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日々のつれづれ。ネタバレに過剰な配慮はしておりません。
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『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』
中々面白かったです。若干長いですが。
クリストファー・ウォーケン祭り。
実は私、レオナルド・ディカプリオが出演している映画を、殆ど見たことがないんですが、わりと普通の俳優さんなんですね。どうしても『タイタニック』の印象が強くて(ちなみに見てません)イケメン俳優というイメージが強かったんですが、実際それはちょっと損をしている誇張に見えました。別段顔も二枚目ではない。(私の美に対する基準はずれておりますが)
内容も案外シリアスで、でもそれを父と息子の関係に集約しているところが、さらっと見られました。これがまた、母と息子になってしまうと、どうしても擁護的でくどくなってしまいますが、父と息子の場合は、敬愛が先にたつので、見ていてドロドロしないんですね。
全く立ち位置は違いますが、この、匂いのしない男性同士の関係こそが、父と息子にせよ、赤の他人同士にせよ、異性があこがれる要因なのかな、と思いました。

話はそれましたが、詐欺師の話なので、キモはいかにして未成年のディカプリオが、小切手サギを働いていくか、になります。アメリカってああも小切手世界なんですねえ。なんかもう、それだけ偽造されるなら、やめちまえよ小切手のシステムそのものをと思わないでもないんですが。

パイロットを名乗り、医者を名乗り、検事を名乗り(しかも実力で司法試験に受かり)最終的に得たものは友人であり、そして、サギ時代よりも遥かに額が上の金だった。
シュールですね。本来ならばその友人の席や、息子を更生させるきっかけになるべきだったのは、クリストファー・ウォーケン演じる、愛すべき父親なのでしょうが、それが脱落してしまった以上、トム・ハンクス演じるFBI捜査官になってしまったのは、ある意味必然だったのかもしれません。
彼に必要だったのは父親であり、友人であり、母親ではない。
彼にとって母親は、母ではなく、尊敬する父の妻であることに価値があったのでしょうし。

サギを働く一連のシーンは、見ごたえたっぷりです。やっぱりあれだよね、女をくどく才能がなければ金は手に入らないよね。
くどく、までいくと大げさですが、女に対する手間隙を惜しまないっていうのは、アメリカ男のステータスであって、それを下地にして行っていく悪事っていうのは、凄く生々しかったです。
何かお願いをして欲しいときに、ただプレゼントをするのではなく、
「これ、駐車場に落ちてたんだけど、君のだろう?」
と、当人が覚えのないネックレスを、そうと決め付けてプレゼントするなんて、お前それどんだけおしゃれなんだよ!

散々怒られて泣いている看護師に向かって、
「君は無能なんかじゃないよ。◎◎氏のカルテを調べてくれ、って言われたら? すぐできるだろう?」
「できるわ。この方は骨折で入院した人ね」
「ほら、君は優秀だ。駄目なんかじゃない」
とかさ! 勿論カルテの内容を知りたいっていうのが本音なんですが、ただ甘い言葉で慰めるんじゃなく、ちゃんと、相手の仕事としての尊厳も回復させるって言うのが、言葉選びの上手さなんですなあ。

この最初のサギともいえる手段は、父親から受け継いだものなので、やっぱりこの物語は父に始まり父に終わる、という印象が強かったです。

レオナルド・ディカプリオは好演。
クリストファー・ウォーケンはこんぐらい年取った役のほうがいいですねえ。あと、そうは見えないけど実は黒幕みたいな役のほうがらしいです。
『ニック・オブ・タイム』では、ただただ乱暴者みたいで、逆に魅力が消えうせていた感がありましたが、今作は、勿論いい父親なんだけど、それ以上にいい男でもある父親、を演じていて凄くかっこよかったです。
「あんたも子供を持てばわかるさ。子供を売る親はいない」
あークリストファー・ウォーケンが親父だったら、そりゃあ、ああいう息子に育つよなあ!
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『ターミネーター4』
ネタバレあります。要注意で。




良くも悪くも普通のアクション映画でした。
最近こういうの多いなあ。
『トランスフォーマーリベンジ』でも思いましたが、人対人智の範囲内の武器、という図式ではなく、人の理解を超えた『物体』との戦闘が、人ならざるものの戦闘としての醍醐味だと思うのです。
圧倒的に力のある存在に非力な人間がただ逃げ回る、というのは1でやっているし、ターミネーターという存在の真骨頂である、未知の生物が未知の力を使って追い詰めるというのは2でやっている。
4である今作は、もうマシンがマシンとして普通に戦っているだけなので、これまた人間とのある意味不思議な戦闘がないんです。圧倒的な戦力があるのはそりゃそうなんですが、でもやっぱり、マシンガンやバズーカと相対するのは、戦闘機であり、戦車なので見たことがないもの、ではないわけです。

