『マイボディーガード』
「神は、俺たちを許すと思うか?」
「無理だ」
たった二行の台詞で掴みはオッケー。
ここで「いや」とか「駄目だ」という返しではなく「無理だ」というのが凄く感情に訴えるものがありました。して欲しいけどそれは適わないといいう全否定、に通じるものがあるというか。
心に傷をおい、酒を手放せなくなった男が、中南米で少女のボディーガードをするという話です。
ボディーガードであるクリーシーを演じるのは、デンゼル・ワシントン。『アメリカン・ギャングスター』よりも「いい人」の役のはずなのに、何故かとてもアウトローに見えるのが不思議です。
聖書を読み、自らの罪を考えるクリーシーは、別に悪党ではないのですが、その彼と交流を深めていく、ピタという少女の演技が抜群。
「今笑った」「五秒前に笑った」「一秒前に」
「これは笑ったんじゃない。にやけたんだ」
純真無垢で可憐な少女、というのではなく、非常に賢しげな少女で、大人びた印象を持つ彼女が、クリーシーといるとき、自然に子どもの顔になっていくのが上手い。
また、クリーシーも純粋培養された聖女のような子どもに肩入れするのではなく、誘拐かと思われた車のナンバーをとっさにメモするような、世間をわかっている「子ども」に好意を寄せる、というのがなんだか嬉しいじゃありませんか。
ピタはクリーシーにユダの首飾りをプレゼントします。
その由来は「希望を失った人びとにとっての聖者」なんだそうで、ユダにそういう解釈をしていることが、何故か嬉しかったりします。
それをつけたクリーシーの目の前で、ピタは誘拐され、そして殺されたとの知らせが入ります。七割の帰ってこない被害者と同じく。
しかし、本当にとんでもないな誘拐なんて………。これが日常茶飯事で、警察まで公然と実行しているっていうんだから、もう個人的に自衛するしかないよな。というか、何でこういう町に金を持って成功した家族を住まわせたいんだろうか。ビジネスならビジネスで、当人達は別の国に住んでいてもいいんじゃなかろうか………。
そこから、クリーシーの復讐が始まります。
その拷問シーンがとんでもなくエグいので、苦手な人はどうにもならないんじゃないかと。はっきりと描写するので余慶に辛いです。
「あんたには犠牲者の一人だろうさ。だが、彼にとっては新しい一つの命だった」
彼は淡々と真犯人を追い詰めます。激昂もせずに。
そして、犯人は芋ずる式に、次々と明らかになります。誘拐事件も、殺害も、全てがそれぞれの勝手な都合で。
そして、最後クリーシーが得たものは。
しかし、防弾チョッキくらいつけろ………!
クリーシーがバンバン撃たれるたびにそう思います。
いやー重かったー。これ、原作はもっと重いと聞いて倒れそうになりました。凄く面白かったんだけど、映画ですら根底に漂うものは地獄とか絶望でしかないのに、もっと重いってそれどれだけ………。
終始明るい雰囲気は何処にもありません。クリーシーがピタの日常と触れ合うシーンだって、所詮クリーシーは自分がそちら側の人間ではないということを自覚しているし、見ている側もこの平穏は続かないということを「知っていて」見ているので、もう胸苦しいったらありません。
救いとか、救われないとかそんなことじゃなく、結果として救われないことがわかっている男が、それでも、自分が死ぬまでの間に大切に思ったものは確かにあって、それを奪われたとき、クリーシーがとる行動は理に適っている。
だから彼は、終始冷静だし、うろたえない。
しかしもう、職業誘拐みたいな人間は一体なんなのだろう。普段あまりフィクションに実際にはさあ、みたいな感想を持たない私ですらそう思いました。
他人の娘を誘拐し、自分は豪勢な暮らしをして、家族は大切で、誘拐を防がなくちゃならない警察が、嬉々として誘拐に加担しててって………。もう駄目だろこれ。
役者陣は最高でした。
デンゼル・ワシントンが能面のような顔で拷問を行う様とか(この人は何をやっても、どんな演技をしても一歩ひいているような感じで、凄く職業役者という感じがする)も素晴らしいですが、子役のダコタ・ファニングはなんていうかもう、天才。
クリーシーを影ながら助ける、かつての同僚であり、神の救済を否定した男には、なんとクリストファー・ウォーケン。
ええー!? 『ヘアスプレー』の父ちゃんじゃん! 出は少ないですが凄く印象に残る人です。
そして、連邦捜査官にはこれまたなんと、ジャンカルロ・ジャンニーニ(『ハンニバル』のパッツィ刑事役で有名)。濃すぎる………濃すぎるだろう、このキャスティング!
