『ハーヴェイ』
ちょっと前に、『ラースと、その彼女』という映画がわりと話題になったんですが、あらすじを見て、「これって『ハーヴェイ』と同じなんじゃ」と思ったのが見ようと思ったきっかけでした。
この映画、私は見たことがなかったのですが、川本三郎の映画評論本で、解説されていたのを読んだことがあったのです。
普通にシュールなヒューマンコメディ(おかしな表現)なのかと思いきや、最初から最後まで泣き通しでした。
いや、まあ、私はフィクションで簡単に泣くので、私が泣いた=感動にはならないんですが。
基本は幸せな話なのです。誰も傷つかないし、誰も傷つけられたりしないし。
でも、その幸せが悲しい―私のような現実の尺度でしか生きられない人間から見ると、とても悲しい話でした。
主人公は、エルウッドというもうすぐ中年にさしかかる男性。親の遺産を相続し、不自由なく暮らす独身男。誰にも優しい彼だが、たった一つだけまともではない言動があった。
身長が180センチを越える巨大なウサギ―ハーヴェイ。
エルウッドは、誰彼かまわずハーヴェイを紹介するが、その視線と差し出された指の先には、誰もいないのだった。
ハーヴェイはエルウッドの妄想であり、他の人間には誰も見えません。
当然周囲の人間は、彼をうす気味悪がり、遠ざかります。
共に暮らす姉のヴィータはそんな彼を心配し、自分の娘の縁談にも影響があるのではないかと、彼を精神病院に入院させようとします。
このエルウッド、明確な言葉で説明はされませんが、どうやらアルコール依存症のようです。昼からバーへ出かけ、マティーニを飲む。勿論、ハーヴェイの分も。
そこで、全ての人間に挨拶し、始めての人間には名詞を渡す。
食事に来ないかと誘い、「用事があるから」と社交辞令的に断ると、「いつならいい? 明日? 明後日?」とそのナチュラルな拒絶を理解することができず、心から来てもらいたいと望む。
彼は、とにかく善人です。彼をさげすむ目や、奇異の眼差しにも全く気づかないし、ハーヴェイと仲良く歩き、話し、扉を開けてやり、椅子をひいてやる。
ただそれは、やはり一般のハーヴェイが見えない人たちから見れば、異常でしかないのです。
姉は精神病院へ共に行きますが、手違いからエルウッドは開放されてしまいます。
慌てて追いかける、医師と看護師。
BARで出会い、彼らは色々な話をします。
「僕は、いつもそうなんです。BARに行くと、必ず誰かがいる。色々な人がいて、色々な話を聞かせてくれる。楽しいこと、とても悲惨なこと。僕に今まで聞いたことがない色々な話をしてくれる。それは、とても大切なことなんです。わかりますか? でも、ハーヴェイが話始めると、みんな去っていくんです。それは仕方のないことで、ハーヴェイの話はとても高尚で、みんなはそれがねたましくなってしまう。人は誰でも、羨ましいと思う気持ちがあります」
常に礼儀正しく、やさしく、他人の気持ちを慮って話してくれるエルウッドに、周囲の人間は次第に見方を変えていきます。
「母は、僕に言いました。人生は、とてつもなく抜け目なく生きるか、とてつもなく優しくいきるかの、どちらかしかないって。僕は何年も抜け目なくやってきたから、今度は親切にしようと思って」
幼い頃からエルウッドを知っている人間の台詞から判断すると、どうやら、エルウッドは頭もよく、運動もできて、女性にも男性にももてた、完璧な青年だったらしいです。
それが、ある日を境に「そうではなくなってしまった」と。
精神科医は、母親の死や、父親の名前、幼い頃に遊んだ友人の名前など、色々な関連性を示すんですが、エルウッドはそれらの質問に丁寧に答えるだけで、実際こちらも原因はよくわかりません。
ハーヴェイと出会ったときの話も、街角に立っていたウサギに気づいた、というだけなのです。
最終的に、エルウッドは精神科医で注射を受けることになります。姉がそう望むなら、と。泣かないでと。
ですが、姉は結局まともになり、醜くなっていくくらいなら、とエルウッドにそのままでいて欲しいと望みます。
2メートルのウサギがいても、それがエルウッドにしか見えなくても、それで彼が幸せならば、今のままの優しいエルウッドでいてくれるのならば、それでいいじゃないか、と。
これ、面白いのが、最初はハーヴェイは完璧にエルウッドの妄想で、そして、最後も妄想であるんでしょうが、ひょっとしたら?と思わせる演出が、ちりばめられているのです。
姉は「時々ウサギの姿が見えてしまう」と言うし、精神科医の院長は、見えてしまいます。常にハーヴェイが。
勿論、画面には一切ハーヴェイは映りません。でも院長はエルウッドと同じように、ハーヴェイと話し、共にいて欲しいと口に出して言います。
他にも、二つの穴が開いた帽子や、持ってきたはずなのにない財布など、本当に妖精の仕業では、と思えることが、たびたび出てきます。
最後も、ハーヴェイは結局院長から、エルウッドの元に戻り、
「僕は君といられるのが幸せなんだから」
と、見えないハーヴェイと一緒にエルウッドは帰ります。
最初から最後まで、ハーヴェイはいるのかいないのか、わからないままで。
本当に「いる」のだとしたら、多分、ハーヴェイを必要だと、いるといいなと思える人には見えるのでしょう。癒しを求めていた院長とか、弟を愛する姉とか。では、エルウッドもハーヴェイを何故必要としているのか、ということになるのですが、ここで面白いのがエンドロール。
役者名と、役名が並ぶのですが、
「ハーヴェイ himself」とあるのです。
いくら、英語ができない私でも、「himself」くらいはわかります(本当かよ)。
つまり、「ハーヴェイ=彼自身」となるわけです。
周囲は、彼を必要とし、ハーヴェイに癒されるということはエルウッドに癒されるということである。
彼は、彼自身に癒される。
基本はヒューマンコメディなので、笑える部分(主に言葉のやり取りとして)もありますし、ハートフルですが、凄く穏やかな気持ちになれるんですが、それでも、やはりエルウッドの姿や言葉は見ていて悲しい。
現実世界で生きていて、絶対にハーヴェイは見えない、そんな大多数の人間から見ると、見えないハーヴェイと会話し、他人に馬鹿にされ続けるエルウッドの姿は悲しい。
それを、悲しみと全く理解せずに、自分は幸せだと思っているエルウッドの感情が悲しい。
その悲しみさえ、彼にとって的外れだということは重々承知でも、やはり、見ていて何処か悲しい姿でした。