まあ、普通のアクション映画だと思えばそこそこ楽しめるんじゃないでしょうか。
1や2で感じた、ターミネーターという存在の圧倒的な最先端の殺人マシン、は何処にもありません。
その代わりに、自分が何物かわからない、人として生きることを選んだターミネーター・マーカスは、傷つきながら必死で人として生きようとする、等身大のターミネーターとして、気持ちの上では一番、2のターミネーターに近い存在として感情移入できました。
むしろ、主役はジョン・コナーでもなければ、カイル・リースでもない。完全にマーカスです。
彼の表皮がはげ、特徴的な骨格、骸骨が半分むき出しになっても、自分は人だと、人とはなんなのかを最後まで迷うことなく遂げるのは、ジョンでもなければ、カイルでもない。
自分が誰であろうが、揺らぎのなかったマーカスこそ、まさに「運命を変えた」存在そのものなのでしょうな。

それだけに、ラストでマーカスの申し出をあっさり受けるジョン、貴様………!
むしろ、お前が受け取らずマーカスがそのままで私は良かったよ!

マーカス役のサム・ワーシントンが、マッチョで知性派イケメンで倒れそうになりました。
ワイルドなんだけど、なんか、それだけじゃない知的差が彼にはあるんだよ………! 完全に主役はマーカスでした。顔の好み含めて。

例のシュワ型(笑)ターミネーターは一瞬でしたが、ちゃんとシュワちゃんしてました。すぐそうじゃなくなっちゃいますけどね。

やっぱりあれですね、ターミネーターは2の液体金属に限るという感じでしょうか。
あれを『越える』インパクトのあるターミネーターはもう、難しいだけに、原点的なヒューマニズムのあるターミネーターっていうのは、いい置き方だったのかな、と思います。


余談ですが、マーカス役の男性、なんと32歳。

同級生かよ!?

映画よりも何倍もたまげた瞬間でした。
『セックス・アンド・ザ・シティ』
ドラマは見たことがありません。映画のみ。
凄く長かったです。まあ最終的には誰もがハッピーエンドって感じなのでしょうか。
ただ、女四人いて全員が全員と仲がいいなんてことあるわけないと思ってしまうのは私がまだ悟りきれていないからなのでしょうか。
多分、私のタイプとしてはサマンサなんだろうなあ………。
シャーロットほど家庭大事じゃないし、ミランダほど仕事一筋でもないし。かといって、キャリーのようにキャリアウーマンとして対等に男性と付き合って愛情を与えられるほど修行を積んでないし。
そうなると、「貴方を愛しているわ。だけど、私は私を一番愛してるの」というサマンサなんですよねえ、ぴったりなのは。
サマンサの場合、性欲が一番の幸せであったわけですが、私の場合はセクシーさもあれほどの積極性もないけれど、己の幸せが一番という時点で、完全に立ち位置としてはサマンサでした。あー相手のウェイトが自分の中で割合を占めてくると、「なんか違う」と思ってしまうあたり、本当にもう、なんだかなあ………と。いえ、サマンサはキャラクターとして魅力的ですが、私はあそこまで対人に対しての魅力などないので。

DVDのチャプターで四人居並ぶ姿を見ると、一番美人なのは圧倒的にシャーロットである、というのも中々面白かったです。でも、彼女は別に外見の美しさを売りにしているわけではないですが、でも、普段のおしゃれ姿とかを見ている限り、自分がきれいだってことは自覚していないわけがないっていうのが、なんとも。シャーロットが一番なんだろう、こう、同性受けしない感じがしました。集団の中でああいうクッション材的な女性は必ずいるし、一番大人なんですが、日本だとついおとなしい感じの女性がそれを担いますが、さすが向こうの国だと、そういうスタンスだけど基本気が強いので、嫌な印象ではありませんけどね。
リアルに感情移入できるのは、圧倒的にミランダでしょうねえ。仕事もするし、友人関係も大切にするし、旦那が嫌いなわけじゃないけれど浮気が許せないのは当然で、でも一人は寂しい。友人に対して必死に謝って事情を説明して仲直りしよう、という根性は私にはもうありませんが………。いや、これすっごい難しいですよ。人間関係の基本は自然消滅ですからね。しかし自分にないもんばっかりだな。もうこの歳になっちゃうと、「駄目なものは駄目」って割り切っちゃうからなあ。人間関係も。
主人公のキャリーは、ちょっとおしゃれすぎますよねえ。結婚しないで十年間同年代かそれ以上の(ここ重要)恋人がいて、生活スタイルも如何にもNYスタイルに洗練されていて。御伽噺っぽいですしね。