本当に、派手な演出を楽しむのではなく、淡々と流れる物語が非常に深い映画でした。とても面白かったんですが………これを繰り返し見る元気はちょっとないなあ………(題材が題材なだけに、正直しんどい)。
私は昔この映画の宣伝を見たとき、「どこのホイットニー?」と思った記憶があるのですが、このセンスのない邦題はちょっといただけないかなあ………。『MAN ON FIRE』が何故、『マイ・ボディーガード』になるのだ………。これは別に、ボディーガードの男の物語ではなく、男がボディーガードによって得たものの物語であって。
ボディーガードの物語なんて期待して、若い女性が見に行ったら倒れると思います。
まだ見ていませんが、『やわらかい手』なんかは、原題『イリーナ・パーム』(源氏名)よりずっとわかりやすくて、日本人として伝わりやすい(内容が)感じがして、いいセンスだと思うんですけど、色々ですね。
後、DVDの特典で(レンタルですが)予告とかTVスポットとかが入っているのは嬉しいんですが(私は映画の前の予告とか大好きです)、英語版だけでなく、日本で編集されたものモノもちゃんと入っていて欲しいなあ。あれはあれで、一つの作品としてとても楽しめるので。英語だと私、殆ど内容わかりませんし。
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『ナイトミュージアム』
なんかこう、語るべきことが見当たらないくらいに、凄く普通の映画でした。
つまらないとかそんなことはないんですが、凄く面白いかと問われるとそれほどでもないというか。何かがいい意味でも、悪い意味でも突出していないと、レビューとしては難しいですね。書くことないんだもん別に。
バツイチの冴えない父親が、博物館の夜警になったはいいが、そこでは毎夜展示物たちが命を吹き込まれ、自由に過ごしていた、みたいな話です。そこでおきるドタバタがメインなのかと思いきや、結構それは序盤で見せ場としては終わり、後は主人公がいかに仕事をこなし、息子に対して尊敬できる父親になれるか、とか、飾ってあるロウ人形たちの恋とか、奪われそうになる秘密の石版を、展示物たちがそれぞれの能力を駆使して取り戻すとか、本当に、まっとうな物語でした。
別に誰も傷つかないし、誰も傷つけられない。
展示物たちが動く、のが前提なので、それをさっくり受け入れられる主人公も凄いですが、見ている側も受け入れないと話が始まらないので、さっくり受け入れられます。
基本的にこの話は、それぞれがなすべきことを見つけ、なすべきことを行った、幸せな人たちの話なので、悲壮感なくご家族で楽しむ映画なのではないかと思いました。
うーん本当に感想と言う感想が書けないなあ………。
『アメリカン・ギャングスター』
ベトナム戦時下、麻薬に絡む黒人のギャングの話。
デンゼル・ワシントンがギャングで、ラッセル・クロウが刑事だと、「逆じゃね?」と思わず思ってしまいました。
デンゼル・ワシントンが出てくるとどうも、コッテコテに真面目な軍人にしか見えず、ギャングの親玉には見えないなあと難儀していたんですが、結果としてはそれは良かったのかもしれません。
麻薬を平気で扱い、人殺しもまったく辞さないフランク(デンゼル・ワシントン)ですが、警察に目をつけられないために、質素な暮らしをして教会に通い、人々に施しを「し続ける」というのは、それがそれなりに性に合っているということなのでしょう。
ただ、どれだけ母親思いで、田舎から麻薬で稼いで建てた大きな屋敷に、一族を集めても、平気で「家族」を麻薬の「ファミリー」にしてしまう感性は、やはりギャングなのだなあ、と。
家族を大切に思い、妻を大切に思うのも当然。
だが、他の赤の他人よりもファミリーは裏切らず純朴だからと、兄弟従兄弟に至るまで、平気で麻薬の商売に加担させる様は、やはり、平凡ではありません。
結果として、ある意味麻薬商売に見切りをつけて、警察の司法取引に乗っ取って、麻薬商売から引退するわけですが、彼自身がどうであれ、巻き込まれた親兄弟は、もう元の生活には戻れないわけで、その変の罪悪感がまるで描かれないのが、人間描写が淡白な分、真に迫っていて怖かったです。
麻薬はビジネス。家族もビジネス。警察もビジネス。
「勝って敵を作るか。負けて友を作るか」
の選択で、勝つほうを躊躇なく選ぶフランクが、「妻が狙われた」と言って真剣に憤る様は、明らかに矛盾しているのですが、それこそが、彼なりの人間らしさなのだなあ、と。
まあ私も明らかに普通の生活をしているとは思えない男に、ほいほい嫁ぐ女の気持ちもよくわかりませんが………。実際警察が来て何も知らないわけがないのに、うろたえるのがよくわかりません。
相対する、警察側の人間である、ラッセル・クロウは離婚だの親権だの(アメリカの映画は本当にこういうの多いなあ)もめてはいますが、それも添え物というか。彼はアメリカが体現する、正義のタフガイであって、女にだらしなくとも、勉強して司法試験に通るだけの頭脳を持ち、力もあり、という己の力でのし上がる様をわかりやすく描くためのキャラクターなのではないかと。感情移入するというよりは、「仕事人・警察」という感じでわりと平坦に見られました。
