忍者ブログ
日々のつれづれ。ネタバレに過剰な配慮はしておりません。
[6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

『ブレイブ・ワン』
ジョディ・フォスター大好きっ子の私としては見ないわけには参りません。
恋人と共に暴行を受けた女性が、次第に世直しのようなことをやりだしてしまい、それに気づいてしまった刑事とのふれあい。そして、見つけ出した犯人にどのような所業を下すのか、というような暗い内容の話です。
ジョディ・フォスターはさすがの名演技。殺すべき相手を横にし、次第に顔つきが氷の様に固まっていく様は圧巻でした。
そして、相手役の寄る辺となる黒人の刑事さんも、これがまた人柄と真面目さだけが前面に押し出たような顔なんだこれが。勿論切れ者であるんですが、そうとは感じさせない朴訥さに、見ている側は救われるわけです。
「人を殺していいのは法の番人だけだ」
そう断じる彼に、もう人を殺してしまっている(成り行きとはいえ)ジョディ・フォスターがなんともいえない表情で笑うシーンは切なくなります。
ジョディ・フォスターも別に好きで人を殺しているわけではないし、それほど率先的に世直しをしているわけではなく、ようは、事件が我が身に降りかかった後、如何にして人は変わってしまうか、が肝なので、彼女がしてしまうことに嫌悪感はわきません。
むしろ、言いようのない切なさに、震えなくなる手に、「ああー」とため息が出るくらいで。
結果として自分が助けた少女に面通しをされ、手を握り、
「貴方が見たことを、真実を話せばいいのよ」
と訴えるジョディ・フォスターには、そこで捕まってもかまわない、少女の証言を捻じ曲げる気はない、という彼女の本来の彼女自身である、良心が垣間見れます。結果、少女はジョディ・フォスターのことを話さないのですが、それは結果としてよかったのか悪かったのか。

ただ、これラストが賛否両論だと思うんですよね。
自分の恋人を殺した相手を見つけ、銃をつきつけるジョディ。それを止める刑事。
そして、「殺していいのは法の番人だけだ」と自分の銃をジョディに渡す刑事。
それってアリなのかよ!? と驚く視聴者。
それまで散々、人を殺してはいけないとか「身近な人が犯人だったとしても捕まえる勇気を持つ」とか言っておきながら、何それ!?
対極にいなければいけない、だからこそ刑事の発言には意味があったのに、ジョディと同じ穴の狢であるならば、それまでの発言に重みがなくなっちゃうんですよ。結局お前もそういう奴なのねというか。
ジョディは刑事の銃で犯人を殺し、刑事は事件を隠匿するためにジョディにわざと撃たれる、っていうなんかこうどうしようもない印象のエンディングでした。
刑事が心情的にジョディの味方になるのはいい。でも、それを行為を同じくするのは全く意味が違うことであってさあ。
これなら、ジョディを止めて自分が犯人を殺す、っていうオチのほうがマシだったなあと思いました。
ジョディは本当に痩せぎすの怖いくらいの美人、で見ごたえありです。