でも、向こうの映画は歳の差萌えも確かにありますが(昼下がりの情事レベルで)、ちゃんと五十くらいの男性が選ぶ女性が四十台ギリギリっていうのが嬉しいですね。こっちだとどうしても、年上の男が選ぶのは結局若い女かよ、っていう腐れ方が三十過ぎの女としては見ていて思うので。
いいなあ、愛こそすべてとか、真実の愛を探してるのとか、言ってみたいなあ。


『ニック・オブ・タイム』
『素晴らしき哉、人生!』
この二本はイマイチでした。
どちらの映画も共通して、最後に主人公が幸せになる、勝利者になるのは勿論それはそれでいいんだけど、それとは別に、悪もそれなりの報いを受けて欲しいと思ってしまうというか。あまり最後まですっきりしない映画でした。
特に『ニック・オブ・タイム』はクリストファー・ウォーケン目当てで見たようなものだったのですが、彼もあまりパっとしないし、最後のオチはイマイチだしで、面白くなかったですね。
『素晴らしき哉、人生!』は昔の、ジェームズ・スチュワート主演の映画で、程よいウィット、程よい感動でつまらなくはなかったのですが、これも諸悪の根源である人間は別に報いを受けるわけではないし。
最後も『友人がいるものは人生の敗残者ではない』という言葉で終わるんですけど、そうなると、友人がいない私なんてどうなっちゃうのだと、向こうは幸せかもしれないけれど、見ているこっちは幸せになれねえ、というような身も蓋もない印象で終わりました。


『トランスフォーマー リベンジ』
萌えでいうなら、前作のほうが良かったです。
今作は正直、オートボットたちまるで活躍しないので。
ディセプティコンは、まあまあ活躍しますが、見ているこっちは、オプティマスプライムの可愛い個性とか、その仲間たちの戦いぶりをみたいわけで。
やっぱり向こうの映画だなあ、というか、ディセプティコンに相対するのは基本人間側であって、人間の色々な兵器でボコスカやられても、あまり気持ちの上で盛り上がりません。それならば別に、トランスフォーマーである必要はないわけで。

主人公とヒロインのいちゃいちゃなんてどうでもいいので、もっとオプティマスたちの個性が見たかったところです。
メガトロンと、スタースクリームはばっちり出番があり、ラストも続編がありますよ、という終わりだったのですが、次回作はもう、地球が舞台でなくてもいいかなというか遥か先の未来とかでもいいです。

あと、今回オプティマスがかなりぞんざいな言葉遣いをしているので、メカボイスでディセプティコンたちとやりあうと、正直どっちがしゃべっているのかよくわかりませんでした。
これ、固定の声優さんがついている(アニメなどで)吹き替えを見た方が面白いかもしれませんね。とにかく、ディセプティコンやオートボットたちのギミックだらけの身体が絡み合ってる(おい)と、どっちがどっちだかわからないんだよなあ。
『バイオハザード3』
主人公アリスが、大友漫画みたいな超能力者になっていて凄く驚きました。
カッコイイアクションって、やっぱり目に見えない能力よりも、肉体派ボディを駆使して画面を縦横無尽に駆け回る方が、見栄えがするので、確かに便利かもしれませんが、超能力の「凄さ」を、映えるようにアピールするのって難しいと思うのです。
またこれが、X-MENクラスの外見から何から何まで異星人になってしまえば別なのでしょうが、アリスの場合は華奢(きゃしゃ………?)で細い女性が、似合わない巨大な銃をぶっ放し、ゾンビどもを駆逐する様に見ごたえを感じていたので、ある意味、神のようになってしまったアリスは、逆に人としてのアクションのかっこよさから外れてしまうというか。

三作目になって、いよいよ全く怖くもなんともないただのアクション映画になってしまいました。うーん個人的には2くらいのサスペンスアクションくらいのさじ加減のほうが好みです。
悪趣味かもしれませんが、「かつては人間だった」ゾンビが、「殺されていく」様と、「カラスの化物」を超能力で退ける、では、圧倒的に前者のほうが生臭いわけです。
アリスがそのどちらも「殺す」ことにためらいなどなくても、ゾンビっていうのは=人間なしには生まれないわけですから。