ラッセル・クロウ演じる、警察側の捜査の仕方や(電話一本で礼状が三十分でお届けってピザじゃないんだから)、麻薬の密輸の仕方など、その時代背景における、ある種の職業人の生き様が見られて、それが中々面白かったです。盗まれないように、麻薬の精製は女子が素っ裸で行う、とかね。(こういうことを書くとあれなんですが、女性には「穴」があるわけであって、そこに隠せるんだから、男性の方がむいているんじゃないかと思ったんですが、どうなんでしょうねえ。事実に基づいた話なので、これもちゃんと下地があると思うんですが。ま、その気になれば飲み込んだって、肛門に詰める方法だってあるわけですから、一概に女が有利ってわけでもないでしょうけど)
それぞれのキャラクターの描き方が平坦な部分も手伝って(この手の映画にしては残酷描写も少ないと思う)裏社会の一つの歴史を見ているような映画でした。
とってつけたような、山や谷はないけれど、そんなことしなくたって山や谷ばかりだった時代の生き方、ですね。
なんかこう、語るべきことが見当たらないくらいに、凄く普通の映画でした。
つまらないとかそんなことはないんですが、凄く面白いかと問われるとそれほどでもないというか。何かがいい意味でも、悪い意味でも突出していないと、レビューとしては難しいですね。書くことないんだもん別に。
バツイチの冴えない父親が、博物館の夜警になったはいいが、そこでは毎夜展示物たちが命を吹き込まれ、自由に過ごしていた、みたいな話です。そこでおきるドタバタがメインなのかと思いきや、結構それは序盤で見せ場としては終わり、後は主人公がいかに仕事をこなし、息子に対して尊敬できる父親になれるか、とか、飾ってあるロウ人形たちの恋とか、奪われそうになる秘密の石版を、展示物たちがそれぞれの能力を駆使して取り戻すとか、本当に、まっとうな物語でした。
別に誰も傷つかないし、誰も傷つけられない。
展示物たちが動く、のが前提なので、それをさっくり受け入れられる主人公も凄いですが、見ている側も受け入れないと話が始まらないので、さっくり受け入れられます。
基本的にこの話は、それぞれがなすべきことを見つけ、なすべきことを行った、幸せな人たちの話なので、悲壮感なくご家族で楽しむ映画なのではないかと思いました。
うーん本当に感想と言う感想が書けないなあ………。
『アメリカン・ギャングスター』
ベトナム戦時下、麻薬に絡む黒人のギャングの話。
デンゼル・ワシントンがギャングで、ラッセル・クロウが刑事だと、「逆じゃね?」と思わず思ってしまいました。
デンゼル・ワシントンが出てくるとどうも、コッテコテに真面目な軍人にしか見えず、ギャングの親玉には見えないなあと難儀していたんですが、結果としてはそれは良かったのかもしれません。
麻薬を平気で扱い、人殺しもまったく辞さないフランク(デンゼル・ワシントン)ですが、警察に目をつけられないために、質素な暮らしをして教会に通い、人々に施しを「し続ける」というのは、それがそれなりに性に合っているということなのでしょう。
ただ、どれだけ母親思いで、田舎から麻薬で稼いで建てた大きな屋敷に、一族を集めても、平気で「家族」を麻薬の「ファミリー」にしてしまう感性は、やはりギャングなのだなあ、と。
家族を大切に思い、妻を大切に思うのも当然。
だが、他の赤の他人よりもファミリーは裏切らず純朴だからと、兄弟従兄弟に至るまで、平気で麻薬の商売に加担させる様は、やはり、平凡ではありません。
結果として、ある意味麻薬商売に見切りをつけて、警察の司法取引に乗っ取って、麻薬商売から引退するわけですが、彼自身がどうであれ、巻き込まれた親兄弟は、もう元の生活には戻れないわけで、その変の罪悪感がまるで描かれないのが、人間描写が淡白な分、真に迫っていて怖かったです。
麻薬はビジネス。家族もビジネス。警察もビジネス。
「勝って敵を作るか。負けて友を作るか」
の選択で、勝つほうを躊躇なく選ぶフランクが、「妻が狙われた」と言って真剣に憤る様は、明らかに矛盾しているのですが、それこそが、彼なりの人間らしさなのだなあ、と。
まあ私も明らかに普通の生活をしているとは思えない男に、ほいほい嫁ぐ女の気持ちもよくわかりませんが………。実際警察が来て何も知らないわけがないのに、うろたえるのがよくわかりません。
相対する、警察側の人間である、ラッセル・クロウは離婚だの親権だの(アメリカの映画は本当にこういうの多いなあ)もめてはいますが、それも添え物というか。彼はアメリカが体現する、正義のタフガイであって、女にだらしなくとも、勉強して司法試験に通るだけの頭脳を持ち、力もあり、という己の力でのし上がる様をわかりやすく描くためのキャラクターなのではないかと。感情移入するというよりは、「仕事人・警察」という感じでわりと平坦に見られました。
ラッセル・クロウ演じる、警察側の捜査の仕方や(電話一本で礼状が三十分でお届けってピザじゃないんだから)、麻薬の密輸の仕方など、その時代背景における、ある種の職業人の生き様が見られて、それが中々面白かったです。盗まれないように、麻薬の精製は女子が素っ裸で行う、とかね。(こういうことを書くとあれなんですが、女性には「穴」があるわけであって、そこに隠せるんだから、男性の方がむいているんじゃないかと思ったんですが、どうなんでしょうねえ。事実に基づいた話なので、これもちゃんと下地があると思うんですが。ま、その気になれば飲み込んだって、肛門に詰める方法だってあるわけですから、一概に女が有利ってわけでもないでしょうけど)
それぞれのキャラクターの描き方が平坦な部分も手伝って(この手の映画にしては残酷描写も少ないと思う)裏社会の一つの歴史を見ているような映画でした。