『椿三十郎』
織田裕二とトヨエツが主演だった映画はわざわざ映画館に見に行きました。
その作品はそれなりに面白かった、という感想だったのですが、今回DVDを借りて見たのは大本の黒澤明監督のやつです。世界の三船が主演の奴ですね。敵役が仲代達矢氏のやつです。最高でした。
時代劇はまさにエンターテイメント。
シリアスあり、お涙頂戴あり、殺陣あり、そして笑いあり笑いあり笑いあり(超重要)。
そのどれもが詰まっている、サービス満点の二時間でした。これが1962年の作品だっていうんだから、どんだけ最先端。そしてエンターテイメントの普遍さを感じられる作品です。古臭さなんか何処にもないぜ。
今の時代劇は、フィルムだからカメラだかの規格が変わってから画面が明るくなったのですが、この映画は白黒でその風合いがまたいい。
薄汚れた浪人の椿三十郎の着物や、月代のない髪形の汚さが、白黒ならではのくすみ具合で魅力的です。
居並ぶ役者陣もすばらしい。
やっぱり、素浪人は迫力があってこそ、ですね。
織田にはちゃらんぽらんな印象はあっても、凄みがない。時には人を殺せるのではなく、人殺しも平気でできるけど面倒だからしない、くらいの、あくまで真っ当ではない人間の三船椿は、ほんっとうに迫力と凄みがありました。
これなら、仲代達矢演じる室戸半兵衛が「俺とお前は同じだ」と言うのもわかります。やっぱり、人がよさそうに見えちゃ駄目だよね。人がいいんじゃなくて、「しぶしぶお人よしに付き合う」程度の常識との接点なんですよ、素浪人っていうのは。
そして、富士額の仲代達矢が最高に悪くてカッコイイ。
これなら「俺は悪(わる)なのだ」と不敵ににやりと笑うのも許せます。トヨエツにも残念ながら凄みはない…。あ、そうか。凄みがない同士でちょうどいいキャスティングだったのかあれは…?(ひどい解釈)
他にも居並ぶ役者さんが、小林桂樹さんや、田中邦衛、そしてあまりのカツゼツの悪さに音量を大きくしなければならなかった加山雄三など、山盛りです。こいつは若いころから本当に才能がな(以下略)。
城代家老の奥様も、ちゃんとお歯黒をしていたりと、細かな時代考証も凄く楽しめます。門構えも凄く立派だし、土塀一つとってもセットとしての迫力も満点です。金かかってんだろうなあ。
殺陣の迫力は、美しいのではなく、泥臭く迫力があって三船にぴったりでした。蹴る殴る鞘で打ち倒す含めての殺陣なわけです。人殺しを嫌がるのではなく、面倒くさいから殺さない、刀を抜かないっていうポリシーも垣間見れるというか。
そして、最終的には仲代と一騎打ち。居合い一閃。噴出す血。倒れる男。
「どちらかが死ぬしかねえ」
という椿の言葉通り、死ぬしかない結末を迎えて終わるのが、彼の善の部分ではない部分(悪ではない)こそが本質であると暗に示しているようで、ダークヒーローの面目躍如でした。
時代劇にしろ、西部劇にしろ、「こういうヒーロー」は、最後、去るしかないんですなあ。その場所に残って明るい家庭を築いたりは決してしない。日常とは相容れないからこそのかっこよさでした。超満足。

こうして見ると、織田主演の『椿三十郎』は凄く原作に忠実だった、っていうのがよくわかります。場面展開とか話運びも全部一緒だったし。
それだけで、演じる人によってこうも違うのかという評価をされてしまうのもつらいところなんですが。
それこそ、織田裕二に、トヨエツっていう「若い人も取り込もう」っていうキャスティングではない、三船椿三十郎の凄さがよくわかります。まともに見た黒澤作品第一作目だったのですが、とても当たりでした。
PR
マイケル・ジャクソン THIS IS IT  公式サイト

見る前は実は、「リハーサル風景だけ見てもなあ」とか「変に感動的なインタビューとか盛り込んでいたらしらけるなあ」とか思っていたのですが、大きな間違いでした。

非常に面白かったです。これ、二度、三度続けてみても充分楽しめるデキでした。
元々、PVが好きだというせいもあるのかもしれませんが、超一流(一流ではない)の人々が集まって、超一流の作品を作ろうとする姿が、魅力的ではないわけがなく。
矛盾した表現なのかもしれませんが、ほんの一握りの才能を持つ人々がたくさんいる時点で、それだけで凄いというか。
プロデューサーって漠然とした職業も、ただ集まってきた人たちが、バラバラで仕事をしていたら、作品として成り立たないわけで、そんな人たちを一つの作品を完成させるべく奮闘する姿を見ていると、職業人のプライドが透けてきて、歌以上に感動してしまいました。

