『インビクタス 負けざる者たち』公式サイト
いい映画でした。クリント・イーストウッド監督らしく、淡々と進む中に見ようによっては感動がある、っていう図式が確立されていて、下手にお涙頂戴ものではなくて、とても見やすい映画でした。
実際、人種差別から始まる映画なわけですから、見る前はかなり陰鬱な気分があったのは事実なのですが、見終わってみるとそこには、ギスギスした主張ではなく、団結して国をスポーツで盛り上げよう、という善の部分にニュートラルな重みを置いた映画で、ちょっと驚きました。
勿論、それでも実際差別は存在しているわけで、黒人の人たちが白人の人を許せないというのは至極当然なのですが、その中で、ラグビーというスポーツを主題においているところが、きれいにまとまっていて入り込みやすい感じです。
やはり、嘘でもなんでも、スポーツってクリーンじゃなきゃダメなんですよ。
影で買収があったり、陰謀があったとしても、それが現実だとしても、その上で、人々が歓喜の叫びをあげるに、恥じる内容であってはならないのですよ。
だからこそ、マンデラ氏はそのクリーンさを、団結の旗印として据えられるのであって、そこが初めから真っ黒なものを、政治的には決して利用できないでしょうから。
変なお涙頂戴にならないのは、これが事実であるという圧巻さと、マンデラ氏が決して慈善事業とか、純粋な善意から、ラグビーに対して肩入れしているからではない、というところでしょうか。
マンデラ氏は政治家であり、大統領です。南アフリカをまとめていく責任がある。
その中で、利用できるものはなんでも利用しなければならない。
それが、白人が中心となって活動し、恥さらしの実力として低迷していたラグビーだった、という割り切り方が、凄くなんだろう、政治的であるからこその裏切らない理由として存在していて、納得できるんですよね。
これがただ、ラグビーが好きだから(それだったら駄目ということではなく)という、愛情って言う不確かで目に見えないものを寄る辺には出来ないわけですよ。
マンデラ氏は政治家ですからね。
でも、その分、打算も社会も含めた政治の中で、「正しく利用する」っていうのが、逆に保証のない愛情よりも、確固たる保障がある愛情に昇華されているわけです。
だからこそ、スポーツは絶対にクリーンでなければならないわけですが。
マンデラ氏の釈放から物語は始まります。
分けられた道に、フェンス。裸足でサッカーをやる黒人の子供たちは、それを歓喜で向かえ、白人は「テロリストが釈放された」と冷淡な態度を取る。
明確な差別が、建前上なくなっても、黒人は白人に対する恨みを忘れていないし、白人は黒人に対する差別意識をなくすことはできない。
マンデラ氏のボディーガードとして雇われた白人が来たときも、黒人の第一声は、「俺を逮捕しに来たのか」とにらみ上げる。マンデラ氏に詰め寄る黒人の側近に対し、大統領は静かに言う。
「赦さなければならない。大きな心をもって」
「あいつらは、俺たちの仲間を殺そうとしたんですよ。たくさん、殺された」
これ、「許せる」はずがないんですよね。実際殺された人大勢いたわけですから。
でも、マンデラ氏は「赦せ」という。私がレンタルしたDVDでは一貫してこちらの漢字が使われていましたが、まさしくこの字の通りなのでしょう。
「許せ」なくとも、「赦さ」なければならない。白人が今度は逆に黒人を恐れるようなことがあってはならない。
低迷続くラグビーは、白人のスポーツであり、その象徴であるチームは解散の議決を取られる。満場一致の会場の中で、マンデラ氏は一人それに反対する。
「君たちは私を選んだ。私についてきてくれるものは挙手を」
低迷し、首を切られるのも時間の問題であるラグビーの主将を執務室に呼び、マンデラは手ずからお茶をふるまう。
具体的な話はお互いになにもせず、互いを鼓舞する形で会話は終わった。
どんな話だったのか聞きたがる妻に、主将は、
「たぶん、ワールドカップで勝てと」
と言うのだった。
この時点で、マンデラはもうこのマッド・デイモン演じる主将に、楽に退かせる気はさらさらないわけです。同じ重責を担ってもらう相手として、主将を選んだ。勝てとも言わず、ただ国として一つに団結し、持っている力以上のものを出すためには、さらなる高みが必要であると説くマンデラは、やはり慈善事業家ではなく、政治家なのです。
だから、政治のアピールとして、ラグビーチームを大いに使う。
それに反発を覚えるチームの面々も、その中で社会を見るうちに、南アフリカという国にとって、自分たちがいかなる存在であらねばならないかを知る。
「この国は変わった。だから、俺たちも変わらなくてはならない」
決勝まで進んだラグビーチームは、マンデラが三十年収監されていた島へ向かう。
両腕を広げるのが精一杯な独房。石を砕き続けるという、無意味な仕事をさせられ続けたその島で、主将は確かにマンデラの思いを知る。
我が運命を決めるのは吾なり、我が運命の支配者は吾なり、我が魂の指揮官は吾なり。
静かな迫力がある映画でした。特別わざとらしい伏線もないし、時系列ごとに淡々と進む映画なので、政治色が苦手な方も見やすいのではないかと思います。変に過剰な演出があると、この手の事実に基づく映画は非常に萎えるのですが、そういうの一切ありませんので。
単なる人格者というのではなく、政治的な命がけのパフォーマンスをさも当然のように行う人間と、その意思に打たれ、応えた人々の映画でした。
最後、EDロール(というかワールドカップのテーマ曲なのか?)が、クラッシックの『ジュピター』に歌詞を当てはめているものなのですが、その歌詞が、凄くキング牧師の演説と似ていて、なんだかぐっときました。ワールドカップも、OPは黒人の方が、EDは白人の方を起用していて、そういう人種的な配慮も細部に垣間見れる作品です(当たり前のことなんでしょうけども)。
政治的な映画であることは間違いないのですが、ちゃんとユーモラスな場面もありますし、マンデラ氏も家族崩壊していたりして、完璧なものばかり映るわけではないので、そのへんはご安心を。