今回、あまりアリスとゾンビの直接対決もなかったので、そういった点でちょっと肩透かしでした。
自分が殺されるかもしれない、というわけのわからない世界で絶望と戦うのではなく、世界は既に絶望に支配された状態になってしまった今となっては、なんだろう、その絶望が当たり前になってしまって、1と2作目で恐怖と感じられていた部分さえも薄くなってしまうんですよね。

ゾンビに傷つけられるとゾンビになる。ゾンビは血肉を求めて襲ってくる。それはもうこっちは知っているわけであって。

それにしても、これで完結と聞いたのですがむしろ、謎はこれからだくらいに、続編バリバリだったのは何故なのでしょうか。いや、1や2の比じゃなかったですよ。ありえないくらいに。

キャラクターとしては、マッドサイエンティストのアイザックス博士がダントツでかっこよかったですが、クリーチャーになっちゃいけない………!
白衣でいっちゃってる姿のまま、むしろゾンビに食われて欲しかったよ………。


『闇黒街の顔役』
毎回ツタヤから送られてくるDVDには、「何故私はこの作品を予約リストに入れてしまったのだろう」と思えるものも結構あります。
この作品もそうでした。何でギャング映画を借りようと思ったんだろう………。しかも、作られたの1932年とかですよ。白黒も白黒。DVDなのになんだこの画像、と思いながら鑑賞しました。
セミドキュメンタリーという雰囲気の映画で、勿論フィクションなんですが、ギャングとかマフィアとか、実際にあった事件を元に作っているらしく、まあこれが人が死ぬ。しかも、ナイフで刺されてとか、首を絞められてとか、そんな、「意味のある殺し方」ではなく、ただ撃たれて死ぬ。
ギャングは銃を持っている。暴力で相手を黙らせる。黙らない相手は射殺する。ギャングの力=銃であり、マシンガンであり、リボルバーである、という、至極真っ当なアメリカのギャング映画なのです。
相手は別に意味があって死ぬわけではないし、こちらも別に意味があるから殺すわけではない。
ただ、銃をぶっ放すということが、このギャング映画の記号なのでしょう。その記号を出し惜しみするなど、ナンセンス、ということです。
画面上から血は一切流れませんが(相手を殴るシーンもあるが、ほぼポーズである、殴る迫力はほぼない)「バババババ」という派手なマシンガンの音に、「ガーン」というコルトの音が響けば、そこはもう、ギャングたちの抗争の真っ只中。

そんな世界で、やはりギャングである主人公のトニーが、ギャングの方法を用いてのし上がっていく、という、ある種それだけの映画なのです。
ただ、そのそれだけというのは、イコールたまらん様式美であるのは間違いありません。
男たちは、常に三つ揃いのスーツを着込み、帽子を目深に被り、汗一つ流さない。
殺し損ねた相手の存在を新聞で読めば、すぐさま取って返し、入院している病室で銃をぶっ放す。
常にタバコか葉巻をくゆらせ、相手の警察官のバッジでマッチをする。
酒を飲み、劇を鑑賞し、そして金髪の美女をはべらせる。
これが様式美でなくてなんなのだ! というくらい、想像できるギャングの姿がここにあります。
個人的に、感情移入は一切できませんが、傍で眺める分にはこれ以上魅力的な世界はないのではないかと。
主人公のギャングが、とにかく、殺人に対して一切何の感情も抱いていない、というところが凄く良かったです。
いちいち人を殺すことに意味はないし、それによって自分の精神が疲弊していったりしない。彼にとって暴力は手段であり、それ以上ではない。殺さないですむなら殺さないが、殺したほうが楽だし、そういうものだという主義ですらない考えのもと、ギャングとして普通に生きている主人公が、凄くスタイリッシュなのです。

元々、古きよき時代のアメリカンとか、ギャングとかマフィアは、映像として見ている分には、凄く好きなので、ハードボイルドな映画としても非常にお勧め。
むやみやたらなお涙頂戴シーンも一切ありませんし、気分がトーンダウンすることもないので、言い方はおかしいですが、気楽に見られます。

