御伽噺のようにかわいらしく、設定も含めてアニメ的な要素も強く万人受けしやすいんじゃないかな、と思います。
主人公の衣装も可愛かったなあ。Aラインっぽい明るい色のコートに、柄のマフラーとかあれ、そうそう着こなせないだろうけどね…。
『美女と野獣 スペシャルエディション』
実はデズニ映画としてはこの作品が初邂逅で、見た瞬間骨抜きにされて、「やっぱ違うわ」と思ったものですが、スペシャルエディション版というものを改めて見てみました。
どんな違いがあるのかなーと思ったら、大した違い全くなかった(人間になりたいみたいなシーンが入っただけ)という始末でしたが、やっぱりこの時代のデズニは売りがはっきりしていていいですね。
とにかく、歌って踊っていればそれでいい。
カメラワークの変化も見ていて楽しいし、色使いも派手中世(笑)で、この作品からわりとあからさまにパソコンやCGの恩恵にあやかりはじめるので、その辺の初々しさもはっきりとわかります。
今ならもう少し上手い使い方をする(馴染ませ方の問題というか)だろうに、初期だけに、背景と人物たちがはっきりとわかってそれはそれで見ごたえがあります。ミュージカルシーンはある意味、物語上で不必要なものなわけであって、そこをさらに、CGを使用することによって、「舞台」的に映えるのです。

いやあ、しっかし王道のラブロマンスは見ていて嫌味がなくていいですね!
ファニーガールベルと、気質の荒い野獣との、たどたどしい恋愛がもうよだれものですよ。
本を読み聞かせてあげたり、一緒に鳥にえさをあげたり、大体心の距離が縮まるきっかけが命を救われることからだってんだから、もうその設定だけで鼻血ですよ。

ベルが美人なのに恋愛下手設定のわりには、別にいいご縁がなかっただけで、色恋が始まりさえすれば奥手でもなんでもないのに対し、野獣が完全完璧にどうしようもなく恋愛ド下手設定なのも、まった非常に萌えます。

「彼女に何か送ろう! ………何がいい?」
とかてめえ王子様だったんだろー!? と、世慣れてない野郎にこっちはもうむしろ野獣萌え。

それゆえに、ラストで崩れたシュワちゃんみたいなロン毛の男に変身した時は殺意を覚えました。
これ、『×(ペケ)』っていう漫画でも全く同じネタがあったんですが、「ああ、世間の人も考える事は同じなんだなあ」と理解したものでした。あれは酷い、酷いよデズニー。
一応モテ男設定のガストンも酷いもんだったし、どうも向こうの国のいい男基準がよくわかりません。筋肉か? 筋肉さえついていればそれでいいのか?

改めてキャスティングの豪華さには驚きなのですが、私、ロウソクが江原さんなのはすぐわかったんですけど、歌い手さんが別人だとは思いませんでした。勿論声が似通った人を選んでいたからなんですが、昔買ったサントラで「何で江原さんじゃないの!? 何で変えちゃったの!?」と嘆いた自分のアホさかげんを笑いたいと思います。そりゃ本編だって違ったんだよっていう話であって…。


『美女と野獣 ベルの素敵なプレゼント』
………これはクリスマス映画だったのか………と見終わってから気づきました。現実のクリスマスを鑑みて寂しくなんてなってないぜ!(泣笑)
これ映画とは違うようなんですが、改めて映画は万人受けしやすいように、キャラデザや設定考えてんだなあと思いました。
ベルも野獣も結構いい性格になっているし、敵役のフォルテもあまりにリアルにいそうな嫌な奴で仰天、というか。これ、本編の映画よりも全然子供向けじゃないけどいいんだろうか。
フォルテは人間だった頃は王子にも嫌われていたけれど、同じ魔法をかけられて化け物になってからは、同じ絶望を味わったものとして常に貴方のそばにいます、貴方をわかってあげられるのは私だけ、貴方は私だけを必要としていればそれでいい、ってお前それ重過ぎる深すぎるだろう!
本編がわりとわかりやすいボーイミーツガールものだったのに対し、各々のアイデンティティがえぐられるので、続編で方向転換してしまったのだろうかとなんだか非常に微妙な気持ちになりながらの鑑賞でした。

ただミュージカル部分は変わらず非常に良かったです。英語でも鑑賞もいいですが、吹き替えも達者な方ばかりが声を当てていらっしゃるので、音を流しているだけでも面白いですし。
『ラースと、その彼女』公式サイト

以前、自分にしか見えない等身大のウサギと共に生きる男性、『ハーヴェイ』(リンク先は雑感内感想)という映画を見たことがあり、今作もその延長かと思ったのですが、基本的に描くテーマが違っており、こちらの作品の方がよりリアルで「わかりやすかった」です。