いい映画でした。クリント・イーストウッド監督らしく、淡々と進む中に見ようによっては感動がある、っていう図式が確立されていて、下手にお涙頂戴ものではなくて、とても見やすい映画でした。
実際、人種差別から始まる映画なわけですから、見る前はかなり陰鬱な気分があったのは事実なのですが、見終わってみるとそこには、ギスギスした主張ではなく、団結して国をスポーツで盛り上げよう、という善の部分にニュートラルな重みを置いた映画で、ちょっと驚きました。
勿論、それでも実際差別は存在しているわけで、黒人の人たちが白人の人を許せないというのは至極当然なのですが、その中で、ラグビーというスポーツを主題においているところが、きれいにまとまっていて入り込みやすい感じです。
やはり、嘘でもなんでも、スポーツってクリーンじゃなきゃダメなんですよ。
影で買収があったり、陰謀があったとしても、それが現実だとしても、その上で、人々が歓喜の叫びをあげるに、恥じる内容であってはならないのですよ。
だからこそ、マンデラ氏はそのクリーンさを、団結の旗印として据えられるのであって、そこが初めから真っ黒なものを、政治的には決して利用できないでしょうから。
変なお涙頂戴にならないのは、これが事実であるという圧巻さと、マンデラ氏が決して慈善事業とか、純粋な善意から、ラグビーに対して肩入れしているからではない、というところでしょうか。
マンデラ氏は政治家であり、大統領です。南アフリカをまとめていく責任がある。
その中で、利用できるものはなんでも利用しなければならない。
それが、白人が中心となって活動し、恥さらしの実力として低迷していたラグビーだった、という割り切り方が、凄くなんだろう、政治的であるからこその裏切らない理由として存在していて、納得できるんですよね。
これがただ、ラグビーが好きだから(それだったら駄目ということではなく)という、愛情って言う不確かで目に見えないものを寄る辺には出来ないわけですよ。
マンデラ氏は政治家ですからね。
でも、その分、打算も社会も含めた政治の中で、「正しく利用する」っていうのが、逆に保証のない愛情よりも、確固たる保障がある愛情に昇華されているわけです。
だからこそ、スポーツは絶対にクリーンでなければならないわけですが。
マンデラ氏の釈放から物語は始まります。
分けられた道に、フェンス。裸足でサッカーをやる黒人の子供たちは、それを歓喜で向かえ、白人は「テロリストが釈放された」と冷淡な態度を取る。
明確な差別が、建前上なくなっても、黒人は白人に対する恨みを忘れていないし、白人は黒人に対する差別意識をなくすことはできない。
マンデラ氏のボディーガードとして雇われた白人が来たときも、黒人の第一声は、「俺を逮捕しに来たのか」とにらみ上げる。マンデラ氏に詰め寄る黒人の側近に対し、大統領は静かに言う。
「赦さなければならない。大きな心をもって」
「あいつらは、俺たちの仲間を殺そうとしたんですよ。たくさん、殺された」
これ、「許せる」はずがないんですよね。実際殺された人大勢いたわけですから。
でも、マンデラ氏は「赦せ」という。私がレンタルしたDVDでは一貫してこちらの漢字が使われていましたが、まさしくこの字の通りなのでしょう。
「許せ」なくとも、「赦さ」なければならない。白人が今度は逆に黒人を恐れるようなことがあってはならない。
低迷続くラグビーは、白人のスポーツであり、その象徴であるチームは解散の議決を取られる。満場一致の会場の中で、マンデラ氏は一人それに反対する。
「君たちは私を選んだ。私についてきてくれるものは挙手を」
低迷し、首を切られるのも時間の問題であるラグビーの主将を執務室に呼び、マンデラは手ずからお茶をふるまう。
具体的な話はお互いになにもせず、互いを鼓舞する形で会話は終わった。
どんな話だったのか聞きたがる妻に、主将は、
「たぶん、ワールドカップで勝てと」
と言うのだった。
この時点で、マンデラはもうこのマッド・デイモン演じる主将に、楽に退かせる気はさらさらないわけです。同じ重責を担ってもらう相手として、主将を選んだ。勝てとも言わず、ただ国として一つに団結し、持っている力以上のものを出すためには、さらなる高みが必要であると説くマンデラは、やはり慈善事業家ではなく、政治家なのです。
だから、政治のアピールとして、ラグビーチームを大いに使う。
それに反発を覚えるチームの面々も、その中で社会を見るうちに、南アフリカという国にとって、自分たちがいかなる存在であらねばならないかを知る。
「この国は変わった。だから、俺たちも変わらなくてはならない」
決勝まで進んだラグビーチームは、マンデラが三十年収監されていた島へ向かう。
両腕を広げるのが精一杯な独房。石を砕き続けるという、無意味な仕事をさせられ続けたその島で、主将は確かにマンデラの思いを知る。
我が運命を決めるのは吾なり、我が運命の支配者は吾なり、我が魂の指揮官は吾なり。
静かな迫力がある映画でした。特別わざとらしい伏線もないし、時系列ごとに淡々と進む映画なので、政治色が苦手な方も見やすいのではないかと思います。変に過剰な演出があると、この手の事実に基づく映画は非常に萎えるのですが、そういうの一切ありませんので。
単なる人格者というのではなく、政治的な命がけのパフォーマンスをさも当然のように行う人間と、その意思に打たれ、応えた人々の映画でした。
最後、EDロール(というかワールドカップのテーマ曲なのか?)が、クラッシックの『ジュピター』に歌詞を当てはめているものなのですが、その歌詞が、凄くキング牧師の演説と似ていて、なんだかぐっときました。ワールドカップも、OPは黒人の方が、EDは白人の方を起用していて、そういう人種的な配慮も細部に垣間見れる作品です(当たり前のことなんでしょうけども)。
政治的な映画であることは間違いないのですが、ちゃんとユーモラスな場面もありますし、マンデラ氏も家族崩壊していたりして、完璧なものばかり映るわけではないので、そのへんはご安心を。