歌もダンスもできない私から見ると、マイケル含めて、ダンサーやボーカリストの人たちには、ただただ羨望のまなざしですよ。
もう、すげえのなんのって。
人間の動きを越えたっていうか、人間鍛えればこれだけできるのか、っていうか。
ダンサーのオーディションなんか、舞台上で何十人も一気に踊って、それで選ばれるって言う、後ろのほうちゃんと見えてるんだろうかと思わずにはいられないのですが、それでも、選ばれた十名のダンサーの魅力たるや、すさまじいものがありますし。
オーディションでは、どれだけ自分の魅力をアピールするかが肝になってくるので、女性なんかはほぼ水着みたいな衣装で踊っている人が殆どなのですが(レオタードすら論外で、殆どビキニ)いやらしい印象なんて皆無で、どれだけ自分の鍛えた肉体が美しいか、脚線美や身体のラインが魅力的であるか、と肉体のプロフェッショナルとしての美しさが見られて、それだけで眼福でした。
ああもう、超かっこいいよ踊れる人って。

そして、その中で浮いて痩せているマイケルって一体身体の構造どうなっているのでしょう。
年齢もあるのでしょうが、それにしたって、あの細さなんなの。女性ダンサーよりも確実に細い。
そういう自分の肉体を見せないために、リハーサルでも、ジャケットを着たりしているのかなあ、と思わないでもないのですが、それでも身体のキレは抜群ですし、リズム感も圧倒的。
自分の作品なんだから人よりできて当たり前、なのかもしれませんが、マイケルはまず、曲の通りにできてから、その上でプラスアルファを考えるという、ロックンローラーとしては珍しい(とインタビューでも他の人が言っている)タイプなので、とにかく自分の作品をやりこんでいるんだろうなあ。

そして、凄い私服のセンス。
マイケルくらいになると、私服だってスタイリストがついたりするのかもしれませんが、リハーサル衣装が、イコール舞台衣装よりすげえ、ってどういうことなの。
世界で一番スパンコールや、柄シャツが似合うのはきっと彼。


お涙頂戴ものではなく、純粋に最高のステージを作るために、集まってそれを実行したプロフェッショナルの集団たちのドキュメンタリーという感じの作品でした。
勿論、そこに流れる曲はマイケルの名曲たち。
編集した方が非常に上手かったのだと思いますが、それぞれ、見ている側の思い出に訴えるような、感情の押し付けが少ないいい作品でした。
この作品で感動するか、涙をこぼすか、それらすべては、それぞれの心の中で、っていうスタンスの作品は凄く好きです。
これ、DVD買うかも。
地上波でやってもらえたので、テレビで鑑賞。
私は介護という仕事についておりますし、現在勤め先が病院ということもあって、こういう生死を題材にした映画は基本的に見ません。
嘘くせえ、と一瞬でも思ってしまえば作品としておしまいですし、なんだろうな、死そのものには別にドラマも何もないので。私の仕事としては、死んだ後に行わねばならないことが問題になるのであって、別段それは感動をもたらすものではないので。

さて、映画の内容としてはわりと普通でした。
こうしてみると、題材のチョイスって大事なんですね。やっぱり、死者を送り出す物語、と銘打たねばここまで評判にならなかったでしょうし。

以前、紹介VTRを職場で見たときも、女房に仕事がばれたときの反応
「汚らわしい手で触らないで」
で、
「何が汚いだ!」
「じゃあてめーは両親や亭主を汚い格好で送り出すんだな!」
「このヒロスエが!」(広末さん関係ないですよ)
と散々だったのですが、この女房、本当にいい性格してる。
亭主の仕事を知って拒否反応を示すならまだしも、
「私は今まで何も反対しなかったでしょう? 笑って一緒に来たでしょう? だから今回だけは私の言うこときいて」
と言ってきたときは、私が男だったらこんな女即別れると真剣に思いました。
過去の行い持ち出して、自分を優位に保とうなんて、どんだけ最低だお前!

あげくの果てに、妊娠がわかった途端に勝手に戻ってくる始末。
私は『フォレスト・ガンプ』でもありましたが、女が妊娠して途端に男の下に戻るという性格が死ぬほど嫌いです。
一度出て行ったのであれば、戻りたいというのは、お前の勝手な主張であって、そんなことに子どもができたも何も関係ない!
まず、戻ってきてもいいか、っていう話からだろう!?
亭主との子どもであるならば、きちんと、二人の子どもだから、一緒に育てていこう、だからそのために色々話し合いましょう、っていうのが大人の対応じゃないのか!
ただでさえイラっとしたのに、またしても、
「子どものいじめの対象になる。中途半端な仕事はやめて」
と、お前………お前ー!!