エルウッドは別にハーヴェイだけを猫かわいがりしているわけではないので、いてもいなくても、彼が世界のあらゆるものに優しい、というのは揺るがないのですが、その彼の優しさが悲しい感じでした。
でもそれは、周囲の人間にハーヴェイが見えないのと同じように、彼にとっては無縁のことなので、それだけが「見ている側」にとっての救いなのかもしれません。
古い映画なので、全編モノクロです。
主演は、ジェームズ・スチュワート。アメリカの良心と言われたスチュワートの朴訥な姿が、感動できます。ただ、二枚目かどうかは正直わからない!(昔の映画はバストアップになることが殆どないので、顔の区別がつかない)
ちょっと前に、『ラースと、その彼女』という映画がわりと話題になったんですが、あらすじを見て、「これって『ハーヴェイ』と同じなんじゃ」と思ったのが見ようと思ったきっかけでした。
この映画、私は見たことがなかったのですが、川本三郎の映画評論本で、解説されていたのを読んだことがあったのです。
普通にシュールなヒューマンコメディ(おかしな表現)なのかと思いきや、最初から最後まで泣き通しでした。
いや、まあ、私はフィクションで簡単に泣くので、私が泣いた=感動にはならないんですが。
基本は幸せな話なのです。誰も傷つかないし、誰も傷つけられたりしないし。
でも、その幸せが悲しい―私のような現実の尺度でしか生きられない人間から見ると、とても悲しい話でした。
主人公は、エルウッドというもうすぐ中年にさしかかる男性。親の遺産を相続し、不自由なく暮らす独身男。誰にも優しい彼だが、たった一つだけまともではない言動があった。
身長が180センチを越える巨大なウサギ―ハーヴェイ。
エルウッドは、誰彼かまわずハーヴェイを紹介するが、その視線と差し出された指の先には、誰もいないのだった。
ハーヴェイはエルウッドの妄想であり、他の人間には誰も見えません。
当然周囲の人間は、彼をうす気味悪がり、遠ざかります。
共に暮らす姉のヴィータはそんな彼を心配し、自分の娘の縁談にも影響があるのではないかと、彼を精神病院に入院させようとします。
このエルウッド、明確な言葉で説明はされませんが、どうやらアルコール依存症のようです。昼からバーへ出かけ、マティーニを飲む。勿論、ハーヴェイの分も。
そこで、全ての人間に挨拶し、始めての人間には名詞を渡す。
食事に来ないかと誘い、「用事があるから」と社交辞令的に断ると、「いつならいい? 明日? 明後日?」とそのナチュラルな拒絶を理解することができず、心から来てもらいたいと望む。
彼は、とにかく善人です。彼をさげすむ目や、奇異の眼差しにも全く気づかないし、ハーヴェイと仲良く歩き、話し、扉を開けてやり、椅子をひいてやる。
ただそれは、やはり一般のハーヴェイが見えない人たちから見れば、異常でしかないのです。
姉は精神病院へ共に行きますが、手違いからエルウッドは開放されてしまいます。
慌てて追いかける、医師と看護師。
BARで出会い、彼らは色々な話をします。
「僕は、いつもそうなんです。BARに行くと、必ず誰かがいる。色々な人がいて、色々な話を聞かせてくれる。楽しいこと、とても悲惨なこと。僕に今まで聞いたことがない色々な話をしてくれる。それは、とても大切なことなんです。わかりますか? でも、ハーヴェイが話始めると、みんな去っていくんです。それは仕方のないことで、ハーヴェイの話はとても高尚で、みんなはそれがねたましくなってしまう。人は誰でも、羨ましいと思う気持ちがあります」
常に礼儀正しく、やさしく、他人の気持ちを慮って話してくれるエルウッドに、周囲の人間は次第に見方を変えていきます。
「母は、僕に言いました。人生は、とてつもなく抜け目なく生きるか、とてつもなく優しくいきるかの、どちらかしかないって。僕は何年も抜け目なくやってきたから、今度は親切にしようと思って」
幼い頃からエルウッドを知っている人間の台詞から判断すると、どうやら、エルウッドは頭もよく、運動もできて、女性にも男性にももてた、完璧な青年だったらしいです。
それが、ある日を境に「そうではなくなってしまった」と。
精神科医は、母親の死や、父親の名前、幼い頃に遊んだ友人の名前など、色々な関連性を示すんですが、エルウッドはそれらの質問に丁寧に答えるだけで、実際こちらも原因はよくわかりません。
ハーヴェイと出会ったときの話も、街角に立っていたウサギに気づいた、というだけなのです。
最終的に、エルウッドは精神科医で注射を受けることになります。姉がそう望むなら、と。泣かないでと。
ですが、姉は結局まともになり、醜くなっていくくらいなら、とエルウッドにそのままでいて欲しいと望みます。
2メートルのウサギがいても、それがエルウッドにしか見えなくても、それで彼が幸せならば、今のままの優しいエルウッドでいてくれるのならば、それでいいじゃないか、と。
これ、面白いのが、最初はハーヴェイは完璧にエルウッドの妄想で、そして、最後も妄想であるんでしょうが、ひょっとしたら?と思わせる演出が、ちりばめられているのです。
姉は「時々ウサギの姿が見えてしまう」と言うし、精神科医の院長は、見えてしまいます。常にハーヴェイが。
勿論、画面には一切ハーヴェイは映りません。でも院長はエルウッドと同じように、ハーヴェイと話し、共にいて欲しいと口に出して言います。
他にも、二つの穴が開いた帽子や、持ってきたはずなのにない財布など、本当に妖精の仕業では、と思えることが、たびたび出てきます。
最後も、ハーヴェイは結局院長から、エルウッドの元に戻り、
「僕は君といられるのが幸せなんだから」
と、見えないハーヴェイと一緒にエルウッドは帰ります。
最初から最後まで、ハーヴェイはいるのかいないのか、わからないままで。
本当に「いる」のだとしたら、多分、ハーヴェイを必要だと、いるといいなと思える人には見えるのでしょう。癒しを求めていた院長とか、弟を愛する姉とか。では、エルウッドもハーヴェイを何故必要としているのか、ということになるのですが、ここで面白いのがエンドロール。
役者名と、役名が並ぶのですが、
「ハーヴェイ himself」とあるのです。
いくら、英語ができない私でも、「himself」くらいはわかります(本当かよ)。
つまり、「ハーヴェイ=彼自身」となるわけです。
周囲は、彼を必要とし、ハーヴェイに癒されるということはエルウッドに癒されるということである。