とってつけたような、山や谷はないけれど、そんなことしなくたって山や谷ばかりだった時代の生き方、ですね。
『マシュー・マコノヒー マーシャルの奇跡』
デヴィット・ストラザーン祭り。
スポ根ものとして紹介されることが多いらしいんですが、個人的には全くそんな感じではありませんでした。なすべきことを懸命にやろうとした人たちが、ただ素晴らしいという感じで。
実話を基にした作品で、1970年、マーシャル大学のアメフト関係者や、町の住人達が乗った飛行機が墜落し、乗客全員が死亡してしまう。
残された人々は、悲しみの中でどう立ち上がっていくか。
新しいアメフトチームがどう復活し、また悲しみを乗り越えていくかの物語です。
最初っから最後まで泣きどおしでした。そして、デヴィット・ストラザーンは最高でした(それが目当て)。
事故が起こり、街の有志たちも、若く才能のある生徒達も亡くなり、街全体が悲しみにくれます。
チームはコーチも後援者も失い、再開は延期されます。
「失ったものを、毎週思い出す」
マーシャル大学学長エドモン(デヴィット・ストラザーン)は、その旨を偶然地元に残った四人に伝えます。
残ったメンバーはアメフト再開のために、一年や大学の生徒を集め、決起します。
「わからない。何から手をつければいいのかも」
「まず、コーチ選びからです」
婚約者を失ったアニーは、その父であり、教育委員会会長のグリフィンに店で話しかけます。
息子と映っている写真が飾ってある席に座る、グリフィンに、アニーは震えながら指輪を返そうとします。
「元は奥様の………。それをクリスに………。だから、返します。これは家族で持つものです」
「家族って? ………君が持っていてくれ。それを毎朝つけるたびに、息子を思い出してくれ」
飛行機の席を譲ったおかげで助かった、コーチ・レッドの元に学長が訪れますが、彼に戻る意思はありませんでした。
「私が彼の立場だったら、起き上がることもできなかったでしょう。どうか、もっと彼に仕事を与えてください」
そう、レッドの妻に言い残し、学長は新しいコーチ選びに奔走します。
ストラザーン演じる学長は、決して優柔不断で不誠実な人間ではありません。非常に真面目で真摯な態度をとる人ですが、それでも彼は学長である以上、生徒やチームとは同じ目線でのやり方を選びません。駄目なものは駄目なのだと、告げるのが上に立つ人間のすべきことだとわかっているので。
そんな彼が、必死でコーチを勧誘するために、何本も電話をかけるシーンで号泣。(おっさんが努力する様に心底弱い)
基本的に私は、努力をしている人間がその努力に報われないのが嫌なので(誰だってそうでしょうが)、見ていて凄く精神的に堪えました。こう、派手な「試練」ではなく、他人に断られるのは、相手の態度がどれだけ丁寧であっても辛いものですし、それを、延々(しかも見込みもないのに)続けなければいけないっていうのは、もう心底辛いわけです。
特に私は日常生活にある、誰もが経験する負の感情に非常に弱いので(スプラッターとか全く平気なんですが)ストラザーンが、どれだけ断られても、丁寧に受け答えしている姿を見るのが、本当に辛かったです。
これは感性の問題であって、普通に見られる人は「そりゃメンバーも誰もいないチームなんて引き受ける人はいないよね」と受け止められるのだと思いますし、実際そりゃそうだと私も思うんですが、こういうシチュエーションそのものがきっついのです、私は。
全ての人間に断られた学長の下に、陽気な性格のジャック・レンゲル(マシュー・マコノヒー)がコーチになりたいと連絡をしてきます。
ジャックの家を訪れた学長は、彼に尋ねます。
「ジャック。君に尋ねたいことが一つある。失礼だったら許してくれ」
ここで、許してくれ、と言うのが学長の性格ですよねえ。
「電話をもらったときに、貴方の目的を聞いておくべきだった。ここのコーチだし、うちとは関係がない。何故志願した? 普通の人間なら………。私が気になるのは、ここへ呼び出す前に少しは考えたか、ということだ」
「少しはね」
ジャックの答えを受けて、学長はその場を去ろうとします。それを呼び止めるジャック。
「電話した理由だよね。難しい話じゃないよ」
「この四ヶ月難しい話ばかりだ。簡単に頼む」
「墜落事故の聞いたとき、考えたのはあいつらのことだ。かけがえのない家族。もしあいつらを失ったら、どうなってたか。そして考えた。チームを。学校を。街を。傷ついてるはずだ。そして思った。力になろうって」
それを聞いて、学長がぐっと涙をこらえる様を見て、また号泣。
「私は詳しくないほうが都合がいいと思っている」
と、ジャックに学長が言うのも、またらしくていいんですよねえ。
チーム再開に反対する人々の意思を内包しながら、ジャックはコーチに就任します。
ただ、どうしても人数が足りません。そのためにジャックは、NCAA(全米大学体育協会)に請願を求めます。例外的にマーシャル大だけ一年生が出られるようにと。
このへん、中々理解できないのですが、フットボールは一年生は出られない、またどんどん他の学生や、他のスポーツをやっている人をスカウトしていい(スカウト、ということばが当然のように山ほど出てくる)ということのようですね。
NCAAは石頭で例外を認めない、という学長に、ジャックは言います。息子が信じられないことに四歳でそそうをし、それを自分が片付けたと。
「妻が信じられないと言ったのは、俺がオムツを片付けたことだ」
「何がいいたい?」
「やればできる」