でも、世間一般の評価っていうか、視線ってこんなもんなんですかね。
暴走族の連中に向かって
「この人みたいな仕事をして一生償って生きていくのか」
とか本気で言っている人もいましたが、別に彼は償いでこの仕事選んだわけでもなんでもないし。

シリアスな場面はともかく、なんかこう、叙情的なものを出したいときに、やたらとチェロをひくシーンが多いんですが、チェロをひくときに、何故か紫のフリルがついたシャツを着ていたときは、どんなセンスだと思いました。
あと、お父さんの手から石が零れ落ちて来るときとかねえ。
ベタっていうか、そりゃねえだろ握ったまま死んだのかよ、と。
しかも、そこでいきなりバタ、っと終わるので若干こちらは肩透かしでした。


とまあ、こんなことを書きましたが、基本的に終始泣いていました。(なんだって泣く)
主人公の友人の母親であり、風呂屋さんの女将さんが亡くなる。
常連客だった男性が実は火葬場の職員の方で、お母さんを見送る、っていうところでは、涙の嵐でした。
「ありがとう。また会おうな」
うわああああああ。
生死の話というよりは、家族愛とかそんな話でした。
『ウルヴァリン:X-MEN ゼロ』公式サイト

結局、ウルヴァリンの女の趣味はこの頃から変わってないんだなという映画でした。
いや、だってヒロインの女性、そのまんまジーンですよ!
ちょっとプエルトリカンで色素が濃い感じの女がウルヴァリンは好みなのか、と再確認できました。
アクションシーンは迫力があるし、ウルヴァリンと兄貴の戦闘や、拳銃使いも見ものなのですが、こう、我々が想像するミュータントの超能力超常対決は正直ありません。
ストームとか、サイクロプスを期待するとつらいというか。
CFで流れるカード使いも、実際殆ど出番はありませんし、サイクロプスとか本編で出てきた人たちの異能ぶりが逆に目立ってましたね。


一生懸命本編とつじつまを合わせようと頑張っているのはよくわかるので、そういう意味では佳作。
そうでないと普通、という内容でした。
ただ、やっぱりウルヴァリンのウォーズマンみたいな爪とか、サイクロップスの超能力とか、様式美的なものは個人的に好みなので、「何故お前は常に上半身裸で山の上にいるんだよ」とかつまらぬ突込みをしながら、スカっと見られる作品だと思います。

何でも、スピンオフでマグニートーの若い頃が描かれるらしく、そちらがむしろ超楽しみです。
マグニートーの能力は本当に映えるよなあ!


『仮面ライダー THE FIRST』
「受け継ぐのは、魂」
キャッチコピーだけかっこいい作品。
いやあしかし、酷かった。
私自身、仮面ライダー作品は実はひとつも見たことがなく(いわゆる平成ライダーの電王のみ)思い入れも何もあったもんじゃない、いわば白紙の状態で見たのですが、それにしたってこの脚本の酷さはなんだ!
ようするに、一号と二号の恋愛関係のいざこざ、っていうんですか。それが主題で物語が進みます。
別にいいんですよ、女取り合ったって。
むしろ、「たとえ世界全てを敵に回しても俺はその女を取る」っていうのは、黄金のロマンですから。
ですが、前知識がない分、別に改造人間の悲哀とか、そういうものに主軸をおいてもらいたいわけではない私が見ていても、このヒロイン含めた恋愛模様が陳腐すぎる。
王道が悪いというのではないし、ベタが悪いとも思いません。
でも、ベタっていうものは全体的な作品の符号が取れた上で、質が「ベタ」であるから面白いのであって、恋愛部分だけがベタとか、感情発露の演出だけがベタだと、違和感を感じて仕方がないです。