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『レスラー』公式サイト
まあ、予想してしかるべきだったんですよね。知り合いが勧めてくる映画が、明るいわけがないということに…。
『アイアンマン2』で、中年デブ天才物理学者というあたらな境地(たまらない萌えでした)を開いた、ミッキー・ローク主演の映画です。
公開まで散々あったようなんですが、蓋を開けてみれば制作費の四倍稼いだという超名作。
しかし、これを人に勧めてどうすればいいのか私には分かりません。
レスラーは、互いを称えあい、敬いあう。
場末のリングに上がる時も、試合展開をそれぞれに考えて、それぞれ互いを思いやる。
ミッキー・ローク演じる、老いたプロレスラー・ランディ・ザ・ラムは常に優しく、誰に対してもとても紳士的です。
「よう、久しぶりだな」
「元気か? あの試合は最高だった」
「才能がある。頑張れよ」
かつての栄光を誇ったレスラーは、どんな立場になっても、同じレスラーである人間たちに対する優しさを忘れない。そこが場末であろうが、何であろうが関係ない。
痛みや肉体改造を耐えるために、薬づけになっても、週末は試合を行う。
ファンが臨む試合をやるために、テーピングにカミソリを仕込み、試合中にこっそりと流血の惨事を演じる。
血まみれの体を互いに抱えて、同じロッカールームで、たった今戦った相手と笑いあう。
「いい試合だった」
とにかく、懸命なレスラーたちの姿にただ涙。
悲惨な風景は何処にもなく、笑顔ばかり。
それでも、サイン会に集まれば、ランディ以外殆ど客は集まらず、かつての栄光すら消えたほかのレスラーは椅子に座ってうつむくばかり。その中には、車椅子生活を送っているものすらいた。
そんな悲しい生き様を見ても、ランディは、結局、レスラーであることをやめることはできなかった。
誰も悪い人などいなかった。意地悪をする人も、陰険な人も、そして、暴力的な人も誰もいない。
ランディも優しく、悲しい。
ヒロインである、子持ちの中年ストリッパー・キャシディに対して、侮辱した若い客に「レディに対して失礼だ。お前らの青臭い妻より、何倍もセクシーなんだ」と、静かに怒るシーンでも、全く暴力的な印象はありません。
ガタついた体を支え、長年のツケで心臓発作を起こし、二度と試合は出来ないと、スーパーでバイトをする日々。
孤独になってから、今まで見捨てていた娘との復縁を望むのは、確かに身勝手です。
娘さんからすると許せないのも無理ありません。
それでもランディは、プレゼントを選び、思い出の地を一緒に歩きます。
「俺は酷い男だ。当然の報いだ。でも、お前に嫌われたくない」
やっとの思いでこぎつけた娘との食事の約束を、キャシディとの諍いでヤケになり、ヤク中娘とのセックスですっぽかしてしまうのは、ただただランディに罪がある。
回復するかに思えた娘との絆は、あっけなく潰えて、二度と戻ることはなかった。
「もう二度と会わない」
誰が悪いのかと問われると自分しかない。
誰も悪い人などいなかった。
スーパーの惣菜売り場で、遂にランディは壊れた心臓を抱え、かつてのライバルとの再戦を決意する。
「俺にとっては、外の世界の方が辛いんだ」
そう微笑むランディに、キャシディは、「私がいるわ」と試合会場で訴えるも、ランディは音楽と共にリングに向かった。
「もう駄目とも言われた。だが、やめると決められるのは、ファンだけだ」
鳴り止まぬ歓声。もういいから、早く試合を終わらせろというリングの上の相手。
痛む心臓を抱えて、ランディはトップロープの上に立つ。
高々と突き上げられた両腕。がっしりと開かれた二の足。
ランディは自らの必殺技を放つために、真っ白なライトをバックに、高々と飛んだ。
悲惨とか、そういうのとはちょっと違うんですよ。
ランディは、ある意味自業自得なわけで、その生き方に物申したいわけじゃないんですよ。
ただ、当人たちの懸命な姿が、必死に生きようとしている姿が、誰一人手を抜いて人生を生きていない人たちの姿が、見ている側からすると、たまならく切なくて、苦しい。だから、涙が出る。人が一生懸命な姿は美しく、感動的で、そこには生の喜びがあるはずなのに、それがあるのに、どうしても悲しい。
この言いようのない悲しさが、本当に辛かったです。
誰一人意地悪な人がいないっていうか、悪役に当たる人がいないっていうのもまた…。
アルバイト先のスーパーの上司も、「もっと働きたい」というランディに対して、別に邪険にするわけでもなくちゃんと職を与えてますしね。彼は彼の立場で、ちゃんとランディを「使っている」わけです。ランディがレスラーであることとは関係のない部分で、この人はちゃんとランディに応えている。
悪役のレスラーたちは本当に互いに敬意を払って接しているんですよ。大先輩であるランディに敬意を払い、ランディもそれに答える。「大丈夫か」とねぎらえる。
ストリッパーであるキャシディも、子供を育てながら懸命に生きて、親身になってランディに答える。
娘のステファニーも、ランディの歩み寄りに答えようとする。
懸命に生きようとした、情けない人間。人を殺す人間も、悪意もそこには何処にもない。
それでも、誰も決して、他人から見る幸せな人生を送ることは出来なかった。そんな映画でした。
また、EDが泣けるんだこれが。ブルース・スプリングスティーンが脚本を読んで作った歌なのですが、珍しいことにEDロールと共に和訳が出ます。これ、多分DVDだけの仕様じゃなく、映画館でもそうだったんだと思うんですけどね。
一芸しか出来ない馬が 草原を駆け回るのを見たことがあるかい。あるなら、それが俺だったんだよ。
一本足の犬が必死に 通りを横切るのを見たことがあるかい。 あるなら、それが俺だよ。
癒してくれた人を追い払ってしまう。
安らげる家を飛び出してしまう。
今でもまだ信じられるのは、この折れた腕と傷痕だけ。
ランディー!!!