彼は、彼自身に癒される。
基本はヒューマンコメディなので、笑える部分(主に言葉のやり取りとして)もありますし、ハートフルですが、凄く穏やかな気持ちになれるんですが、それでも、やはりエルウッドの姿や言葉は見ていて悲しい。
現実世界で生きていて、絶対にハーヴェイは見えない、そんな大多数の人間から見ると、見えないハーヴェイと会話し、他人に馬鹿にされ続けるエルウッドの姿は悲しい。
それを、悲しみと全く理解せずに、自分は幸せだと思っているエルウッドの感情が悲しい。
その悲しみさえ、彼にとって的外れだということは重々承知でも、やはり、見ていて何処か悲しい姿でした。
エルウッドは別にハーヴェイだけを猫かわいがりしているわけではないので、いてもいなくても、彼が世界のあらゆるものに優しい、というのは揺るがないのですが、その彼の優しさが悲しい感じでした。
でもそれは、周囲の人間にハーヴェイが見えないのと同じように、彼にとっては無縁のことなので、それだけが「見ている側」にとっての救いなのかもしれません。
古い映画なので、全編モノクロです。
主演は、ジェームズ・スチュワート。アメリカの良心と言われたスチュワートの朴訥な姿が、感動できます。ただ、二枚目かどうかは正直わからない!(昔の映画はバストアップになることが殆どないので、顔の区別がつかない)
PR
『椿山課長の七日間』
映画としては、まとまっていてまあまあでした。
特に、ヤクザの組長が生まれ変わった成宮寛貴が上手で。
物語の主軸が、親子なんですが、小説でほぼ主役だった、椿山の父親の出番が、ほぼごっそり削られていたのは、凄く泣けました。
原作は、椿山よりもその父。元ヤクザの組長は、もっと父性丸出しで、とにかく、保護者としての人間が描かれるのですが、映画はそうでもありません。
映画は、椿山、里子に出された子供、ヤクザの親分の物語が、あまり深く掘り下げられずにさっくり進むのですが、基本出てくる人々がいい人たちなので、原作にありがちな、何故こうもカラっと描かれるのだろうという、ドロドロさ加減(人殺しもある話なので)がないのが、逆に物足りないかもしれません。
原作は、正直あまり救われる話ではありません。結果として、生きている人はそれぞれ得るものがあるのかもしれませんが、死んだ人はやはり死んだ人。嬉しい思いはあるけれど、それでも、生きているうちにその喜びを味わうことができた人々とは違う。
最後、やりきったという思いの比重が、原作よりも映画のほうが満足度が高いと思います。見ようによっては幸せではなく、誰が見ても幸せ、という図式というか。
個人的には椿山課長の云々よりも、祖父の生き様に焦点を当てて欲しかったなあ、と。
そうなると、精神年齢も実年齢もえっらい高い映画になってしまいますが、それだからこそ、少年と少女の純粋さ、それとは違う、年経た人間の純粋さが比べられていいというか。
映画は素直に泣ける映画。
小説は、現実としてしみる物語でした。
『シービスケット』
クリス・クーパーと、ウィリアム・H・メイシーが出ているという二大祭りだったのですが、凄く退屈な映画でした。
二時間以上もだらだらと、同じ感動と同じテーマを延々見せられた感じです。後半は正直まともに画面を見ていませんでした。
テーマとしては、恐慌の時代、希望を失った人々が、駄馬と呼ばれていたシービスケットという競走馬の活躍、怪我、そしてカムバックを見て勇気をもらうというような、わかりやすい感動物語なんですが、そのシービスケットが出てくるまで、三十分かかるってどういうことだよ。普通の映画の四分の一、『グットナイト&グットラック』だったら三分の一終わってるよ。
多分描きたいのはシービスケットではなく、それを取り巻く人々の成り立ちや、生き方なんでしょうけど、それにしたってとっかかりまでが長すぎるでしょう。しかも、バックボーンを描くために、登場人物の幼少から、青年(現在)まで写してしまうので、画面が変わったと思ったら一年後とか、別の登場人物でそれぞれ、ガンガンやります。
もう誰が誰で、何処で何をしていて、結局どうなったのかも見ているこっちは完全に把握できません。
しかもその「過去」が現代で見事に生かされているかというと、そんなことはないし。
前述しましたが、基本は「カムバック物」なので、いわゆる敗残者―人生において息子を失ったり、両親に捨てられたり、ハンデを抱えていたり、という人々がシービスケットとかかわり、その勝利する姿に興奮する、というのがメインです。
それはそれで別にかまわないのですが、それを、二度も三度も同じように映画の中で展開されてもかったるいだけです。
シービスケットそのものが、言い値で売られてろくな成績を出せずに射殺される寸前で、金持ちに引き取られるんですから、その馬のカムバックはそれだけで十分です。
騎手も同じく、恐慌で食うや食わずの暮らしを味わい、自堕落な生活を送っていたが、シーバックに騎乗できるようになった、これで十分。
オーナーも息子を失ったが、新しい伴侶を得て、息子のような騎手を庇護し、見捨てられかけていたシービスケットを養う、というこれだけで十分なのです。
それなのに、いざ馬が怪我しただの、騎手が怪我しただのを、後半でやられたところで、感動の質は同じなわけですから、見ていて面白くもなんともないのです。だって、「再起」がテーマでそれだけしか描かれていないのですから、前半でとっくに味わってるそんな感動。
期待しすぎたかな、という感じはありましたが、個人的には感動も感涙もない映画でした。
だらだらと、逆にそれぞれのバックボーンを描きすぎて、逆に感動が押し付けがましかったのかもしれません。
ゆえにその中で、バックボーンが一切語られないクリス・クーパーはいい役だったといって良いのか、別にいてもいなくても良かったんじゃと言うべきか。
実際、オーナーが堕ちかけていた騎手を拾い、そして同じような境遇の馬を拾う、というだけでも流れとしては十分な気がするけどなあ。
競馬シーンもどうなんだろう。別にかっこ悪いとは思いませんでしたが、特筆して美しいとも思いませんでした。
レースしながら、だらだら騎手同士や馬同士で話し合って許されるのは、二次元だけだろう。
その瞬間、完全に時が止まる二次元だからこそ、「会話」は許されるんだぜ。
決めるところで、たった一言だけ見事に決める。それが、レースという緊迫した場面で似合う演出なんじゃないかと思いました。