役者陣がそろいもそろって演技が微妙なのは、もうデビルマンほどじゃなかったとあきらめるとしても、ヒロインの感情移入できなさ加減は半端なかったです。

婚約者を殺された場所に居合わせた本郷を、警察に通報するわけでもなく、ただ「真実を暴く」とかわけのわからないことを言う。あの状況では婚約者は普通に殺されただけであって、真相も何もあったものではないのに。
その挙句、一号に助けられてはよろめき、婚約者に似ている(婚約者なのか?)二号によろめき、猿回しの猿のように、都合よく襲われたり、そして個人的に一番うへえ、と思ったのが、都合よく気絶する。
気絶って、便利に仕える技なんでしょうが、作中であまりにヒロインが気絶するので、本当に気分が萎えました。一回や二回じゃないんだぜ! 脚本が「ここは眠ってて欲しい」という場所で都合よく気を失うので、見ていてげんなりしました。

大体、ヘルメットだけ外して他は一号スーツの本郷を目撃したのに、ヘルメットかぶった一号に「貴方は誰なの? その素顔を見せて」とか馬鹿じゃないのかお前。

物語にのれなかった理由の半分は、このヒロインだと思います。
そのヒロインを一号二号が取り合うってんだから、そりゃあ物語に感情移入できるはずもなく。

二号も、あれだったら婚約者殺さないで、ショッカーたちにさらわれるのを目撃した、とかにしときゃあ良かったのに。
それなら、二号がヒロインに固執する理由(人間だった頃の記憶が残ってるとか)だって説明がつくし、大体お前最後さわやかに去って終わったけど、自分の体の異変どうすんの?(改造されたせいで定期的にショッカーでメンテナンスを受けないと駄目、っていう描写が途中あるんだけど………何も解決しないままで終わる)

ついでに、一号が何でメンテナンスがいらないのか、という理由もなし。

逆に唯一のメンテナンスのいらない成功例なら、二号とは違う特別描写が絶対いるだろうが! 不死鳥のごとくピンチからよみがえるとかさあ!
大体、改造されてヒロインに付きまとわれているのに、普通に大学生活に戻っているあたり、一号のやりたいことはわけがわかりません。

仮面ライダーの造形などは、非常に良かったです。
変身シーンも厳密にはないのですが(ヘルメットはただかぶる仕様なので)ベルトがアップになり、そこから虫を思い出させるライダースーツがアップになると、非常に迫力があります。
スーツのデザインもシャープで、こう甘い要素がなく、セクシーさすら感じられるいいデザインでした。
二号のほうが明るくて、一号は色合いも含めてダークな印象が強いのもポイント高し。
途中出てくる、コブラとスネーク怪人のデザインも、カッコよくて素敵でした。
クモ怪人とか、コウモリ怪人とかが、かっこいいというよりは、ノスタルジーのあるデザインだけに、わざと対比になるように、現代風デザインの怪人も置いているんだと思いますが、どちらも素敵でした。

派手な必殺技もありませんが、敵を倒すのはきりもみキックであったり、ダブルライダーキックだったりする、人間が元になった改造人間の魅力満載で、アクションシーン(いい意味で古臭いワイヤーアクション)はとても楽しめました。

役者陣はまあ、コブラとスネークの中の二人が一番頑張ってたんじゃないかと。上手かったし、女の子は可愛かったし。
ベテラン勢はともかくとして、まあ一号、二号、ヒロインはノーコメントレベルでした。
個人的には、借りたDVDのメインメニュー画面で並ぶ二人の絵が一番良かったです(もう物語ですらない)。



『仮面ライダー THE NEXT』
ディスカスが一緒に送ってきてしまったので、逃げようがありませんでした。

前作から二年経っているわけですが、全裸に黄色いマフラーで怪人が現れた時は、目が点に。
あ、でもただ黄色いマフラー集団はデザイン的にも凄くカッコよくて良かったですよ。萌えました。

その後、思いがけずホラーな場面ばかり(しかも妙に力が入っている)が続きますが、一文字がクラブでドンペリ頼んだりしているシーンもあったりと、笑いとそうでない部分の温度差が激しすぎます。