吐きそうになりました。(泣きすぎて)
まあ、予想してしかるべきだったんですよね。知り合いが勧めてくる映画が、明るいわけがないということに…。
『アイアンマン2』で、中年デブ天才物理学者というあたらな境地(たまらない萌えでした)を開いた、ミッキー・ローク主演の映画です。
公開まで散々あったようなんですが、蓋を開けてみれば制作費の四倍稼いだという超名作。
しかし、これを人に勧めてどうすればいいのか私には分かりません。
レスラーは、互いを称えあい、敬いあう。
場末のリングに上がる時も、試合展開をそれぞれに考えて、それぞれ互いを思いやる。
ミッキー・ローク演じる、老いたプロレスラー・ランディ・ザ・ラムは常に優しく、誰に対してもとても紳士的です。
「よう、久しぶりだな」
「元気か? あの試合は最高だった」
「才能がある。頑張れよ」
かつての栄光を誇ったレスラーは、どんな立場になっても、同じレスラーである人間たちに対する優しさを忘れない。そこが場末であろうが、何であろうが関係ない。
痛みや肉体改造を耐えるために、薬づけになっても、週末は試合を行う。
ファンが臨む試合をやるために、テーピングにカミソリを仕込み、試合中にこっそりと流血の惨事を演じる。
血まみれの体を互いに抱えて、同じロッカールームで、たった今戦った相手と笑いあう。
「いい試合だった」
とにかく、懸命なレスラーたちの姿にただ涙。
悲惨な風景は何処にもなく、笑顔ばかり。
それでも、サイン会に集まれば、ランディ以外殆ど客は集まらず、かつての栄光すら消えたほかのレスラーは椅子に座ってうつむくばかり。その中には、車椅子生活を送っているものすらいた。
そんな悲しい生き様を見ても、ランディは、結局、レスラーであることをやめることはできなかった。
誰も悪い人などいなかった。意地悪をする人も、陰険な人も、そして、暴力的な人も誰もいない。
ランディも優しく、悲しい。
ヒロインである、子持ちの中年ストリッパー・キャシディに対して、侮辱した若い客に「レディに対して失礼だ。お前らの青臭い妻より、何倍もセクシーなんだ」と、静かに怒るシーンでも、全く暴力的な印象はありません。
ガタついた体を支え、長年のツケで心臓発作を起こし、二度と試合は出来ないと、スーパーでバイトをする日々。
孤独になってから、今まで見捨てていた娘との復縁を望むのは、確かに身勝手です。
娘さんからすると許せないのも無理ありません。
それでもランディは、プレゼントを選び、思い出の地を一緒に歩きます。
「俺は酷い男だ。当然の報いだ。でも、お前に嫌われたくない」
やっとの思いでこぎつけた娘との食事の約束を、キャシディとの諍いでヤケになり、ヤク中娘とのセックスですっぽかしてしまうのは、ただただランディに罪がある。
回復するかに思えた娘との絆は、あっけなく潰えて、二度と戻ることはなかった。
「もう二度と会わない」
誰が悪いのかと問われると自分しかない。
誰も悪い人などいなかった。
スーパーの惣菜売り場で、遂にランディは壊れた心臓を抱え、かつてのライバルとの再戦を決意する。
「俺にとっては、外の世界の方が辛いんだ」
そう微笑むランディに、キャシディは、「私がいるわ」と試合会場で訴えるも、ランディは音楽と共にリングに向かった。
「もう駄目とも言われた。だが、やめると決められるのは、ファンだけだ」
鳴り止まぬ歓声。もういいから、早く試合を終わらせろというリングの上の相手。
痛む心臓を抱えて、ランディはトップロープの上に立つ。
高々と突き上げられた両腕。がっしりと開かれた二の足。
ランディは自らの必殺技を放つために、真っ白なライトをバックに、高々と飛んだ。
悲惨とか、そういうのとはちょっと違うんですよ。
ランディは、ある意味自業自得なわけで、その生き方に物申したいわけじゃないんですよ。
ただ、当人たちの懸命な姿が、必死に生きようとしている姿が、誰一人手を抜いて人生を生きていない人たちの姿が、見ている側からすると、たまならく切なくて、苦しい。だから、涙が出る。人が一生懸命な姿は美しく、感動的で、そこには生の喜びがあるはずなのに、それがあるのに、どうしても悲しい。
この言いようのない悲しさが、本当に辛かったです。
誰一人意地悪な人がいないっていうか、悪役に当たる人がいないっていうのもまた…。
アルバイト先のスーパーの上司も、「もっと働きたい」というランディに対して、別に邪険にするわけでもなくちゃんと職を与えてますしね。彼は彼の立場で、ちゃんとランディを「使っている」わけです。ランディがレスラーであることとは関係のない部分で、この人はちゃんとランディに応えている。
悪役のレスラーたちは本当に互いに敬意を払って接しているんですよ。大先輩であるランディに敬意を払い、ランディもそれに答える。「大丈夫か」とねぎらえる。
ストリッパーであるキャシディも、子供を育てながら懸命に生きて、親身になってランディに答える。
娘のステファニーも、ランディの歩み寄りに答えようとする。
懸命に生きようとした、情けない人間。人を殺す人間も、悪意もそこには何処にもない。
それでも、誰も決して、他人から見る幸せな人生を送ることは出来なかった。そんな映画でした。
また、EDが泣けるんだこれが。ブルース・スプリングスティーンが脚本を読んで作った歌なのですが、珍しいことにEDロールと共に和訳が出ます。これ、多分DVDだけの仕様じゃなく、映画館でもそうだったんだと思うんですけどね。
一芸しか出来ない馬が 草原を駆け回るのを見たことがあるかい。あるなら、それが俺だったんだよ。
一本足の犬が必死に 通りを横切るのを見たことがあるかい。 あるなら、それが俺だよ。
癒してくれた人を追い払ってしまう。
安らげる家を飛び出してしまう。
今でもまだ信じられるのは、この折れた腕と傷痕だけ。
ランディー!!!
吐きそうになりました。(泣きすぎて)
私「おはようございます。なんでもサッカー勝ったらしいですね」
早番「そうなんだよ。俺、ちゃんと三時に目覚ましかけて、起きたんだけどさあ」
私「あ。二度寝しちゃったとか」
早番「三時に起きて、「何で俺こんな時間に目覚ましかけたんだ?」って、試合のこと忘れてて、結局見られなかったんだよ」
私「最悪ですね。色々な意味で」
父は決勝トーナメントに行けるわけがない、という派だったのですが、やはり嬉しそうです。
「決勝トーナメントに行ってからは、試合内容がもっと問題になる」といきまいておりますが、先日親父は自分の株を下げたので、私もあまりワールドカップの話題に付き合ってやらなくなりました(苦笑)。
『アイアンマン2』公式サイト
私「テレビで流れるCFを見るたびに、思っていたよりもずっと、敵役のミッキー・ロークがちゃっちくてドキドキが止まらない。早く見たい」
知り合い「あれだけカッコよく、両手ムチを振り回しているわりには、足にぶつかっちゃうからか、おかしなスキップをしているので、ドキドキが止まらない。早く見たい」
見る前から期待満点だった、『アイアンマン2』です。DVDでレンタルして見たときは「ちゃんと劇場版で見ればよかった」と後悔したので、今回はちゃんと劇場へ行きましたよ。