ジャックはレッドを誘いにきます。
「今度はアシスタントだ。同じ分だけ働いて、給料はへる。その代わり、責任はへる。地元のスカウトを頼みたい」
「………レシーバーのコーチなのに、スカウトも任された。二十軒周り、二十のリビングに座り、二十人の母親に預かると約束した。73年に卒業のはずが………一人もいない。教えてくれ、今度は母親達になんて約束すればいい?」
残された四人のレギュラーメンバーも、それぞれ葛藤を抱えます。再建に必死なもの。また、チームに戻らないもの。
「あいつらが託したチームだぞ! 俺たちにかかってる!」
「俺は行くべきだった。お前にわかるもんか! 俺は寝坊した。それで飛行機に乗り遅れた。怪我でも病気でもない。一緒に行くはずだった」
ジャックの下に、レッドが現れ、コーチ陣は何とか揃います。
ただスカウトはままならず。学長もNCAAに請願書を出し続けますが、却下され続けます。
「それがジャック。これまで色よい返事が来ていない。もっと時間が必要かも」
「時間はないよ。時間は友達じゃない。………学長は結婚してる?」
「ああ。二十五年になる」
「二十五年か。賭けてもいいが、プロポーズは電話じゃなかっただろう? そして、奥さんの答えも手紙じゃなかった。できるって。あんたは開拓者だ。新しいことに挑戦できる」
「君は………」
「あんただ。誰にでも初めてのときはある。あんたしかできない」
そして学長は、豪雨の中、NCAAを訪ねます。
「マーシャル大学長のエドモンです。少しよろしいですか」
「カンザスで何してる」
「私の街も、学校も傷ついてます。あなたの力添えがないと、アメフトができません。お願いです」
ぬれねずみになった姿で戻ってきた学長の手に持っていたのは、承認の手紙。
「オムツをかえるって」
号泣(またお前!)。
ここからは、スカウトのコミカルなシーンが入ります。野球やらサッカーやらバスケから「君、いい体してるね。やらないか」みたいなノリで、コーチ陣が声をかけるのが面白いです。
練習は中々上手くいかず、ジャックはライバル校に作戦のコツを教えてもらえるよう頼みに行きます。そこには、ヘルメットにマーシャル大追悼を現したエムブレムが。
「色はいまいちかな」
「最高です」
新しい作戦によって、何とか形になってきた新生マーシャル大チーム。『ヤング・サンダリング・ハード』ですが、経験や実力の差はいかんともしがたく、初戦は敗退します。
懸命に試合をするチームや、コーチの姿に、レッドは失った仲間達を思い出し、指示できなくなってしまいます。
また生き残った四人の選手たちも、新しく加入した選手たちとの埋められない溝を実感します。
四人の選手のうち、キャプテンであるラフィンも、肩を痛め、出場が危ぶまれてしまいます。荒れた気持ちは態度にも出てしまい、ラフィンの乱暴な態度は目に余るものになっていきます。
「お前一人だけが辛いと思うな!」
レッドはそう言い放ち、グラウンドを去ります。
「前コーチが、亡くなる直前にこう言った。ファンが期待するのは勝利だけだ。俺たちは勝てない。この先もずっと。亡くなった人たちを辱めている」
ラフィンは痛む肩で、懸命に試合に出たいとジャックに懇願します。
「これは、勇気ややる気の問題じゃない」
「俺のチームでした。俺は託されたんです」
「それは違うな。彼らは託していない。ただ去った」
「じゃあ何故、俺は残ったの? 何で?」
「わからない」
教育委員会で、学長のクビが決まります。
会長であるグリフィンの元へ、エドモン学長が訪れます。
「事故の傷が深すぎた。新聞もテレビも見られない。職場でもアメフトから逃れられない。事故のことや、死んだ息子のことを思い出す」
「原因は事故のことだけじゃない。息子さんが亡くなったことだ。それを乗り越えなければ、何人もの学長をクビにしても、意味がない」
レッドの元へ、ジャックが訪れます。
「ここに来て生まれて初めて知った。勝利だけを求めるのは真実ではないと。今ここでは違うんだ。ここでは、勝とうが負けようが関係ない。どう戦うのかもな。大事なのはプレイできるかどうかだ。レッド、いつか言うよ。今日や明日や今季は無理だ。来季も無理だがいつか俺たちは気づく。急によそのチームや他のスポーツみたいに、勝利が全てで他に何もないって。そのときがきたら、前のチームを誇れる」
事故後、地元での初試合に、ジャックは朝早くから会場へ向かう大勢の街の人たちの姿を見ます。
「何の日だ?」
「試合の日」
グリフィンはアニーに、街を出るという息子との約束を守れと言います。
「自分の人生を生きろ。二度と出られなくなるぞ。私や仕事なんかいい。悲しみは厄介だ。後悔し続ける道を選ぶことになるから」
「後悔なんてしません」
「君じゃない」
試合前、ジャックは選手たちと亡くなったチームメイトの墓を訪れます。
損傷が激しく、判別できなかった六人の遺体。彼らは共に埋葬された。それはマーシャル大の歴史だという。
「お前達がなんであるかは、ここにある。フィールドに立った時、ハートを見せてくれ。最後の笛がなるまで戦え。それができれば、俺たちは、負けない。忘れないで欲しい。六名の若者と、六十九名の犠牲者を。今日一緒にフィールドには立てない。だが、見てるぞ。心しろよ。お前達の全プレーを歯を食いしばって見ている。いいか、お前達はこの試練を乗り越え、栄光を掴め。我ら」
「マーシャル!」
「今日で喪はあけた」
原題が『We are Mashall』なだけに、この言葉は頻繁に出てきますが、やはり感動します。