しかし秘密組織に追われているにも関わらず、堂々と教師になって生活している本郷に仰天。
ただ、キャラクラーとしては本郷凄く立ってました。お人よしで生徒に馬鹿にされている、及び腰で情けない男。
それでも、生徒を懸命に助けようとして、結果正体がバレてしまう。
本郷、ドジっ子としてかなりの昇格を果たしてました。
不法侵入時に、「失礼しま~す」とか、恐る恐る入ってみたり、甘党でコーヒーに砂糖四杯入れてみたり。

一文字とは、びっくりするくらいホモ疑惑が漂っていてそちらもびっくり。

「お前友達っていったら俺だけだろ」
「そういうお前もな」
ギエエエエ!

ほぼ相思相愛なんじゃないか、というくらいの構いっぷりに仰天。
血液汚染が治らないままの一文字に、当身を食らわし、最後の戦いに赴かせないようにするなんて、それどんなヒロイン扱いだ。

今回、前作におけるヒロイン担当が不在なのは、それはそれでよかったです。生徒はあくまで本郷にとって庇護対象であって愛情じゃないし、謎の包帯少女関係は風見の領分なので。
本郷は、善人だから一文字が心配だし、ショッカーは倒さないといけないと思っているという、素直な性格表現は中々良かったのではないかと。
こいつはキャラ立ったなあ。一文字もかっこつけのうっかり君で可愛かったです。

前作登場人物の二人は良かったですが、肝心のV3こと風見の物語は正直弱い!
妹であるチハルも怪奇事件に関わっているんだかいないんだか。面と向かってショッカーを止めてくれと言われたわけでもなく、そう思い込んでショッカーを裏切る風見の頭の悪さは一体………。
実際、チハルが替え玉になっていて実の妹ではない、ということとショッカーのやってたことは別にイコールでもなんでもない(そっちはそっち芸能界裏話のようなもんで)ので、実際風見が妹のことを心配するからといって、それがショッカーに敵対する理由にはならないんですよね。

結局、貞子のように怪奇事件を起こしていたのは、チハルの亡霊? というか精神体みたいな扱いでオッケーなんでしょうか。肉体は廃棄場にいたわけだし。そうなると、チハルはチハルで手当たり次第にそこらへんの人を殺していた、ってことですよねえ。ファンクラブ会長とか普通にかわいそうじゃないか。

これも、ごく普通に風見を利用するために、ショッカーは自殺したチハルをナノマシンで生き返らせて、だからこそ風見はしたがっていたのに、実際死の原因はそのナノマシンだった、とかそれでよかったんじゃ………。
都市伝説的な、アイドル整形替え玉とか、あの辺全部いらないよなあ。

やっぱり今回もシナリオはぐったり、というデキでしたが、前作より極端にキャラ立ちには成功していると思うので、そういう意味では面白かったです。
個人的にはもう少しV3に活躍の場が欲しかったですが………。
『日の名残り』
様式美にやられた作品でした。
古きよき時代のヨーロッパ。
広大な土地を持つ貴族。
そこに使える初老の執事。
客は燕尾服をまとい、絵画を誉め、婦人は歌声を披露する。
最高でした。
本来ならば、アンソニー・ホプキンス演じる、初老の執事と、エマ・トンプソン演じる女中頭との、秘めたる恋愛が主軸なのかもしれませんが、それは別にどうでもいい。
この恋愛も、プラトニックを通り越して、常にお互いに期待しすぎの一方通行なのです。
映画を見ている側はそりゃわかります。なんとなく、この二人は好意を抱き合っているんだろうな、ということくらいは。
ですがそれは、実際の人たちにとっては「もしかして、この人は私のことを好きなのかしら」「もしかして、私はこの人のことが好きなのかしら」という期待にしか過ぎないのです。しかも、凄く淡い。
その期待が常にすれ違う。
あのとき優しい言葉をかけてもらえれば。
微笑んでもらえれば。
好きだと告げてくれれば。
結婚するなと言ってくれれば、私は貴方のそばにいたのに。