映画としては、まとまっていてまあまあでした。
特に、ヤクザの組長が生まれ変わった成宮寛貴が上手で。
物語の主軸が、親子なんですが、小説でほぼ主役だった、椿山の父親の出番が、ほぼごっそり削られていたのは、凄く泣けました。
原作は、椿山よりもその父。元ヤクザの組長は、もっと父性丸出しで、とにかく、保護者としての人間が描かれるのですが、映画はそうでもありません。
映画は、椿山、里子に出された子供、ヤクザの親分の物語が、あまり深く掘り下げられずにさっくり進むのですが、基本出てくる人々がいい人たちなので、原作にありがちな、何故こうもカラっと描かれるのだろうという、ドロドロさ加減(人殺しもある話なので)がないのが、逆に物足りないかもしれません。
原作は、正直あまり救われる話ではありません。結果として、生きている人はそれぞれ得るものがあるのかもしれませんが、死んだ人はやはり死んだ人。嬉しい思いはあるけれど、それでも、生きているうちにその喜びを味わうことができた人々とは違う。
最後、やりきったという思いの比重が、原作よりも映画のほうが満足度が高いと思います。見ようによっては幸せではなく、誰が見ても幸せ、という図式というか。
個人的には椿山課長の云々よりも、祖父の生き様に焦点を当てて欲しかったなあ、と。
そうなると、精神年齢も実年齢もえっらい高い映画になってしまいますが、それだからこそ、少年と少女の純粋さ、それとは違う、年経た人間の純粋さが比べられていいというか。
映画は素直に泣ける映画。
小説は、現実としてしみる物語でした。
『シービスケット』
クリス・クーパーと、ウィリアム・H・メイシーが出ているという二大祭りだったのですが、凄く退屈な映画でした。
二時間以上もだらだらと、同じ感動と同じテーマを延々見せられた感じです。後半は正直まともに画面を見ていませんでした。
テーマとしては、恐慌の時代、希望を失った人々が、駄馬と呼ばれていたシービスケットという競走馬の活躍、怪我、そしてカムバックを見て勇気をもらうというような、わかりやすい感動物語なんですが、そのシービスケットが出てくるまで、三十分かかるってどういうことだよ。普通の映画の四分の一、『グットナイト&グットラック』だったら三分の一終わってるよ。
多分描きたいのはシービスケットではなく、それを取り巻く人々の成り立ちや、生き方なんでしょうけど、それにしたってとっかかりまでが長すぎるでしょう。しかも、バックボーンを描くために、登場人物の幼少から、青年(現在)まで写してしまうので、画面が変わったと思ったら一年後とか、別の登場人物でそれぞれ、ガンガンやります。
もう誰が誰で、何処で何をしていて、結局どうなったのかも見ているこっちは完全に把握できません。
しかもその「過去」が現代で見事に生かされているかというと、そんなことはないし。
前述しましたが、基本は「カムバック物」なので、いわゆる敗残者―人生において息子を失ったり、両親に捨てられたり、ハンデを抱えていたり、という人々がシービスケットとかかわり、その勝利する姿に興奮する、というのがメインです。
それはそれで別にかまわないのですが、それを、二度も三度も同じように映画の中で展開されてもかったるいだけです。
シービスケットそのものが、言い値で売られてろくな成績を出せずに射殺される寸前で、金持ちに引き取られるんですから、その馬のカムバックはそれだけで十分です。
騎手も同じく、恐慌で食うや食わずの暮らしを味わい、自堕落な生活を送っていたが、シーバックに騎乗できるようになった、これで十分。
オーナーも息子を失ったが、新しい伴侶を得て、息子のような騎手を庇護し、見捨てられかけていたシービスケットを養う、というこれだけで十分なのです。
それなのに、いざ馬が怪我しただの、騎手が怪我しただのを、後半でやられたところで、感動の質は同じなわけですから、見ていて面白くもなんともないのです。だって、「再起」がテーマでそれだけしか描かれていないのですから、前半でとっくに味わってるそんな感動。
期待しすぎたかな、という感じはありましたが、個人的には感動も感涙もない映画でした。
だらだらと、逆にそれぞれのバックボーンを描きすぎて、逆に感動が押し付けがましかったのかもしれません。
ゆえにその中で、バックボーンが一切語られないクリス・クーパーはいい役だったといって良いのか、別にいてもいなくても良かったんじゃと言うべきか。
実際、オーナーが堕ちかけていた騎手を拾い、そして同じような境遇の馬を拾う、というだけでも流れとしては十分な気がするけどなあ。
競馬シーンもどうなんだろう。別にかっこ悪いとは思いませんでしたが、特筆して美しいとも思いませんでした。
レースしながら、だらだら騎手同士や馬同士で話し合って許されるのは、二次元だけだろう。
その瞬間、完全に時が止まる二次元だからこそ、「会話」は許されるんだぜ。
決めるところで、たった一言だけ見事に決める。それが、レースという緊迫した場面で似合う演出なんじゃないかと思いました。
『チェンジリング』
現在放映中ですし、非常にネタバレ色が強いので、改めて警告します。
ネタバレしてもしなくても、この作品のテーマは揺るがないと思いますが、自己責任にて閲覧ください。特に反転もしません。
まさに、凶悪でした。巨悪ではなく、最も卑劣でまがまがしい犯罪。
CFだと、行方不明になった子供。帰ってきた時は別人だった。その謎とは、みたいな表現の仕方ですが。全然違います。
これは、ミステリーでもなければ、サスペンスでもありません。
行方不明になった子供と、戻ってきた息子は、何の関係もありません。
これは、謎ではなく、警察側のただのミス隠しなのです。
子供が行方不明になった。
それらしき子供が見つかった。
引き合わせたら、違う人物だった。
その失態を隠すために、警察は、母親を問い詰め、さいなめ、侮辱し、人格を否定し、精神病院に送り込む。
恐ろしいことに、そういう話なのです。
反吐が出るほど、どうにもならない話なのです。
実際、行方不明になった少年が、巻き込まれてしまった事件そのものは、ちゃんと『事件』として片付くのですが、だからといって、息子は勿論帰ってこないし、決着だって、
「もう、この事件はこれで終わりにしたいのだ。生きているとなれば、また探さなければならない。だから、死んでいるのならばそれでいいだろう。それで、この事件は終わりだ」