そして、この時代の美女はもう、問答無用で美女ですな!
人によっては可愛いとか、見ようによってはきれいなんじゃない? とかそんなレベルではなく、美しいから愛人なのであり、美しいからこそ強い男のそばにいる権利があり、対等に口を聞ける存在だからこそ特別なのであるという、誰が見ても納得せざるを得ない美しさがそこにあります。
真っ赤な口紅に、付けまつげに、アーチを描く眉。
いやーこの時代の女優さんはやっぱり映像として凄く見ごたえがありますね。出てくるだけで映える、っていうのは、やはりその美を誇るべきですよ。

この映画、最後やりたい放題やってきた主人公が、偏愛する(これがもうどうも家族愛通り越して近親相姦スレスレ、というか、多分精神面では互いに完全に同一存在的なエロスがある)妹と、今までずっと一緒だった、相棒がデキてしまったことに逆上し、射殺し、そこから足が着いて警察に囲まれ、命乞いをしながら無名の警察官に殺される、という、悪党の末路としては完璧な死に様を迎えます。
もう、余韻もなくただひたすらおびえて、共に立てこもった妹に(「兄さんと一緒だから、怖くなんてないわ!」と、自分の夫を殺した兄に対して笑顔で言うんだぜ………。もうこれが恋愛でなくてなんなの)先に死なれて「お前が死んだら誰が俺を助けてくれるんだ」とか、図体のデカイ男が泣き叫ぶ様は、もう、見事でした。

役者陣も魅力的で、主人公トニー演じるポール・ムニはあまりのエロさに倒れそうになりました。
ポマードでべっちょり撫で付けた髪に、最初はだっさい下っ端の印象だったのが、あれよあれよというまに、金時計に三つ揃いなんて似合うようになっちゃってからは、もう………! 燕尾が似合うギャングってどういうことだ………!
そして、トニーに殺される相棒のリナルド役の、ジョージ・ラフトも悶絶。無口で殆ど表情も変えないんですが、別になんだろう人付き合いがヘタとかそんなこともなく、無類の女好き。トニーがリナルドを探す時、片っ端から女のところに電話をしていることからもそれはうかがえます。
女の頬をつねりながら「ベイビィ」なんて平然と言えるムッツリに脱帽。
このリナルドのくせが、コインを片手で投げ上げ、キャッチするという動作を繰り返すというもので、その無言のアクションに痺れました。こりゃ、真似するわな!

ギャング映画の大元となった作品として、お勧めです。
『グラン・トリノ』公式サイト

ジョナサンのステーキ丼は予想外に美味しかったです。
とても美味でした。
いえ、これは映画を見終わった後の思い出なのですが、肝心の映画そのものはわりと普通の映画でした。
別につまらないとか、そんなことはなかったんですが、基本的にエキサイティングする映画ではないし、話の展開やそれこそキャラクターに関しては、ある種使い古された感があるので、感想にしろなんにしろ騒ぐような話ではありません。

うーん、クリント・イーストウッド映画と相性が悪いのかもしれませんね。悪い、というと大げさですが、あれだけ評判になった『ミリオンダラー・ベイビー』も個人的には、そこまで騒ぐほどの映画じゃない(ボクシングシーンと、戦う相手の迫力は最高だったけど)と思いましたし。

戦争の記憶が残るアメリカ。移民や人種差別発言をガンガンする、偏屈な壮年男性が、妻を失うところから物語は始まります。
あらゆることが気に入らず、人を見ては眉間にしわを寄せる男は、当然隣人であるモン族の移民も気に入りません。
かたくなな態度は家族にも現れ、男は孤独に生きています。
そんな中、ふとした折に、男の芝生でモン族の不良たちが争いを起こし、結果隣人を助けるはめになってしまいます。
その後、感謝の印だと、モン族の人間たちと親しくなっていく男。
ですが、男が大切にしている名車、グラン・トリノを隣人の少年、タオが不良グループに強制されて盗みに入ってしまいます。
結果失敗し、タオはつぐないのために、男と付き合うことになるのですが………。

というのが、非常にあっさりした大まかなあらすじ。
タオとその姉のスーを中心に、男は交流を深めていきます。
ただ、タオやスーを付けねらう、モン族の不良たちが、必死になって自立しようとしているタオにちょっかいを出し、それを黙らせた男の報復として、タオの家は銃撃を受け、そしてスーはレイプされてしまいます。
復讐に燃えるタオ。自らの行いを間違っていたのかと一人悩む男。
結果、男はタオを地下室に閉じ込め、一人で不良たちのいる場所へ向かいます。
「火をつけさせてくれ」
男が自らの懐に手を伸ばした時、いっせいに銃が火を噴き、不良たちの放った弾丸は男を撃ちぬきます。
転がる男の身体。取り出された手のひらにはいつも使っていたライターが握られていました。
男は、戦争の傷をひきずっています。殺すことはできますが、「命令ではなく自ら殺した」ことをずっと思いながら生きています。
そんな男が、余命いくばくもない自分の終末を、殺すことではなく、殺されることで、タオを生かそうとした。
結果、不良たちは長期刑に処されます。
男亡き後、遺言状には、「我が友、タオにグラン・トリノ譲る」と書かれていました。