どちらも相手に同じような期待を抱き、そしてそれはどちらも叶わない。
ある意味、人の好意という一番わけのわからないものを、身勝手に期待してそれぞれは何も語らず別れるはめになるのです。
当然と言ったら当然ですね。
身分違いの恋というわけでもなく、大きな障害があるわけでもない。
それでも、互いに何も伝えずただ日々が過ぎてします。
それは、お互いの責任であり、もう少し素直になればというのは傍観者の発言にしか過ぎないわけです。

「この人は私のことが好きなんじゃないかしら」
というのは、現実には往々にして勘違いです。
ですが、第三者でありただの物語の閲覧者である我々は、そうではないということを知っている。
だが、物語の中の人物は知りうることができない。
そんなすれ違いは、二十年の年月を経てもまだ、埋めることはできずに存在し、男女は、別れの挨拶をしてそれぞれの生活に戻る。

実際、二人の心の機微と執事が勤める屋敷や時代背景はほぼ、半々ぐらいの割合で語られます。
二人の関係は、多少の物語性があるかもしれませんが、他は殆ど、アンソニー・ホプキンス演じる執事長の仕事っぷりがメインになります。
私にとっては、むしろそちらが主題でした。
窓を開ける。
銀器を磨く。
食事の際の給仕は常に背後に控え、鳴らされるベルに対応する。
主が読む新聞紙にアイロンをかけ、ゲストが扱う食卓は物差しを使って、食器の位置を寸分の狂いもなく整えていく。
そのプロフェッショナルな仕事の動き。
そして、そのプロが使える広大な屋敷の情景がたまりません。
私はもう、開始直後の狐狩りの様子で魂を抜かれました。
何処までも緑色に広がる草原。
赤や、黒の燕尾服を身にまとった男女。
山高帽をかぶった、紳士と淑女が、颯爽と駆け抜けていくその風景は、まさに様式美の極地でした。

しかしねえ、執事ってのはこうじゃないといけない。
もう、変に主人に話しかけたりとか、構ったりするのは執事じゃないんだよ!
執事は、主のこと全般を受け持つのではなく、「家」全てを取り仕切るのが仕事なんだよ!
だから絶対無駄口たたかないし、自分から主人に話しかけるなんてもってのほか!
主人に口答えなんてありえないし、何か質問されたとしても、答えはただひとつ。「申し訳ありません。私にはわかりかねます」これだけ! これだけでいいんだよ!!
そんじょそこらの、変にベタベタ関わってくる執事どもに、聞かせてやりたいくらいでした。
こういう執事なら、大歓迎だなあ。

ただ、アンソニー・ホプキンスは、ちょっと執事のイメージから遠いような気がしますが………。エマ・トンプソンは凄くイメージぴったりだったんだけど、こう、アンソニー・ホプキンスは、執事にしては主人オーラありすぎるというか。
ふてぶてしい感じは別にいいんですけど、なんだろう、こう体からにじみ出るオーラが隠しきれていないというか。
燕尾服そのものは、あれくらい肉付きが良くても全く構わないんですけどね。

古きよき時代(実際戦争中の話なので、全てが明るいわけではないですが)の様式美を楽しみたい方はぜひ。
ポワロとか、ホームズよりも、遥かに核の違う身分の様式美は見ごたえありですよ! 金持ちが正しい贅沢をしているさまはこうもかっこいいか!

最後まで見て気づいたのですが、エンドロールも意味があるんですね。
普通、アンソニー・ホプキンス、エマ・トンプソンが一位、二位を占めると思うんですが、これが違うんですよ。
一位が、長年執事が仕えていた相手。
そして二位が、新しく執事が仕える相手なんですよ。
アンソニー・ホプキンスはその後、三番目なんですね。
あくまで主人に仕える執事としての世界観を守った、エンドロールまで凝っていた作品でした。
カレンダー
01 2025/02 03
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28
ツイッター
ブログ内検索
メモ

公式サイト11月10日発売予定








ファンタスティックMr.FOX
アリス・クリードの失踪
4デイズ


美術系
・氷見晃堂(石川県立美術館)
・佐々木象堂(佐渡歴史伝説館)
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright (c) 雑記 All Rights Reserved
忍者ブログ / [PR]