と、警察のトップがぬけぬけと言ってしまうんですよ。
これはもう、胸糞が悪いどころの話ではありません。
息子が行方不明になった。当然、母親は狼狽します。正気を保てというのも無理な話でしょう。ですが、明らかに違うと母親は連れてこられた子供を見て思い、学校の教師も宣言し、歯医者までもが歯の特徴という確固たる証拠を見つけているのに、それなのに、警察は母親の言うことを、嘘だという。
「貴方はそうやって警察を馬鹿にして、楽しいのですか。捜査の邪魔をしたいのですか」
実際、母親一人で息子を探し出すことはできません。
どうあがいても、警察に頼らざるをえないのです。
その警察が信用ならない。信用ならないのはわかっている。だが、頭を下げるしかない。
「あの子は息子ではありません。探してください」
それに対する答えが、「精一杯やっていますが見つけられません」なら、まだましです。
だがもう、息子は見つかった。捜査はしない。
そう断じている警察に、一番不信感を抱くのは母親なのに、それでも涙を流して懇願するしかない。「お願いです」と。
母親が違う、と訴える時の警察の受け答えも絶妙です。
「貴方は混乱している」
「そんな言い方は子供の自尊心を傷つける」
「貴方は子供がいない間自由な生活を営んでいた。だから、帰ってきた途端邪魔になったのだろう」
「貴方は、母親としての責務を放棄し、帰ってきた息子に悪影響を与えている。子供と引き離す必要がある」
これですよ。
これ、本気で言ってるんですよ。
仮にも法の番人が、自分も家庭を持って子供もいるような年齢の男が、そう言ってるんですよ。
母親が違えば、医者まで持ち出して、柱の傷を指して身長が違うと訴える母親に「背骨が縮んだ。医学的にはよくあること」って言うんですよ。
信じられません。もう、あまりに腐っていて言葉も出ません。
精神病院に無理やり押し込められた後、出される書類は「息子が別人ではないと認める」というものなんですよ。それにサインをすればすぐに出られると。サインをしないのであれば、貴方はおかしいと断ぜられる。
手足もぎ取られて、意思まで陵辱される勢いです。
結果、「事件」に関わった人物が罪を告白し、結果としてその犯人は捕まり、刑に処されます。
だが、この事件で最も醜悪なのは、やはり警察でしょう。
この映画は、ちゃんと警察だけが悪いのではないという描き方をしているので、実際に犯罪を犯した犯人も、しっかりと報いを受けます。それこそ、法の裁きを。
犯人ですら法の裁きを受けるのに、肝心の警察が法の裁きを受けるのが、あまりに遅すぎた。
「問題は、その間に、助けられたかもしれない少年が死んだということです」
もう、恐ろしい以外の何物でもない物語でした。
あまりに警察の、もはや洗脳と思える言葉運びに、自分が当事者だったら、本気で「息子かもしれない。あれだけ言うのなら息子だろう。そうだこの子は息子なのだ」と納得してしまうかもしれません。
現実的に、他人が提示してくれた証拠がなかったら、別の意味で正気を保っていられるか自信がありません。
この映画、R-12指定なんですが、実際流血シーンはありません。ただ、見えない場面で行われているであろう行為を示す音が、異常に怖いです。
私の隣は、私よりも年上であろう女性だったんですが(多分、ご家庭があるんじゃないかと)もう、そのシーンでは顔を覆って見ていられない様子でした。
最後は、事件には決着がつき、母親はあるものを手に入れます。
ですが、決してハッピーエンドではありません。
それでも彼女は、胸を張って進める道を自分で選ぶことができた。
陰惨な映画でした。
ちょっとお勧めするのはどうかな、と思いますが、音楽や衣装、メイク含めて非常に良い映画でした。
特に、OPやEDで使用されるピアノ曲が静かな調べで凄く良かったです。
アンジェリーナ・ジョリーは母親役を熱演。正直、メイクがその時代のメイクなので、言われなきゃわからなかった。
彼女に味方する、ジョン・マルコビッチも好演。弁護士役の人も恰幅が良くて、声に特徴があってかっこよかった。
刑事役の、マイケル・ケリーもいかにもたたき上げの刑事で、熱血ではなく、当たり前のことを当たり前に調査する姿勢が、凄く好印象でした。
敵役である、ジェフリー・ドノヴァンは顔だけ見ればすんごくかっこいいんだけど、もう、なんか、出てくるたびに殴りたい衝動をこらえるのを必死でした。
最後、事件に巻き込まれた「息子」が戻ってきます。
五年も何故黙っていたのかと問われ、こう答えます。
「あいつが、僕や家族を殺しに来るのが怖かった。僕が逃げてしまったことで、黙っていることで、他の誰かが殺されてしまったのかもしれないと思うと、怖くて言い出せなかった」
こう、子供に言わせてしまう犯罪が、実際にあったのかと思うともう、気分が底辺まで滅入る………。
クリント・イーストウッドは本当に、役者としても監督としても、完全完璧に成功しましたね。もう80歳だっていうのに。凄い話です。
現在放映中ですし、非常にネタバレ色が強いので、改めて警告します。
ネタバレしてもしなくても、この作品のテーマは揺るがないと思いますが、自己責任にて閲覧ください。特に反転もしません。
まさに、凶悪でした。巨悪ではなく、最も卑劣でまがまがしい犯罪。
CFだと、行方不明になった子供。帰ってきた時は別人だった。その謎とは、みたいな表現の仕方ですが。全然違います。
これは、ミステリーでもなければ、サスペンスでもありません。
行方不明になった子供と、戻ってきた息子は、何の関係もありません。
これは、謎ではなく、警察側のただのミス隠しなのです。
子供が行方不明になった。
それらしき子供が見つかった。
引き合わせたら、違う人物だった。
その失態を隠すために、警察は、母親を問い詰め、さいなめ、侮辱し、人格を否定し、精神病院に送り込む。
恐ろしいことに、そういう話なのです。
反吐が出るほど、どうにもならない話なのです。
実際、行方不明になった少年が、巻き込まれてしまった事件そのものは、ちゃんと『事件』として片付くのですが、だからといって、息子は勿論帰ってこないし、決着だって、
「もう、この事件はこれで終わりにしたいのだ。生きているとなれば、また探さなければならない。だから、死んでいるのならばそれでいいだろう。それで、この事件は終わりだ」
と、警察のトップがぬけぬけと言ってしまうんですよ。