いい機会なので、『ハルク』もちゃんと続編出してくれないかなあ。あれはあれで面白かったのに。
さて、内容としてはつまらなくはないけど、個人的にはスカッとバカだった一作目に比べると、アクションシーンが肩透かしであったり、ミッキー・ローク演じる悪役の立ち位置が不透明で会ったりと、乗り切れない感がありました。
アイアンマンこと、トニー・スタークやそれを取り巻く人物は別に変化ないので、そうなると、やっぱり悪役であるミッキー・ローク演じるイワン・ヴァンコがキモになってくると思うのですが、このイワンがなあ。トニーと気質が結局似てるってとこに難あり、というか。
トニーが何で物語り上で魅力的に見えるかというと、結局は他の人々が常識的で、彼一人がバカってところにあると思うのです。
第一作目でも、非業のドクターとバカなトニー。有能で現実的な秘書とバカなトニー。常識人の軍人とバカなトニー。会社第一の守銭奴な敵役とバカなトニー、っていう、キャラクターの対比がはっきりしていたからこそ、そのバカな行いが楽しかったのですが、イワンって正直何がしたいのかはわかっても、あまりに個性的なので、トニーと同じようにバカに見えてきちゃうんですよね。
実際、勘違いというか逆恨みみたいなもので復讐を始めるんですが、個人的にはその復讐のやり方もぬるいし。
とっ捕まってから、今回のかわいそうな三下悪役(本当に気の毒で見ていられなかった…。小者臭漂う人は応援したくなるんだよ)ジャスティン・ハマーが助けてくれなかったら、実際どうするつもりだったんだろうというか。
逆に、塀の内側で瓦解する様をずっと見ている、とか、あくまで黒幕で最終決戦には出てこない、くらいの立ち位置のほうがよかったような気もしました。
ミッキー・ローク自体はさすがの一言ですし、キャラクターとしてはイワン凄くカッコイイのですが、話としてのまとまりがなあ、というか。
デブで体中に刺青をして、色黒で、常に爪楊枝を加えてぼそぼそとしゃべる電子機器にも強い天才の物理学者っていう外見だけ見れば、物凄く好みだったんですけどね。ちょっと扱いが惜しい。
復讐とか動機が不透明なので、トニー自身も、イワンに対してムキになって敵対するとか、そういう感情の起伏が乏しくなっちゃいますしね。
今回は、イワンよりも、ハマーの小者臭が漂いすぎていて、見ていて気分がへこみました。べらべら口ばかりが立って、人望もなくて、性格も悪いし、自社製品はトニーんとこと比べるとへっぽこもいいとこなんだけど、でも間違った方向に一生懸命で、常識の範疇から抜け出せない奴って、応援したくなるんだよどうしても!
ハマーも続編の布石アリアリでしたし、実際EDロール後も、次のネタが入っていたので、確実に3はあると思います。それで完結かな。
今度は、完膚なきまで悪役か、トニーのバカさが嫌になるほどのシリアスな悪役であると個人的には嬉しいです。
あと、女スパイであるナタリーは、戦闘シーンとお色気(?)のためだけにいるので、物語上なんか絡んでくるのも次作以降なんだと思います。てっきりイワンの関係者なのかと勘ぐった私がバカだったよ…。お色気とアクションさえできれば、それによって画面に華が生まれれば、それで十分じゃないか、アイアンマンってそういう映画なんだから…。
早番「そうなんだよ。俺、ちゃんと三時に目覚ましかけて、起きたんだけどさあ」
私「あ。二度寝しちゃったとか」
早番「三時に起きて、「何で俺こんな時間に目覚ましかけたんだ?」って、試合のこと忘れてて、結局見られなかったんだよ」
私「最悪ですね。色々な意味で」
父は決勝トーナメントに行けるわけがない、という派だったのですが、やはり嬉しそうです。
「決勝トーナメントに行ってからは、試合内容がもっと問題になる」といきまいておりますが、先日親父は自分の株を下げたので、私もあまりワールドカップの話題に付き合ってやらなくなりました(苦笑)。
『アイアンマン2』公式サイト
私「テレビで流れるCFを見るたびに、思っていたよりもずっと、敵役のミッキー・ロークがちゃっちくてドキドキが止まらない。早く見たい」
知り合い「あれだけカッコよく、両手ムチを振り回しているわりには、足にぶつかっちゃうからか、おかしなスキップをしているので、ドキドキが止まらない。早く見たい」
見る前から期待満点だった、『アイアンマン2』です。DVDでレンタルして見たときは「ちゃんと劇場版で見ればよかった」と後悔したので、今回はちゃんと劇場へ行きましたよ。
いい機会なので、『ハルク』もちゃんと続編出してくれないかなあ。あれはあれで面白かったのに。
さて、内容としてはつまらなくはないけど、個人的にはスカッとバカだった一作目に比べると、アクションシーンが肩透かしであったり、ミッキー・ローク演じる悪役の立ち位置が不透明で会ったりと、乗り切れない感がありました。
アイアンマンこと、トニー・スタークやそれを取り巻く人物は別に変化ないので、そうなると、やっぱり悪役であるミッキー・ローク演じるイワン・ヴァンコがキモになってくると思うのですが、このイワンがなあ。トニーと気質が結局似てるってとこに難あり、というか。
トニーが何で物語り上で魅力的に見えるかというと、結局は他の人々が常識的で、彼一人がバカってところにあると思うのです。
第一作目でも、非業のドクターとバカなトニー。有能で現実的な秘書とバカなトニー。常識人の軍人とバカなトニー。会社第一の守銭奴な敵役とバカなトニー、っていう、キャラクターの対比がはっきりしていたからこそ、そのバカな行いが楽しかったのですが、イワンって正直何がしたいのかはわかっても、あまりに個性的なので、トニーと同じようにバカに見えてきちゃうんですよね。
実際、勘違いというか逆恨みみたいなもので復讐を始めるんですが、個人的にはその復讐のやり方もぬるいし。
とっ捕まってから、今回のかわいそうな三下悪役(本当に気の毒で見ていられなかった…。小者臭漂う人は応援したくなるんだよ)ジャスティン・ハマーが助けてくれなかったら、実際どうするつもりだったんだろうというか。
逆に、塀の内側で瓦解する様をずっと見ている、とか、あくまで黒幕で最終決戦には出てこない、くらいの立ち位置のほうがよかったような気もしました。
ミッキー・ローク自体はさすがの一言ですし、キャラクターとしてはイワン凄くカッコイイのですが、話としてのまとまりがなあ、というか。
デブで体中に刺青をして、色黒で、常に爪楊枝を加えてぼそぼそとしゃべる電子機器にも強い天才の物理学者っていう外見だけ見れば、物凄く好みだったんですけどね。ちょっと扱いが惜しい。
復讐とか動機が不透明なので、トニー自身も、イワンに対してムキになって敵対するとか、そういう感情の起伏が乏しくなっちゃいますしね。
今回は、イワンよりも、ハマーの小者臭が漂いすぎていて、見ていて気分がへこみました。べらべら口ばかりが立って、人望もなくて、性格も悪いし、自社製品はトニーんとこと比べるとへっぽこもいいとこなんだけど、でも間違った方向に一生懸命で、常識の範疇から抜け出せない奴って、応援したくなるんだよどうしても!