ハーヴェイが、主人公の男性が曲がりなりにも真っ当な社会生活を送り、それなのに「この世にありえない存在」を見てしまうのに対し、ラースはガレージに半ば引きこもって暮らし、職場でも女性とのコミュニケーションは一切とれず、触れられると体に痛みが走るというところまで、現実的に症状が出ている状態です。おまけに、この世にないものではなく、現実的に自分でネットで注文してしまった、リアルドール(要するにダッチワイフ)を本当の女性だと思っている。自分にとって都合のいい面しか見ないし、聞こえないし、思い込んでいるので、当然「それは人形だ」という言葉はラースには「聞こえない」のです。
ハーヴェイの主人公は見えないものが見えてしまいますが、周囲がそれを見えないと言っていることは「知っている」ので、まだ現実的な接点がありますが、ラースは完全に現実世界から逃げ出してしまっていると言えます。

そんなイカれてしまった弟を見守り、狼狽する兄夫婦や、周囲の人間が話に関わってくるのですが、ここでも面白いのが主人公がラースではない、というところでしょうか。
周囲の人間は困惑しつつも、信じられないくらいラースや、その恋人ビアンカに対して優しく接します(このありえなさ具合はファンタジーだと思うのですが)。
ビアンカに服を着せ、入浴させ、教会に車椅子で連れてきて、髪の毛をカットしたり、自分の誕生日にカップルで招いたりと、ラースの異常性に付き合いつつも、関心がビアンカに移っていくのです。
病院でのボランティアや、接客業や、教会の委員会など、ビアンカはラースがいなくとも必要とされる存在に、次第になっていく。
それを見つめるラースは、次第に「自分のもの」ではなくなっていくビアンカに苛立ちを覚え、時にはけんかをします。
初期の頃にはけんかなどはありえないわけです。ビアンカは存在していますが、性格設定などは全部ラースが「自分にとって都合がいい」ように妄想したものであって、自分にとって都合のいいものが自分にはむかうわけがない。
プロポーズを断られた、としょげるラースに、改めて目を向ける医師。
自分にとっての最愛の彼女であり、自分を自分で愛しているラースが、そこで自分で自分を否定することに「目覚める」のを見て取れるわけです。
結局、ラースとビアンカの生活は終焉を向かえます。
ビアンカは言うまでもないですが、ただのリアルドールなので、その終焉も、終わり方も、すべてラースが自分自身の中で決着をつけていることなわけです。
それは、ビアンカという妄想と決別して、すぐ隣にいる会社の同僚の可愛い女の子に対して向けられる視線であり、「少し一緒に歩く?」という、ほんのささいなことですら言えなかったラースの、内的自立が成されたという結末になるわけですが。

起承転結というか、メリハリがついていて、リアルドールを彼女だと思い込む男という表題だけ抜き出すと「げっ」と思われるかもしれませんが、実際にはハーヴェイよもラースの心情の移り変わりがはっきりと描かれているし、明確な決着が用意されているので、非常に見やすい作品でした。
妄想の世界で生きるラースが、その妄想が「嘘」であるとは気づかないまま、その妄想を自分で無意識に否定する、結果やっと大人になるという話であり、ラースの異常性にも一応の背景がつけられているので(これは個人的にはあってもなくてもと思いますが)、なんていうか見る側にとって特異性がありつつも親切と申しましょうか。謎を放り投げているような作品ではないというか。

見終わった後、ラースが何故唐突にリアルドールを選んだのかそのきっかけが、隣の席で同僚がネットを見ていただけというのは少し弱いかな、とも思ったのですが、逆に「きっかけなんてそんなもんだ」という意味では凄くリアルなのでしょうね。
特に何があったわけではない。後で聞かれても覚えてすらいないようなちょっとしたきっかけですらない、ただ日常がはずみになってしまうというのは確かにあるし、物語の最初から最後までリアル志向だからこそ、ラースを取り巻く周囲の「ありえない優しさ」が際立つのかもしれません。

主人公ラースを含め、登場人物たちが全員ファニーフェイスで可愛いです。
兄嫁で出産を控えているカリンは、ラースに一番親身になって接していて、ラースとビアンカの決別の間接的な要因にも関わってくる魅力的な人物だし、医師のダグマー(女性)もこれが凄い豊かな金髪の知的な美人で!(幸せのレシピのオーナーさん?)