これはもう、胸糞が悪いどころの話ではありません。
息子が行方不明になった。当然、母親は狼狽します。正気を保てというのも無理な話でしょう。ですが、明らかに違うと母親は連れてこられた子供を見て思い、学校の教師も宣言し、歯医者までもが歯の特徴という確固たる証拠を見つけているのに、それなのに、警察は母親の言うことを、嘘だという。
「貴方はそうやって警察を馬鹿にして、楽しいのですか。捜査の邪魔をしたいのですか」
実際、母親一人で息子を探し出すことはできません。
どうあがいても、警察に頼らざるをえないのです。
その警察が信用ならない。信用ならないのはわかっている。だが、頭を下げるしかない。
「あの子は息子ではありません。探してください」
それに対する答えが、「精一杯やっていますが見つけられません」なら、まだましです。
だがもう、息子は見つかった。捜査はしない。
そう断じている警察に、一番不信感を抱くのは母親なのに、それでも涙を流して懇願するしかない。「お願いです」と。
母親が違う、と訴える時の警察の受け答えも絶妙です。
「貴方は混乱している」
「そんな言い方は子供の自尊心を傷つける」
「貴方は子供がいない間自由な生活を営んでいた。だから、帰ってきた途端邪魔になったのだろう」
「貴方は、母親としての責務を放棄し、帰ってきた息子に悪影響を与えている。子供と引き離す必要がある」
これですよ。
これ、本気で言ってるんですよ。
仮にも法の番人が、自分も家庭を持って子供もいるような年齢の男が、そう言ってるんですよ。
母親が違えば、医者まで持ち出して、柱の傷を指して身長が違うと訴える母親に「背骨が縮んだ。医学的にはよくあること」って言うんですよ。
信じられません。もう、あまりに腐っていて言葉も出ません。
精神病院に無理やり押し込められた後、出される書類は「息子が別人ではないと認める」というものなんですよ。それにサインをすればすぐに出られると。サインをしないのであれば、貴方はおかしいと断ぜられる。
手足もぎ取られて、意思まで陵辱される勢いです。
結果、「事件」に関わった人物が罪を告白し、結果としてその犯人は捕まり、刑に処されます。
だが、この事件で最も醜悪なのは、やはり警察でしょう。
この映画は、ちゃんと警察だけが悪いのではないという描き方をしているので、実際に犯罪を犯した犯人も、しっかりと報いを受けます。それこそ、法の裁きを。
犯人ですら法の裁きを受けるのに、肝心の警察が法の裁きを受けるのが、あまりに遅すぎた。
「問題は、その間に、助けられたかもしれない少年が死んだということです」
もう、恐ろしい以外の何物でもない物語でした。
あまりに警察の、もはや洗脳と思える言葉運びに、自分が当事者だったら、本気で「息子かもしれない。あれだけ言うのなら息子だろう。そうだこの子は息子なのだ」と納得してしまうかもしれません。
現実的に、他人が提示してくれた証拠がなかったら、別の意味で正気を保っていられるか自信がありません。
この映画、R-12指定なんですが、実際流血シーンはありません。ただ、見えない場面で行われているであろう行為を示す音が、異常に怖いです。
私の隣は、私よりも年上であろう女性だったんですが(多分、ご家庭があるんじゃないかと)もう、そのシーンでは顔を覆って見ていられない様子でした。
最後は、事件には決着がつき、母親はあるものを手に入れます。
ですが、決してハッピーエンドではありません。
それでも彼女は、胸を張って進める道を自分で選ぶことができた。
陰惨な映画でした。
ちょっとお勧めするのはどうかな、と思いますが、音楽や衣装、メイク含めて非常に良い映画でした。
特に、OPやEDで使用されるピアノ曲が静かな調べで凄く良かったです。
アンジェリーナ・ジョリーは母親役を熱演。正直、メイクがその時代のメイクなので、言われなきゃわからなかった。
彼女に味方する、ジョン・マルコビッチも好演。弁護士役の人も恰幅が良くて、声に特徴があってかっこよかった。
刑事役の、マイケル・ケリーもいかにもたたき上げの刑事で、熱血ではなく、当たり前のことを当たり前に調査する姿勢が、凄く好印象でした。
敵役である、ジェフリー・ドノヴァンは顔だけ見ればすんごくかっこいいんだけど、もう、なんか、出てくるたびに殴りたい衝動をこらえるのを必死でした。
最後、事件に巻き込まれた「息子」が戻ってきます。
五年も何故黙っていたのかと問われ、こう答えます。
「あいつが、僕や家族を殺しに来るのが怖かった。僕が逃げてしまったことで、黙っていることで、他の誰かが殺されてしまったのかもしれないと思うと、怖くて言い出せなかった」
こう、子供に言わせてしまう犯罪が、実際にあったのかと思うともう、気分が底辺まで滅入る………。
クリント・イーストウッドは本当に、役者としても監督としても、完全完璧に成功しましたね。もう80歳だっていうのに。凄い話です。
『グットナイト&グットラック』
「もし、テレビが娯楽と、逃避のためだけの道具なら―元々何の価値もないということですから」
特定の政治思想をを持つことが、犯罪であった頃。
共産主義者の弾圧や、それに属する人権侵害を扱った作品です。
デヴィット・ストラザーン祭りだったのですが、そんなお気楽な話ではなかった。
個人的に、政治はよくわからない(ことを主張していいわけもありませんが)し、積極的には絶対に関わらない、それが集団になればなおさら、という主義ですし、「その時代」であったことは、あまり見ていてピンとこない、というのが正直なところです。
難しすぎて、政治用語についていくのが精一杯というか。
その時代に実際に録画された映像と、音で組み合わせて進んでいくので、底の浅い話だと、全編モノクロなんですが、それが余計に、誰が誰だかわからん! という記憶力との戦いになってしまいます。
特に、かつての時代の映画であって、基本的に髪型や衣装が全員スーツにオールバックなんですよ。そうなるともう誰が誰だか。
主役である、エドワード・マーロくらいは勿論わかるんですが、それ以外の部下になるともう、正直誰が誰だか見終わった今でもわかりません。
片腕的存在の男性が、えらく恰幅が良くて、本当にタフガイって感じの人だなあ、誰だ、と思っていたら、最後の最後でジョージ・クルーニーだとわかった時にはたまげました。
ええー!? あんな車のパーキンでおしゃれしてるジョージ・クルーニーがこれー!?