そして始まる地元での試合。面白いのが、観客が殆ど緑色のアイテムをつけて見に来ているんですね。緑はマーシャル大のイメージカラーなので。ネクタイだったり、シャツだったり、女性はリボンだったり。
そして、ラスト一秒。劇的なタッチダウンが決まり、見事マーシャル大は勝利します。
歓喜に沸きあがる中、「勝ったの?」と思わず横の人に感極まって聞いてしまう学長が、超可愛い。(笑)
勝利の後、ジャックは観客席にいる学長の側に走ってきます。
「これは試合の儀式なんです。一番活躍した選手に渡す。学長だ」
「私は選手じゃないよ」
「我らマーシャル。誰もが選手だ」
そして、学長の手にはウィニングボールが残されたのでした号泣。(また。笑)
選手の後日談が語られるのですが、ラフィンが闘病生活の後、亡くなられて、六人の選手たちと一緒の場所に埋葬されたと聞き、またもや号泣。(というか泣き通しなのでは)
エンドクレジットが凝っていて、映画のシーンと、多分実在の映像が照らし合わせる感じで映るので、感動もひとしおでした。実際のジャックと、マシューが共に映るスナップがあったり、本当の学長がストラザーンと似ても似つかなかったり。(笑)
長々と書きましたが、スポーツもの特有のしつこさとか、汗臭さがクドくいないですし、アメフトのルールを知らなくても楽しむことができると思います。ストラザーンは超可愛いし。
いい意味で、二時間ドラマを見ているような感じでした。すっきりとまとまっているので。
二時間強はちょっと長いですが、お勧めです。
『アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生 』
面白かったです。そして、才能があるって言うのは理屈じゃないということがわかりました。
肉声のナレーションがついて、アニーの生い立ちをなぞっていく、当人や関係者ののインタビューを交えながら、という物語のある作品ではありませんが、この 凄い 写真。
写真家になろうと思ったのは、大学の授業で写真の勉強があり、それで「ピンときた」からだっていうんだから、もうそれどんな才能?
アニーは若かりし頃、いわゆるヒッピーや、ドラッグ、ローリングストーンズが流行っていた時代に、完璧に順応しており、ドラッグをやり、更正施設に入り、という波乱万丈で、かつアグレッシブでアクティブという、まさにアメリカンという人生を送ってきているのですが、常に、何事に対してもひるむことなく挑戦する、という姿勢は、もうただ「強い」としか言いようがありません。
彼女も別に、よくある過去自慢みたいにドラッグのことを話したりしているわけではなく、私から見ると、若者達の文化が、まさにセンセーショナルな文化として価値があった時代に、彼女がひるまなかった、という印象を受けました。文化が、見栄えのする文化であったあの時代のエネルギーってやっぱり凄い。
最初はダウナー系の仕事が多かったアニーですが、メジャーな商業誌の仕事もばんばんこなすようになり、実際商業写真は面白いと断言しています。この、いい意味での仕事の選ばなさや、マイナー嗜好では全くないプロ意識が非常に好感が持てました。
そして、写真家であるアニーも勿論凄いのですが、それに関わる雑誌の編集者たちがまた凄い。
アニーが撮った何枚もの写真から、実際に掲載するものを選ぶのは、あくまで載せる側の権限であって、それはつまり、いいものをいいとして見極めることが出来る能力がある人々なわけです。
女性の編集長さんだったんですが、何枚もある中から、「これと、これと、これ」とささっと選ぶ眼力っていうんですか、それも才能ですよね。持って生まれたものにしろ、後から培われたものにせよ、個人の能力ここにきわまれり、という感じでした。
有名な写真に対しての当人を交えたエピソードもあり、彼女の写真で一番有名であろう(私は知らなかった)オノ・ヨーコとジョン・レノンの写真も、いわゆるヤラセであったのが衝撃でした。あれは、アニーがジョン・レノンに対して、「こういう感じで」と指示を出したものなんですね。どうもあの手の世界だと、己の劣情からくるなんたら~とか言いそうなものですが、そうじゃないっていうのがびっくりでした。
実際の技術に対しては詳しいことはわかりませんが、撮影時の状況と、出来上がった写真がまるで違うのにもびっくり。いや、本当に違うんだって! あれ、後から加工したものであっても、前述した通り、「これでいい」と断言できるのは当人なわけですから、一つの作品として問題ないわけですよ。いやーすごーい。
アニーだけではなく、他に有名な写真家の作品も、彼女が影響を受けたものとして紹介されており、そのどれもがとても衝撃的でした。なんかもう、全員凄すぎる。
今狙っているのは、これ。
写真集って高い!(それかよ)
ただ、この手の本は大きさが小さかったり、印刷が悪かったりしたら何の意味もないので、仕方がないかなあと思います。
一つの作品集として楽しめる映画です。流しっぱなしにしていてもいいと思います。
面白かったです。そして、才能があるって言うのは理屈じゃないということがわかりました。
肉声のナレーションがついて、アニーの生い立ちをなぞっていく、当人や関係者ののインタビューを交えながら、という物語のある作品ではありませんが、この 凄い 写真。
写真家になろうと思ったのは、大学の授業で写真の勉強があり、それで「ピンときた」からだっていうんだから、もうそれどんな才能?