事件が起こるのは、タオの家が襲撃されてからで、それはもう物語の中ではかなり終盤にさしかかってからです。
尺を取って描かれているのは、男がいかに偏屈であるか。タオとスーとの関わり方。情けない少年だったタオが、胸を張って一人の男に「自分がしてやろう」という男の行動。
今まで自分が歩んできた数十年の間に積み重ねてきたもの。室内の無数の工具。口の減らない友人。磨かれたグラン・トリノと芝生。世界で最も美しい妻。そんな男の人生(生活に根ざした)が、暴力シーンでも、ざんげでもなく、多く描かれているのが、この映画の本質なのでしょう。

特に上手かったのは会話の妙ですね。
日常会話もウィットに富んでいて(元々向こうの会話は、口を開けば小粋なジョーク(笑)みたいな表現が似合いますが)、大笑いはせずとも、にやりとさせられるシーンはいっぱいあります。
男が何らかの決意を固めて、あれほど避けていたざんげに来た際も「昔妻がいるのにキスをした」とか「ボートを売ったけど税金を申告していない」とか言ってしまい、真相を知る神父が「それだけ? ならとりあえず祈っとけ」みたいな感じで、とっととざんげを終わらせようとする様とか、シュールなんですが、互いの必死さと決意が伝わってきて、妙に笑えます。

神父は地味な役なんですが、男の罵詈雑言にもめげず、それでいて宗教臭くない肝っ玉の据わった27歳の新米童貞なので、見ていて入り込みやすかったです。
「あのクソ野郎どもを、どうする気です」
男の復讐を予感し、必死にそれを食い止めようとする様は、神父ではなく一人の人間として尊敬できます。

感想を書いている分にはいいんですが、実際のところは、「どうしてこう馬鹿な奴らが山ほどいるんだ! あんな奴全員埋めちまえ! どうして徒党を組んでブラザーでいきがって馬鹿じゃないのか脳みそおかくずか!」と、憤ったまま終わった感じでした。

だってまだティーンの女の子をですよ!? いとこがですよ!? 乱暴してレイプしてボコボコにしてって、それありえるわけ!? もう更生とかそんな問題じゃないだろう!?
あんな奴らはトレーラーで全員つぶしてやればいい、とそればかり思っている間に、映画は終わりました。
いえ、本来ならば、秀逸な日常描写を楽しむべきなんでしょうが、どうも怒りの沸点が低いものでつい。

知り合いは、最近自己犠牲による救済、みたいな映画を立て続けに見たらしく、それにはうんざり、そりゃ自分は死んで後のこと考えなくていいんだから気持ちいいかもしれないけどさあ、と若干この手のオチに飽食気味だったらしいのですが、この映画はあっさりそれが見られた、とのことでした。
何が違うのだろう、と考えてみたんですが、やはりこれは感動の物語ではないからではないかと。
男は別に感動するためにタオと付き合うわけでもないし、「自らの孤独を埋める」ためにモン族たちを守るわけではない。自分が気に入らないから、結果として不良どもをのしただけであって、その結果得られるものは自らの幸福であって、他人のためでもなんでもなかった。
最初から最後まで、ある種利己的な男が起こす行動が、利己的であるのは道理。
だから、そこには気持ちよさとか、お涙頂戴の感動ではなく(強く主張したいのはそんなことではなく)ただ、男が選んだ結果があるたけで、それに対して嫌な思いをするわけがない、ということなのかなあ、と思いました。
「あいつらがいる限り、タオは救われない」
タオのためであり、スーのためであるんですが、そこに至るまでの過程が、徹頭徹尾わがままな自分が選んだものだから、というあたりが、変に偽善ではなく、よかったのではないかと。

クリント・イーストウッドはこれで映画見納めらしいですが、いやあ、でも本当に年取りましたね。痩せているんですが、それでも歳を取ってたるんだ皮膚が太って見える姿は、なんだか、時代の流れを感じました。
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