この人、結構顔だけみたいな印象が強かったのですが(オーシャンズの悪夢未だ)実は結構演技派なのだなあ、としみじみ思いました。というか、ハンサムではない男前として、フェロモン出すぎだよな。
主役のデヴィット・ストラザーンは、実在の人物である、エドワード・マローに主立ちは似ていますが、なんていうか、仕草がエロい。
渋いのは勿論なんですが、お前その、サスペンダー姿は私に対する挑戦か………!(政治的映画であろうが、私は基本こういう見方をしたい派です)
音楽の使い方も渋いです。基本的にBGMはなく、仲間たちが集うBARで黒人女性が歌うジャズが、要所要所で挟まれるという演出がおしゃれ。そりゃ、ウィスキー、ダブルで飲んでタバコふかせば、とどめはジャズだよな!
しかし、プライベートならともかく、テレビ放送の間、延々ホストがタバコを平気でふかしているっていうのも、時代ですね。今では考えられん。
確かにこの時代の「男」をあらわすものとして、特に、ブン屋や、報道畑の人間は、ヘビースモーカーでなければならいっていうのは、よくわかりますけど、それにしたって凄い時代だよ。
物語としては、エドワード・マローをたたえる集会で、スピーチをするところから始まり、共産主義者への攻撃、それを批判する流れがあり、最終的に、スポンサーや会長の意向によって、エドワードの冠番組は事実上の終焉を迎える、というところで、また集会へ戻ります。
そこで、エドワードが言うのが、冒頭の台詞。
何だか、耳が痛いですね。(もうテレビはお笑い番組くらいしか見てない)
その時代、「それはおかしい」と言えた、仕事人たちの物語です。
政治的思想は、見ている側には関係のないことなので、別にそういった意味で敷居が高いとは思いません。
個人的には、同じように賛同しただけなのに、エドワードのように評価を得られず、批判されて、ひっそり自殺した同僚のアナウンサーは身につまされました。
確かにそれは正しいかもしれない。誰もがそう思っている。けれど、人に批判されるのは辛い。そして、それを誰も助けてくれないのはもっと辛い。
そんな、鉄壁のジャーナリズムにおける、人間の弱さが、悪いことではなく、ただ事実として語られる様が、なんとも胸苦しかったです。
結果として自殺を選んでしまった、というだけで、大多数の人は、こちらのアナウンサーのように、「嫌われるのは辛い」人間なわけですから。
「グットナイト、グッドラック」は、エドワードの番組の締めを飾る言葉です。
デヴィット・ストラザーンがタバコを片手に持ちながら、少しうつむき加減で言うさまは、見事の一言でした。
そして、結構短めなのがいいです。
結論が出る映画ではないし、これといった山場がある映画でもない。それぞれが、それぞれの立場でものを言う映画なので、変にだれなくて良かったと思います。
ジョージ・クルーニー監督作品ですが、こういう政治的なものを監督するのって、ある意味ステータスであり、諸刃の剣ですが、このへんのスターダムは、やはりアメリカならでは、という感じがしますね。
「もし、テレビが娯楽と、逃避のためだけの道具なら―元々何の価値もないということですから」
特定の政治思想をを持つことが、犯罪であった頃。
共産主義者の弾圧や、それに属する人権侵害を扱った作品です。
デヴィット・ストラザーン祭りだったのですが、そんなお気楽な話ではなかった。
個人的に、政治はよくわからない(ことを主張していいわけもありませんが)し、積極的には絶対に関わらない、それが集団になればなおさら、という主義ですし、「その時代」であったことは、あまり見ていてピンとこない、というのが正直なところです。
難しすぎて、政治用語についていくのが精一杯というか。
その時代に実際に録画された映像と、音で組み合わせて進んでいくので、底の浅い話だと、全編モノクロなんですが、それが余計に、誰が誰だかわからん! という記憶力との戦いになってしまいます。
特に、かつての時代の映画であって、基本的に髪型や衣装が全員スーツにオールバックなんですよ。そうなるともう誰が誰だか。
主役である、エドワード・マーロくらいは勿論わかるんですが、それ以外の部下になるともう、正直誰が誰だか見終わった今でもわかりません。
片腕的存在の男性が、えらく恰幅が良くて、本当にタフガイって感じの人だなあ、誰だ、と思っていたら、最後の最後でジョージ・クルーニーだとわかった時にはたまげました。
ええー!? あんな車のパーキンでおしゃれしてるジョージ・クルーニーがこれー!?
この人、結構顔だけみたいな印象が強かったのですが(オーシャンズの悪夢未だ)実は結構演技派なのだなあ、としみじみ思いました。というか、ハンサムではない男前として、フェロモン出すぎだよな。
主役のデヴィット・ストラザーンは、実在の人物である、エドワード・マローに主立ちは似ていますが、なんていうか、仕草がエロい。
渋いのは勿論なんですが、お前その、サスペンダー姿は私に対する挑戦か………!(政治的映画であろうが、私は基本こういう見方をしたい派です)
音楽の使い方も渋いです。基本的にBGMはなく、仲間たちが集うBARで黒人女性が歌うジャズが、要所要所で挟まれるという演出がおしゃれ。そりゃ、ウィスキー、ダブルで飲んでタバコふかせば、とどめはジャズだよな!