ハマーも続編の布石アリアリでしたし、実際EDロール後も、次のネタが入っていたので、確実に3はあると思います。それで完結かな。
今度は、完膚なきまで悪役か、トニーのバカさが嫌になるほどのシリアスな悪役であると個人的には嬉しいです。
あと、女スパイであるナタリーは、戦闘シーンとお色気(?)のためだけにいるので、物語上なんか絡んでくるのも次作以降なんだと思います。てっきりイワンの関係者なのかと勘ぐった私がバカだったよ…。お色気とアクションさえできれば、それによって画面に華が生まれれば、それで十分じゃないか、アイアンマンってそういう映画なんだから…。
『セックス・アンド・ザ・シティ2』公式
私「男って大変だな………」
知り合い「最初の感想がそれ?」
でもそんな感じでした。
たまたま見に行く前に、テレビで特集が組まれていたから見たんですが、やたらと強調されていた女性ユーザーからの共感なんてものは、これっぽっちもないような気がします。
これ、ファッションすげーとか、こういう男すげー(もしくは、いねえ)とか、そういう憧れとか夢とか妄想とかを楽しむものであって、共感できるものって何一つないような。
大体、ニューヨークで地位も名誉も金(超重要)もぶっちぎってるキャリアウーマン四人組と自分に、一体何処をどう探せば共通点なんてあるというのか。
「そんな人たちでも恋に仕事に悩む」とかいうのがコンセプトらしいんですが、そんなの誰だって当たり前であって、それにしたって悩んでいる色恋沙汰もほぼ絵空事に近いというか、あまりに遠い次元で話しているので、共感という感情からは程遠いです。
特に主人公のキャリーの悩みが、一番遠くて入り込めない。入り込めないどころか、今回この人物凄くいい性格しすぎてて、空気読めないにもほどがあるだろう、とぐったりしたくらいでした。
逆に共感云々から離れると、凄く面白い映画でした。1もそうでしたが、何かしながら流しっぱなしにしていても、振り向いたときの画面すべてに華があるというか、何処を見ても、奇抜なファッションや、言動が楽しめる、部分部分を切り取って楽しめる映画なのではないかと。
OPの始まりも、ワーナーのロゴが、スワロフスキーのクリスタルのように演出され、ニューヨークの町並みが、キラキラと輝く一つのガラスの都のように描かれ、それだけでもゴージャス感が味わえます。
登場人物の描かれ方が、基本的にゴージャスあふれたもの(逆にそれがないとこの映画に見所がなくなる)なので、終始そのテンションを見て、ため息をつく映画と申しましょうか。
一泊二万二千ドルのホテル。一人に一台用意された高級車、従者、何個もある部屋。旅行に行くのは四人なのに、その後を人数よりも多いスーツケースたちが大名行列のように付き従う。旅行先でも毎日違う服に着替え、ドレスだけでも何着もあり、その中にはどうやって運んだんだと思わざるを得ない服すらある。
出会う男たちは全員タフで、常にレディーファーストが身についているか、同性愛者の方ばかり。
しかし、あっちの男は男で大変ですね。
どんだけ女(キャリー)に暴言吐かれても、結局男が折れなきゃいけないというか。いえ、勿論それだけその女に惚れているからなんでしょうけど。
私だったら、仕事から疲れて帰ってきて、ソファーでテレビ見ながらくつろいでいる時に、「いつもキラキラしていたいの」とか言われたら別れますけどね。勿論言ってる女は、自分が同じ立場でも、「えいや」とばかりに外に出ることが気晴らしになれるからいいんでしょうけど。
結婚二周年で気に入らないプレゼント(この発想も凄いが)をもらったとき、「ありがとう」もないまま、「気に入らない。宝石が欲しかったのに」と女が言ってきても、「イマイチだった?」と次のフォローに走らなきゃいけない男って、なんかこう、あっちの世界は世界で大変だなあ、というか。
女もせめて、お礼くらい言ってから自己主張してもいいのでは…。何でも言えるっていうのと、なんでも言っていいっていうのが明らかに違うだろう。
旦那以外とキスしたっていう告白も、そりゃ、お前は言ってすっきりしてそれでいいかもしれないけどさあというか、何かを言う前に相手を慮るっていう感情はこの人にはないんだな、というか。
まあその代わり、ありがちな「わかってくれないならいい」と突っぱねたり、黙るような展開はそこにはないんですが。
嫌われるリスク背負っても、とにかく「私はこれが気に入らなくて、これをしてもらいたかった」とお互いに主張しあうっていうのが、文化なんでしょうけどね。
それにしたって、男がいい人すぎるだろう…。キャリーは女四人でいるときは、そんなに自己主張するほうでもないんですが、男となると中々激しいですね。それが個性なのか。
それでも、男は女(パートナーがいなければならない)っていうのもお国柄なんでしょうか。
今となっては、女は別にパートナーいなくたっていい、っていう主張も多いでしょうが、どうしても男は何が何でもパートナーがいて欲しい(だから我慢もする)っていう図式がこの映画だとはっきりしていて、そこまで「誰か」といなくても…と、遠い目になりました。
他の登場人物は、それなりに幸せで、サマンサもミランダもカッコよかったです。
シャーロットは子育てで色々悩むこともありますが、やっぱり気分転換のレベルも金をかける桁が違う(気分転換、そのためだけにスーパーファーストクラスに乗ってアブダビへGO!)ので、「ベビーシッターを雇わない人もいるのに、そんな人たちはどうしてるの?」「自分だけで頑張ってるんだよ」とクールな目で眺めてしまいました。
結局、自分の水準(MAX高値)の中で子育ても完璧に維持しようとすると、色々しんどいものもあるんでしょうねえ。別にしんどくて泣いたって、離れてみたって、時にはかんしゃく起こしたって、全く構わないわけですし。
知り合い「大体、どれだけ一流であっても、コラムニストがあんなに稼げるわけないよ」
私「でも、『プラダを着た悪魔」でも、編集長さん凄くいい暮らししてたよ」
知り合い「あれは会社員だから。他の人たちは、稼げる要素があるけど、あの主人公の人が一番非現実的だった。(知り合いはこのシリーズを一つも見たことがない)大体、それだけ有名で本も何度も出したことがある人が、一つの書評であんなにうろたえるわけがない」
編集を生業にしている知り合いは、そこが一番気になったようでした。