アニーは若かりし頃、いわゆるヒッピーや、ドラッグ、ローリングストーンズが流行っていた時代に、完璧に順応しており、ドラッグをやり、更正施設に入り、という波乱万丈で、かつアグレッシブでアクティブという、まさにアメリカンという人生を送ってきているのですが、常に、何事に対してもひるむことなく挑戦する、という姿勢は、もうただ「強い」としか言いようがありません。
彼女も別に、よくある過去自慢みたいにドラッグのことを話したりしているわけではなく、私から見ると、若者達の文化が、まさにセンセーショナルな文化として価値があった時代に、彼女がひるまなかった、という印象を受けました。文化が、見栄えのする文化であったあの時代のエネルギーってやっぱり凄い。
最初はダウナー系の仕事が多かったアニーですが、メジャーな商業誌の仕事もばんばんこなすようになり、実際商業写真は面白いと断言しています。この、いい意味での仕事の選ばなさや、マイナー嗜好では全くないプロ意識が非常に好感が持てました。
そして、写真家であるアニーも勿論凄いのですが、それに関わる雑誌の編集者たちがまた凄い。
アニーが撮った何枚もの写真から、実際に掲載するものを選ぶのは、あくまで載せる側の権限であって、それはつまり、いいものをいいとして見極めることが出来る能力がある人々なわけです。
女性の編集長さんだったんですが、何枚もある中から、「これと、これと、これ」とささっと選ぶ眼力っていうんですか、それも才能ですよね。持って生まれたものにしろ、後から培われたものにせよ、個人の能力ここにきわまれり、という感じでした。
有名な写真に対しての当人を交えたエピソードもあり、彼女の写真で一番有名であろう(私は知らなかった)オノ・ヨーコとジョン・レノンの写真も、いわゆるヤラセであったのが衝撃でした。あれは、アニーがジョン・レノンに対して、「こういう感じで」と指示を出したものなんですね。どうもあの手の世界だと、己の劣情からくるなんたら~とか言いそうなものですが、そうじゃないっていうのがびっくりでした。
実際の技術に対しては詳しいことはわかりませんが、撮影時の状況と、出来上がった写真がまるで違うのにもびっくり。いや、本当に違うんだって! あれ、後から加工したものであっても、前述した通り、「これでいい」と断言できるのは当人なわけですから、一つの作品として問題ないわけですよ。いやーすごーい。
アニーだけではなく、他に有名な写真家の作品も、彼女が影響を受けたものとして紹介されており、そのどれもがとても衝撃的でした。なんかもう、全員凄すぎる。
今狙っているのは、これ。
写真集って高い!(それかよ)
ただ、この手の本は大きさが小さかったり、印刷が悪かったりしたら何の意味もないので、仕方がないかなあと思います。
一つの作品集として楽しめる映画です。流しっぱなしにしていてもいいと思います。
『カンバセーションズ ~終わらせた恋のはじめ方~』
アーロン・エッカート祭り引き続き。
面白さが良くわからないのは、私がまだ若造だからでしょうか。三十じゃ足りないということなのか。いや、私に足りないのは明らかに恋愛経験値であって。
久しぶりに知人の結婚式で再会した、元夫婦。最初は知ってか知らずか、他人のふりをして会話を続け、最後には一夜を共にしてしまう。だが、結局それぞれには、それぞれの生活があり、そこに戻っていく。
愁嘆場という感じではなく、こう、ダラダラ会話が続く感じです。延々、最後まで画面が二分割状態で進むので、個人的にはかなり違和感がありました。慣れればいいんでしょうが、慣れるほど映画にのめりこめなんだ。
アーロン・エッカートが終始、未練たらたら、という感じなんですが、その未練がカッコよすぎるのが気になります。泣いてすがって欲しいわけではないし、「別れろ」とか言うんですが、どうもそれが、いちいちカッコつけてるというか。情けない男ではないというか。
まあ、恋愛映画が好きな大人なら楽しめるんじゃないでしょうか。
生々しい、とは思いませんでした。リアルって感じじゃなし。それともアメリカの38歳男女は、いちいちこんなに映える恋愛してんでしょうかね。
『サンキュー・スモーキング』
アーロン。エッカート続き。
しかし………公式サイトが見づらい………!(毎度のことながら疲れる)
こちらは面白かったです。しゃべりだけが心情の男が、あくまでビジネスとして、その話術を駆使する。彼がビジネスとして選んだのは、全米から非難を浴び続ける、「タバコ」だった。
これ、日本との価値観の違いなんでしょうけど、タバコの害がわかった上で、吸うも吸わないも個人の勝手だと思うんですが、アメリカだと、それがヒステリックに責任を追及するんですなあ。こんな国は生き辛くて嫌だ。
これ、どれだけタバコ業界と、それに対抗する人たちとの、やり取りがあるのかと思いきや、そんな映画じゃありませんでした。
タバコのスポークスマンとして、世間から非難を浴びる主人公と、その息子。
息子は、父親の仕事に対し疑問を持ち、父親はその疑問に答える。
父の仕事を共に見学していくうちに、息子は父親の考えから、様々なことを学んでいく。
感動臭くない父子ものとして、非常に秀逸なデキでした。
仕事をする父親の背中から、学ぶ何かっていうのは、凄くリアルですしね。
聞きようによっては、ただの屁理屈だったり、理論を煙に巻いているだけだったりする主人公ですが、「交渉じゃない、議論だ」と言い切る姿はカッコイイですし、どうも見ている側(特にこの世界が日常ではない私としては)は、一つを糾弾したがる大多数よりも、アーロン・エッカートに味方したくなります。
最終的に、タバコにドクロマークをつける審問会で、主人公は、敵対する議員に「子どもが18歳になったら、タバコを買ってやるか」という問いを投げかけられます。
それに対する答えは、「彼がそう望むのであれば、金を出します」という、私から見れば、ごく当たり前の答えだったのも、好印象。
あくまで、決めるのは自分。
全編通して父親が、息子に語り続けるのはそれであり、その言葉は見ている側には受け止めやすいものでした。
役者陣では、禁煙派の議員、オートラン・フィニスター上院議員が凄くカッコよかったです。顔がね! 超好み! ウィリアム・H・メイシー!
