母から手紙がきました。
徒歩圏内に住んでいるくせに、私が一方的に連絡を絶っているので、何某かがあると、大体手紙を送ってきます。いとこの結婚だったり、身内の病だったり。
今回の内容としては、父親の体の痛みについてでした。
もろもろあって、もう十五年くらい、身体の痛みと付き合っているのですが、今回、近場で体の痛みに詳しいお医者さんが来たから、そっちで診療してみたんだけど、というような内容でした。
まあ、それはそれで、実際腕のあるプロフェッショナルな医者だったらしく、はっきりと病名を言い当てたり、結局、父親は、強直性脊椎炎と診断されたようです。
もう終末期に入っているそうなので、痛みそのものは次第に軽減されてくる、というはっきりとした診断が出たのはいいのですが、問題は、それではない、「もしかしたら手術の必要があるかもしれない」という、こう言っちゃなんですが、先生にとって実績になるやりがいのある症例の病気が、そのまま経過観察でいいのでは、ということになったらしいのです。痛みも痺れもないんだから、そのままでいいだろう、という判断をされたんですね。
それはそれでいいのですが、問題は、先生がその途端父親に興味を失ってしまったということのようです。
もう、先生にとって自分のスキルアップにつながる、得する患者じゃない、と父は判断されたわけですね。
さすがに父も怒って、「先生はそれで良いかもしれないが、こっちは十五年も痛みと付き合ってきたんだ」と主張したらしいのですが。
この内容を見るにつれ、やはり、ブラックジャックはこの世に存在しないし、いたらそれは名医ではないと思いました。
金とか、技術の問題ではない部分で。
大人になって、それこそ医療現場で働いている身としては、医者が実際関わる部分なんて、ほんのわずかであることがわかっています。
確かに、末期と診断された患者さんが、奇跡的な手術で治るというのは感動できることですし、わらにもすがる思いで生きている人にとって、医者の驚異的な能力は、必要なものでしょう。感謝するのも、されるのもわかります。涙を流して喜ぶ人がいたって、当然でしょう。
ただ、病気っていうのはそれで終わりには絶対ならないわけで。
そりゃ、ブラックジャックはいいですよ。己の能力を発揮できる場所でしか働いてないわけですから。
外科手術を行って、それが成功して自分の仕事は終わるわけですから、それだけだったら、どんだけ楽なのかと。
ただ、絶対規模が大きければ大きいほど、術後っていうのは長くかかるものであって、その気が遠くなるほどの長い時間、病巣は取り除かれたかもしれない、けれど、具合は良くないという時間、延々患者と付き合うのは、執刀医ではなく、現場にいる看護師であったり、下っ端の医者であったり、家族であったり、また当人であったりするわけです。
そうなると、己の領域にだけ手を出していればそれでいい、それが医者の仕事だとばかりに、父に興味を失ったその医者は、どれだけ優れた観察眼を持っていても、技術があったとしても、優れた医者であるとは言えないと私は思います。
特に、痛みに関しては非常にデリケートな部分です。
ペインクリニックという領域が発展してきたのも、ずいぶん最近の話ですが、痛みっていうのは絶対に他人にはわかりません。
どれだけ親身になったって、絶対にわからないのです。
だからこそ、その前後、たとえ病巣がなかったとしても「この病気はもう治っているけど、痛みを感じたらまた、遠慮しないですぐに受診するように」と声をかけるだけでも、患者の気持ちは楽になります。
この痛みは、絶対他人にはわからない。それはわかっている。だけど、痛いことは辛いのだという、辛い気持ちをわかってくれる人にかけられた言葉は、患者の気持ちを癒します。
気は心、というのは本当です。
よく笑い話で、近所の医者に毎日通って、先生に「大丈夫、今日も健康」と言われるとその日一日元気で過ごせる、というのは事実です。免疫機能は向上しますし、何より、医者にかけられた言葉というのは、絶大な効果を持ちます。
「先生が大丈夫なら、大丈夫」
こう思わせる実力のある先生は、自分が手術をして終わり、というだけではないでしょう。
終わった後も、しっかりとケアできる人が言うからこそ、その言葉に価値が生まれるのです。
その信頼関係を築けない医者っていうのは、医者として価値がないと思います。
別に、野戦病院でどうのとか、そういう現実と照らし合わせて、生っちょろいことを言いたいわけではありません。そんなの、病院で働いているこっちが百も承知です。