しかし、プライベートならともかく、テレビ放送の間、延々ホストがタバコを平気でふかしているっていうのも、時代ですね。今では考えられん。
確かにこの時代の「男」をあらわすものとして、特に、ブン屋や、報道畑の人間は、ヘビースモーカーでなければならいっていうのは、よくわかりますけど、それにしたって凄い時代だよ。
物語としては、エドワード・マローをたたえる集会で、スピーチをするところから始まり、共産主義者への攻撃、それを批判する流れがあり、最終的に、スポンサーや会長の意向によって、エドワードの冠番組は事実上の終焉を迎える、というところで、また集会へ戻ります。
そこで、エドワードが言うのが、冒頭の台詞。
何だか、耳が痛いですね。(もうテレビはお笑い番組くらいしか見てない)
その時代、「それはおかしい」と言えた、仕事人たちの物語です。
政治的思想は、見ている側には関係のないことなので、別にそういった意味で敷居が高いとは思いません。
個人的には、同じように賛同しただけなのに、エドワードのように評価を得られず、批判されて、ひっそり自殺した同僚のアナウンサーは身につまされました。
確かにそれは正しいかもしれない。誰もがそう思っている。けれど、人に批判されるのは辛い。そして、それを誰も助けてくれないのはもっと辛い。
そんな、鉄壁のジャーナリズムにおける、人間の弱さが、悪いことではなく、ただ事実として語られる様が、なんとも胸苦しかったです。
結果として自殺を選んでしまった、というだけで、大多数の人は、こちらのアナウンサーのように、「嫌われるのは辛い」人間なわけですから。
「グットナイト、グッドラック」は、エドワードの番組の締めを飾る言葉です。
デヴィット・ストラザーンがタバコを片手に持ちながら、少しうつむき加減で言うさまは、見事の一言でした。
そして、結構短めなのがいいです。
結論が出る映画ではないし、これといった山場がある映画でもない。それぞれが、それぞれの立場でものを言う映画なので、変にだれなくて良かったと思います。
ジョージ・クルーニー監督作品ですが、こういう政治的なものを監督するのって、ある意味ステータスであり、諸刃の剣ですが、このへんのスターダムは、やはりアメリカならでは、という感じがしますね。
『ムーラン・ルージュ』
何で予約リストに入れたのかよくわからないのですが(そんなんばっかりだな)多分、ミュージカルだったと思います。
物語の入り方、タイトルコールが劇場の幕が上がると、現れるっていう演出がおしゃれ。
話の内容としては、普通の悲恋で、売れない作家と「ムーラン・ルージュ」というキャバレー一の踊り子との恋愛、という実にわかりやすい感じでした。
私は気になりませんでしたが、有名な楽曲が次から次へと流れて、それが嫌いだという人もいるかもしれません。
私は嫌いではありませんが、知っている曲が流れると笑えるというのはあります。
とにかく、舞台セットや衣装が豪華です。
始まった時は、また何処かの誰かの妄想に付き合うんじゃないだろうな(ボヘミアン時代を描いているため)と、びびったのですが、始まってみればごく普通の悲恋ミュージカルとして楽しめました。
主役の二人も、ユアン・マクレガーは美青年だし(この人、髪型でずいぶん印象が違うなあ)、ニコール・キッドマンは美女として顔はばっちりだし。ただし、体がなあ………どれだけセクシーな衣装を着ていても、痩せすぎだよ………(大体私は美姫のここでひっかかる)。
そして、キャバレーの踊り子たちの迫力のあるダンスと衣装。
いやあ、この辺は見ごたえありですね! 個人的には一番楽しめました。舞台のシーンで、踊り子たちが踊ったり歌ったりするのは、ある意味当たり前なので、ミュージカルが苦手だったとしても楽しめると思います。フレンチカンカンみたいな衣装で、女が大股開いている姿はかっこいいです(私は男女問わず、蟹股とか、股を開くという肉体の動きが好きなので。なんか、カッコ悪い図がかっこいいというか)。
そして、リチャード・ロクスバーグが超萌えた………。
ニコール・キッドマン演じる、サティーンを自分のものにしようとする、わりと変態的な公爵なんですが、いやあ、ナイーブな狂気っていうんですか。金髪で髭のいかにも公爵じみたルックスが崩れる様がたまりませんでした。
そして、ここで衣装の見事さがでるんですが、ほら、貴族の人たちって部屋着にジャージとか着ないじゃないですか(そりゃそうだろう)。
ナイトローブというか、ガウンみたいなものを室内で身に着けているのですが、それが凄く色っぽくて素敵でした。
日本人がローブなんて着ていると、笑いの対象でしかありませんが、いやあ、それを普段着こなしている外見の人間が着ていると、凄く色っぽくて見ごたえがありました。紫色の豪華なガウンで、真っ暗な室内に立つ、変態公爵ですよ。超萌える。
ミュージカルシーンもそれほど多くないので、普通に悲恋モノとして見られると思います。やっぱり、女性向け、ですね。
何で予約リストに入れたのかよくわからないのですが(そんなんばっかりだな)多分、ミュージカルだったと思います。
物語の入り方、タイトルコールが劇場の幕が上がると、現れるっていう演出がおしゃれ。
話の内容としては、普通の悲恋で、売れない作家と「ムーラン・ルージュ」というキャバレー一の踊り子との恋愛、という実にわかりやすい感じでした。
私は気になりませんでしたが、有名な楽曲が次から次へと流れて、それが嫌いだという人もいるかもしれません。
私は嫌いではありませんが、知っている曲が流れると笑えるというのはあります。
とにかく、舞台セットや衣装が豪華です。
始まった時は、また何処かの誰かの妄想に付き合うんじゃないだろうな(ボヘミアン時代を描いているため)と、びびったのですが、始まってみればごく普通の悲恋ミュージカルとして楽しめました。
主役の二人も、ユアン・マクレガーは美青年だし(この人、髪型でずいぶん印象が違うなあ)、ニコール・キッドマンは美女として顔はばっちりだし。ただし、体がなあ………どれだけセクシーな衣装を着ていても、痩せすぎだよ………(大体私は美姫のここでひっかかる)。
そして、キャバレーの踊り子たちの迫力のあるダンスと衣装。
いやあ、この辺は見ごたえありですね! 個人的には一番楽しめました。舞台のシーンで、踊り子たちが踊ったり歌ったりするのは、ある意味当たり前なので、ミュージカルが苦手だったとしても楽しめると思います。フレンチカンカンみたいな衣装で、女が大股開いている姿はかっこいいです(私は男女問わず、蟹股とか、股を開くという肉体の動きが好きなので。なんか、カッコ悪い図がかっこいいというか)。
そして、リチャード・ロクスバーグが超萌えた………。
ニコール・キッドマン演じる、サティーンを自分のものにしようとする、わりと変態的な公爵なんですが、いやあ、ナイーブな狂気っていうんですか。金髪で髭のいかにも公爵じみたルックスが崩れる様がたまりませんでした。
そして、ここで衣装の見事さがでるんですが、ほら、貴族の人たちって部屋着にジャージとか着ないじゃないですか(そりゃそうだろう)。
ナイトローブというか、ガウンみたいなものを室内で身に着けているのですが、それが凄く色っぽくて素敵でした。
日本人がローブなんて着ていると、笑いの対象でしかありませんが、いやあ、それを普段着こなしている外見の人間が着ていると、凄く色っぽくて見ごたえがありました。紫色の豪華なガウンで、真っ暗な室内に立つ、変態公爵ですよ。超萌える。
ミュージカルシーンもそれほど多くないので、普通に悲恋モノとして見られると思います。やっぱり、女性向け、ですね。