一見して、情けない顔したおっさんに見えないこともないんですが、この手の顔は大好物で、絶対見たことある、この顔には覚えがある、と調べたところ、ERのドクター・モーゲンスタンじゃないですか! けえー懐かしいー! 大好きだったよ先生!
こういう、ぱっと見全然美形じゃないおっさんが、すっげえゴージャスな妻をエスコートしている図とか、それだけでもうおなかいっぱいです。ご馳走様!(すっかり映画の感想から逸脱)
アーロン・エッカート祭り引き続き。
面白さが良くわからないのは、私がまだ若造だからでしょうか。三十じゃ足りないということなのか。いや、私に足りないのは明らかに恋愛経験値であって。
久しぶりに知人の結婚式で再会した、元夫婦。最初は知ってか知らずか、他人のふりをして会話を続け、最後には一夜を共にしてしまう。だが、結局それぞれには、それぞれの生活があり、そこに戻っていく。
愁嘆場という感じではなく、こう、ダラダラ会話が続く感じです。延々、最後まで画面が二分割状態で進むので、個人的にはかなり違和感がありました。慣れればいいんでしょうが、慣れるほど映画にのめりこめなんだ。
アーロン・エッカートが終始、未練たらたら、という感じなんですが、その未練がカッコよすぎるのが気になります。泣いてすがって欲しいわけではないし、「別れろ」とか言うんですが、どうもそれが、いちいちカッコつけてるというか。情けない男ではないというか。
まあ、恋愛映画が好きな大人なら楽しめるんじゃないでしょうか。
生々しい、とは思いませんでした。リアルって感じじゃなし。それともアメリカの38歳男女は、いちいちこんなに映える恋愛してんでしょうかね。
『サンキュー・スモーキング』
アーロン。エッカート続き。
しかし………公式サイトが見づらい………!(毎度のことながら疲れる)
こちらは面白かったです。しゃべりだけが心情の男が、あくまでビジネスとして、その話術を駆使する。彼がビジネスとして選んだのは、全米から非難を浴び続ける、「タバコ」だった。
これ、日本との価値観の違いなんでしょうけど、タバコの害がわかった上で、吸うも吸わないも個人の勝手だと思うんですが、アメリカだと、それがヒステリックに責任を追及するんですなあ。こんな国は生き辛くて嫌だ。
これ、どれだけタバコ業界と、それに対抗する人たちとの、やり取りがあるのかと思いきや、そんな映画じゃありませんでした。
タバコのスポークスマンとして、世間から非難を浴びる主人公と、その息子。
息子は、父親の仕事に対し疑問を持ち、父親はその疑問に答える。
父の仕事を共に見学していくうちに、息子は父親の考えから、様々なことを学んでいく。
感動臭くない父子ものとして、非常に秀逸なデキでした。
仕事をする父親の背中から、学ぶ何かっていうのは、凄くリアルですしね。
聞きようによっては、ただの屁理屈だったり、理論を煙に巻いているだけだったりする主人公ですが、「交渉じゃない、議論だ」と言い切る姿はカッコイイですし、どうも見ている側(特にこの世界が日常ではない私としては)は、一つを糾弾したがる大多数よりも、アーロン・エッカートに味方したくなります。
最終的に、タバコにドクロマークをつける審問会で、主人公は、敵対する議員に「子どもが18歳になったら、タバコを買ってやるか」という問いを投げかけられます。
それに対する答えは、「彼がそう望むのであれば、金を出します」という、私から見れば、ごく当たり前の答えだったのも、好印象。
あくまで、決めるのは自分。
全編通して父親が、息子に語り続けるのはそれであり、その言葉は見ている側には受け止めやすいものでした。
役者陣では、禁煙派の議員、オートラン・フィニスター上院議員が凄くカッコよかったです。顔がね! 超好み! ウィリアム・H・メイシー!
一見して、情けない顔したおっさんに見えないこともないんですが、この手の顔は大好物で、絶対見たことある、この顔には覚えがある、と調べたところ、ERのドクター・モーゲンスタンじゃないですか! けえー懐かしいー! 大好きだったよ先生!
こういう、ぱっと見全然美形じゃないおっさんが、すっげえゴージャスな妻をエスコートしている図とか、それだけでもうおなかいっぱいです。ご馳走様!(すっかり映画の感想から逸脱)