でもほら、それを含めても幻想の世界なわけで。
話の筋や、感情の起伏そのものは共感とは遠い感覚でしたが、衣装や音楽、画面の演出は見ていてどれも非常に楽しかったです。
序盤、ライザ・ミネリが歌って踊った姿は、世界一カッコイイおばさんでした。眼福。
私「男って大変だな………」
知り合い「最初の感想がそれ?」
でもそんな感じでした。
たまたま見に行く前に、テレビで特集が組まれていたから見たんですが、やたらと強調されていた女性ユーザーからの共感なんてものは、これっぽっちもないような気がします。
これ、ファッションすげーとか、こういう男すげー(もしくは、いねえ)とか、そういう憧れとか夢とか妄想とかを楽しむものであって、共感できるものって何一つないような。
大体、ニューヨークで地位も名誉も金(超重要)もぶっちぎってるキャリアウーマン四人組と自分に、一体何処をどう探せば共通点なんてあるというのか。
「そんな人たちでも恋に仕事に悩む」とかいうのがコンセプトらしいんですが、そんなの誰だって当たり前であって、それにしたって悩んでいる色恋沙汰もほぼ絵空事に近いというか、あまりに遠い次元で話しているので、共感という感情からは程遠いです。
特に主人公のキャリーの悩みが、一番遠くて入り込めない。入り込めないどころか、今回この人物凄くいい性格しすぎてて、空気読めないにもほどがあるだろう、とぐったりしたくらいでした。
逆に共感云々から離れると、凄く面白い映画でした。1もそうでしたが、何かしながら流しっぱなしにしていても、振り向いたときの画面すべてに華があるというか、何処を見ても、奇抜なファッションや、言動が楽しめる、部分部分を切り取って楽しめる映画なのではないかと。
OPの始まりも、ワーナーのロゴが、スワロフスキーのクリスタルのように演出され、ニューヨークの町並みが、キラキラと輝く一つのガラスの都のように描かれ、それだけでもゴージャス感が味わえます。
登場人物の描かれ方が、基本的にゴージャスあふれたもの(逆にそれがないとこの映画に見所がなくなる)なので、終始そのテンションを見て、ため息をつく映画と申しましょうか。
一泊二万二千ドルのホテル。一人に一台用意された高級車、従者、何個もある部屋。旅行に行くのは四人なのに、その後を人数よりも多いスーツケースたちが大名行列のように付き従う。旅行先でも毎日違う服に着替え、ドレスだけでも何着もあり、その中にはどうやって運んだんだと思わざるを得ない服すらある。
出会う男たちは全員タフで、常にレディーファーストが身についているか、同性愛者の方ばかり。
しかし、あっちの男は男で大変ですね。
どんだけ女(キャリー)に暴言吐かれても、結局男が折れなきゃいけないというか。いえ、勿論それだけその女に惚れているからなんでしょうけど。
私だったら、仕事から疲れて帰ってきて、ソファーでテレビ見ながらくつろいでいる時に、「いつもキラキラしていたいの」とか言われたら別れますけどね。勿論言ってる女は、自分が同じ立場でも、「えいや」とばかりに外に出ることが気晴らしになれるからいいんでしょうけど。
結婚二周年で気に入らないプレゼント(この発想も凄いが)をもらったとき、「ありがとう」もないまま、「気に入らない。宝石が欲しかったのに」と女が言ってきても、「イマイチだった?」と次のフォローに走らなきゃいけない男って、なんかこう、あっちの世界は世界で大変だなあ、というか。
女もせめて、お礼くらい言ってから自己主張してもいいのでは…。何でも言えるっていうのと、なんでも言っていいっていうのが明らかに違うだろう。
旦那以外とキスしたっていう告白も、そりゃ、お前は言ってすっきりしてそれでいいかもしれないけどさあというか、何かを言う前に相手を慮るっていう感情はこの人にはないんだな、というか。
まあその代わり、ありがちな「わかってくれないならいい」と突っぱねたり、黙るような展開はそこにはないんですが。
嫌われるリスク背負っても、とにかく「私はこれが気に入らなくて、これをしてもらいたかった」とお互いに主張しあうっていうのが、文化なんでしょうけどね。
それにしたって、男がいい人すぎるだろう…。キャリーは女四人でいるときは、そんなに自己主張するほうでもないんですが、男となると中々激しいですね。それが個性なのか。
それでも、男は女(パートナーがいなければならない)っていうのもお国柄なんでしょうか。
今となっては、女は別にパートナーいなくたっていい、っていう主張も多いでしょうが、どうしても男は何が何でもパートナーがいて欲しい(だから我慢もする)っていう図式がこの映画だとはっきりしていて、そこまで「誰か」といなくても…と、遠い目になりました。
他の登場人物は、それなりに幸せで、サマンサもミランダもカッコよかったです。
シャーロットは子育てで色々悩むこともありますが、やっぱり気分転換のレベルも金をかける桁が違う(気分転換、そのためだけにスーパーファーストクラスに乗ってアブダビへGO!)ので、「ベビーシッターを雇わない人もいるのに、そんな人たちはどうしてるの?」「自分だけで頑張ってるんだよ」とクールな目で眺めてしまいました。
結局、自分の水準(MAX高値)の中で子育ても完璧に維持しようとすると、色々しんどいものもあるんでしょうねえ。別にしんどくて泣いたって、離れてみたって、時にはかんしゃく起こしたって、全く構わないわけですし。
知り合い「大体、どれだけ一流であっても、コラムニストがあんなに稼げるわけないよ」
私「でも、『プラダを着た悪魔」でも、編集長さん凄くいい暮らししてたよ」
知り合い「あれは会社員だから。他の人たちは、稼げる要素があるけど、あの主人公の人が一番非現実的だった。(知り合いはこのシリーズを一つも見たことがない)大体、それだけ有名で本も何度も出したことがある人が、一つの書評であんなにうろたえるわけがない」
編集を生業にしている知り合いは、そこが一番気になったようでした。
でもほら、それを含めても幻想の世界なわけで。
話の筋や、感情の起伏そのものは共感とは遠い感覚でしたが、衣装や音楽、画面の演出は見ていてどれも非常に楽しかったです。
序盤、ライザ・ミネリが歌って踊った姿は、世界一カッコイイおばさんでした。眼福。
一応地味に映画は見てます。