ハーヴェイと、こちらとどちらが好みかと問われると、毛色が違うので比べようがないと思いつつ、ハーヴェイのほうが個人的には好みでした。
なんていうかな、この作品はちょっと優しすぎるというか。
それが駄目というわけではなく、私は先に見たハーヴェイのどうしようもない不幸せ感の印象が強かったのかもしれません。結局、ラースが現実社会での回帰を果たしたのに対し、ハーヴェイでは「帰れなかった」わけですから。
『スラムドッグ$ミリオネア』

想像していたのと全く違いました(これなんだか最近よく言ってるなあ)。
スラム出身の貧乏人が、何故高額賞金をかけたクイズショーでいい成績を残せたのか。
それは、八百長か、それとも天才か、ただの運か。
そういう「謎」的なものを楽しむ映画なのかと思っていましたし、主人公がスラム出身の少年と言うだけで、その背後に悲惨で陰惨で暗いものばかりが横たわっているのかと身構えながらの鑑賞だったのですが、意外や意外、純愛の話でした。

主人公ジャマールとその兄サリーム。
毎日食うや食わずの生活をし、そこで出会う少女ラティカー。
母親は暴徒に殺され、親のいない三人は人買いにさらわれそこで過ごす。
歌を歌い、上手く歌えれば溶けた鉛で目を焼かれ、盲目にさせられる。目の見えない子供は、目の見える子供より「稼げる」という理由で。
サリームはジャマールを連れてその場を逃れ、ラティカーは突き放され二人と一人はそこで別れた。
ジャマールとサリームは成長し、そこで同じように人買いに囲われたままのラティカーを見つける。
ラティカーを救うため、自分の身をたてるため、サリームは人買いを撃ち殺した。
そこからまたも分かたれる三人の道。
ジャマールはテレフォンセンターのお茶くみとして。
サリームは相対する組織の殺し屋として。
ラティカーはその組織の情婦として。

出会い、そして分かれるジャマールとラティカー。
連れ戻され、引き離されるラティカーに届けば、と、それだけのためにジャマールは全国民を熱狂させる『クイズ$ミリオネア』に出演する。
無学なジャマールが、最後の問題まで進んだことに疑いをかけた司会者は、警察にその身を引き渡す。
拷問を受けたジャマールが、訥々と語る「真実」とは。
分かれた三人の進む道は。

実際、明るいわけではないのです。
目をつぶされる子供。宗教争いに巻き込まれ殴り殺された母親。家も金も食べ物も何もなく、物を盗み食いつなぐ毎日。
けれど、ジャマールたちにとってそれは「当たり前」のことであり、盗まねば食えないし、食わねば死ぬしかない。
だからそれに善悪などないし、誰もそれの行為を裁かない。
ジャマールたちは常に懸命に、生きるために「前向きに犯罪を犯している」ので、見ている側もその「陽」の面に引きずられて、むしろたくましい子供たちの生き様に入り込めるのです。

無論、だからこそ悲しいという面もあるのですが、その辺は主人公であるジャマール達の純粋さに救われているといいましょうか。
ラティカーが好きだ。好きだから救いたい。その気持ちにはいっぺんの揺らぎもなく、ジャマールはそのためだけに生きている。
サリームはある意味、ジャマールと正反対の立場で生きているのですが、それでも彼らは兄弟であり、その「愛情」は揺るがない。
ラティカーは一番現実を生きていて、ジャマールの絵空事にもサリームの斜に構えた目線にも付き合わないけれど、それでもジャマールは信じている。

信じられるものがあって、そのために生きている三人の生き様は、その周囲を取り巻くものがどれだけ暗くとも、明るい。
そんな話がハッピーエンドでなくて、なんだろうか。
過酷な生き方をしてきたからこそ、ジャマールには「クイズに答えられるれっきとした理由」がある。
それをはっきりと知った取調官は、ジャマールを開放し、最後の問題へ向かわせる。

三銃士、アトス、ポルトス、それでは最後の一人は?

ジャマールはその問いに答えることはできるのか。
答えられても、答えることができなくとも、ジャマールにとっては問題ではなく、問題なのはその「過程」とヒントのためにかけた電話の「相手」だった。

さわやかないい映画でした。
悲しいシーンが多くて、嬉しいシーンなどほんのちょっとなのですが、それでも三人の生き様がみずみずしく描かれていて、受ける印象はあくまでさわやかです。

観光客からお金をせしめたりとか、トイレの番をして金をもらったりとか、こちらではあまり見られない金の稼ぎ方や、文化的にも楽しめます。
個人的には、「アメリカのドル札に書いてある人物は?」という問いに際して、ジャマールが反芻する思い出が悲しかったです。
街中でであった盲目の歌い手。
渡したお札の匂いや、手触りで、歌い手は「知らないお金だ」という。
ジャマールがその金の説明をすると、目の見えぬ、かつては同じ場所で育てられた少年は、笑ってその人名を答えた。
「ジャマール、君は幸運だったね」
ジャマールが間違いなくたどるはずだった道をたどった少年と、ジャマールは別れ、そして二度と出会うことはなかった。

それぞれが選んだ生き方に、善悪もなにもなく、懸命だった人たちの物語でした。
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