ツタヤレンタルが、たまたま『ヘタリア』(私はウクライナ姉さんのカラーリングが凄く好きだ)(最近島国同盟もにやにやできる)(単品で好きなのは、日本、ロシア、イギリス、地中海だ(それ単品違う)だったり、
「これを映画館で金払って見ていたら配給会社燃やしてたな」というレベルの『ラッシュライフ』(映画として成り立っていない映画を公開する会社の度胸だけは買ってもいいのかもしれない。私は買わないが)だったり、
面白くないわけじゃないけどこのはしょり感はなんなのだろうという『ムダヅモ』(ネット配信のアニメレベルってこんなもんなのだろうか。与えられた時間の短さなら『サンレッド』だってそうだけど、あれは面白かったしなあ)だったりして、感想を書いていないのですが、
『劇場版TRICK』は見に行きました。
それほど期待していなかったのですが、まあまあ楽しめました。既存のファンであれば笑いもシリアスも、後味の悪さも及第点なのではないかと。
不覚にも、松平さんと野際さんの最後の絡みのシーンは泣けた。
個人的には今までの劇場版より楽しめましたが、劇場版はドラマよりも奇術の種明かし的な要素が強いので、やはりドラマのほうが性には合いそうです。
で、『TRICK』のスペシャル2は、泣いた。
こういう母子ものオチは珍しくもなんともないし、終わりも完全に予想範囲内だったんですが、浅野ゆう子さんの演技も相まってもうボロ泣き。しかも、後味の悪さも炸裂という、久しぶりに救われなくて面白かった作品でした。
トリックの醍醐味ってこういう話だと思っているので。
『ガッジョ・ディーロ』
地味に続けて見ているジプシーもの。
個人的には、それほどひきつけられるものはなかったです。
音楽シーンよりも、ジプシーの暮らしや差別、資質が描かれるので、決して明るい話ではありませんし。
こう、音楽を通して文化を表すという演出より、音楽は音楽、文化は文化でそれぞれ楽しめたほうが好みというか。
汚れた服に、壊れそうな楽器を抱え、音楽をかきならすシーン(殆どそう)などは、音楽ではなく「貧困」や「格差」に思いを寄せてしまうというか。これは見る側の問題のような気がしますが。
期待していたよりも、音楽シーンが実際少なかったということもあり、やはり玄人向けの映画だなあとは思いました。
『ジェネラル・ルージュの凱旋』
第一作目があまりに退屈で途中で早送りしたという過去がありますが、二作目であるこちらは面白かったです。
やっぱり、人が死ぬというあからさまに事件性があるのと、犯人が愉快犯ではないという(まあ実行犯は精神的にキてる感じでしたが)現実的な部分が良かったのかもしれません。
逆に、救命センターの人物悲喜こもごもあたりは、どうでもいいかなーとは思いましたが。
しかし、高嶋政伸さんは、この手の腹の底が見えない薄気味の悪い役がぴったりですねえ。知名度を確立したドラマのホテルは見たことがないので、私の中で高嶋政伸さんといえば、こういう悪い人の役というイメージがあります。
トリックでも、胡散臭い詐欺師の役とかぴったりだったもんなあ。
決して真性の悪役ではなく、凄みがあるわけでもない。
人間くさい三流の悪役臭を漂わせることのできる、好きな役者さんです。
ツタヤレンタルが、たまたま『ヘタリア』(私はウクライナ姉さんのカラーリングが凄く好きだ)(最近島国同盟もにやにやできる)(単品で好きなのは、日本、ロシア、イギリス、地中海だ(それ単品違う)だったり、
「これを映画館で金払って見ていたら配給会社燃やしてたな」というレベルの『ラッシュライフ』(映画として成り立っていない映画を公開する会社の度胸だけは買ってもいいのかもしれない。私は買わないが)だったり、
面白くないわけじゃないけどこのはしょり感はなんなのだろうという『ムダヅモ』(ネット配信のアニメレベルってこんなもんなのだろうか。与えられた時間の短さなら『サンレッド』だってそうだけど、あれは面白かったしなあ)だったりして、感想を書いていないのですが、
『劇場版TRICK』は見に行きました。
それほど期待していなかったのですが、まあまあ楽しめました。既存のファンであれば笑いもシリアスも、後味の悪さも及第点なのではないかと。
不覚にも、松平さんと野際さんの最後の絡みのシーンは泣けた。
個人的には今までの劇場版より楽しめましたが、劇場版はドラマよりも奇術の種明かし的な要素が強いので、やはりドラマのほうが性には合いそうです。
で、『TRICK』のスペシャル2は、泣いた。
こういう母子ものオチは珍しくもなんともないし、終わりも完全に予想範囲内だったんですが、浅野ゆう子さんの演技も相まってもうボロ泣き。しかも、後味の悪さも炸裂という、久しぶりに救われなくて面白かった作品でした。
トリックの醍醐味ってこういう話だと思っているので。
『ガッジョ・ディーロ』
地味に続けて見ているジプシーもの。
個人的には、それほどひきつけられるものはなかったです。
音楽シーンよりも、ジプシーの暮らしや差別、資質が描かれるので、決して明るい話ではありませんし。
こう、音楽を通して文化を表すという演出より、音楽は音楽、文化は文化でそれぞれ楽しめたほうが好みというか。
汚れた服に、壊れそうな楽器を抱え、音楽をかきならすシーン(殆どそう)などは、音楽ではなく「貧困」や「格差」に思いを寄せてしまうというか。これは見る側の問題のような気がしますが。
期待していたよりも、音楽シーンが実際少なかったということもあり、やはり玄人向けの映画だなあとは思いました。
『ジェネラル・ルージュの凱旋』
第一作目があまりに退屈で途中で早送りしたという過去がありますが、二作目であるこちらは面白かったです。
やっぱり、人が死ぬというあからさまに事件性があるのと、犯人が愉快犯ではないという(まあ実行犯は精神的にキてる感じでしたが)現実的な部分が良かったのかもしれません。
逆に、救命センターの人物悲喜こもごもあたりは、どうでもいいかなーとは思いましたが。
しかし、高嶋政伸さんは、この手の腹の底が見えない薄気味の悪い役がぴったりですねえ。知名度を確立したドラマのホテルは見たことがないので、私の中で高嶋政伸さんといえば、こういう悪い人の役というイメージがあります。
トリックでも、胡散臭い詐欺師の役とかぴったりだったもんなあ。
決して真性の悪役ではなく、凄みがあるわけでもない。
人間くさい三流の悪役臭を漂わせることのできる、好きな役者さんです。