まあ、正直私は医者に対しては良いご身分だよなくらいにしか思っていません。大病を患っていないということもあるのでしょうが、ちょこちょこっと顔を出して、それで人の三倍も四倍も金をもらっているのかと、しょっちゅう思います。
現実に、患者の体を拭いて、排泄物をきれいにして、食事をさせて、体の向きを変えて、殴られたりけられたり暴言を吐かれたりされているのは、現場の人間であって、医者はそういう負の感情に付き合わなくて良いだけ、楽だろうなあと思ってしまうような医師しか、周りにいないっていう環境そのものが問題だよ、と思わないでもないんですが。
それでも、医師の言葉が絶対だという見方が強い世の中ですが、これもどんどん変わっていくんじゃないかなあと。
今は、医者を選ぶ時代ですしね。
別に社交辞令が上手いとか、お世辞が上手とかそんなことが問題なのでなく、病名を診断した、それに対して処置をした、だから終わりという認識ではなく、その後、相手が自分とは違う人間である、ということもちゃんと認識してもらいたいなと思いました。
徒歩圏内に住んでいるくせに、私が一方的に連絡を絶っているので、何某かがあると、大体手紙を送ってきます。いとこの結婚だったり、身内の病だったり。
今回の内容としては、父親の体の痛みについてでした。
もろもろあって、もう十五年くらい、身体の痛みと付き合っているのですが、今回、近場で体の痛みに詳しいお医者さんが来たから、そっちで診療してみたんだけど、というような内容でした。
まあ、それはそれで、実際腕のあるプロフェッショナルな医者だったらしく、はっきりと病名を言い当てたり、結局、父親は、強直性脊椎炎と診断されたようです。
もう終末期に入っているそうなので、痛みそのものは次第に軽減されてくる、というはっきりとした診断が出たのはいいのですが、問題は、それではない、「もしかしたら手術の必要があるかもしれない」という、こう言っちゃなんですが、先生にとって実績になるやりがいのある症例の病気が、そのまま経過観察でいいのでは、ということになったらしいのです。痛みも痺れもないんだから、そのままでいいだろう、という判断をされたんですね。
それはそれでいいのですが、問題は、先生がその途端父親に興味を失ってしまったということのようです。
もう、先生にとって自分のスキルアップにつながる、得する患者じゃない、と父は判断されたわけですね。
さすがに父も怒って、「先生はそれで良いかもしれないが、こっちは十五年も痛みと付き合ってきたんだ」と主張したらしいのですが。
この内容を見るにつれ、やはり、ブラックジャックはこの世に存在しないし、いたらそれは名医ではないと思いました。
金とか、技術の問題ではない部分で。
大人になって、それこそ医療現場で働いている身としては、医者が実際関わる部分なんて、ほんのわずかであることがわかっています。
確かに、末期と診断された患者さんが、奇跡的な手術で治るというのは感動できることですし、わらにもすがる思いで生きている人にとって、医者の驚異的な能力は、必要なものでしょう。感謝するのも、されるのもわかります。涙を流して喜ぶ人がいたって、当然でしょう。
ただ、病気っていうのはそれで終わりには絶対ならないわけで。
そりゃ、ブラックジャックはいいですよ。己の能力を発揮できる場所でしか働いてないわけですから。
外科手術を行って、それが成功して自分の仕事は終わるわけですから、それだけだったら、どんだけ楽なのかと。
ただ、絶対規模が大きければ大きいほど、術後っていうのは長くかかるものであって、その気が遠くなるほどの長い時間、病巣は取り除かれたかもしれない、けれど、具合は良くないという時間、延々患者と付き合うのは、執刀医ではなく、現場にいる看護師であったり、下っ端の医者であったり、家族であったり、また当人であったりするわけです。
そうなると、己の領域にだけ手を出していればそれでいい、それが医者の仕事だとばかりに、父に興味を失ったその医者は、どれだけ優れた観察眼を持っていても、技術があったとしても、優れた医者であるとは言えないと私は思います。
特に、痛みに関しては非常にデリケートな部分です。
ペインクリニックという領域が発展してきたのも、ずいぶん最近の話ですが、痛みっていうのは絶対に他人にはわかりません。
どれだけ親身になったって、絶対にわからないのです。
だからこそ、その前後、たとえ病巣がなかったとしても「この病気はもう治っているけど、痛みを感じたらまた、遠慮しないですぐに受診するように」と声をかけるだけでも、患者の気持ちは楽になります。
この痛みは、絶対他人にはわからない。それはわかっている。だけど、痛いことは辛いのだという、辛い気持ちをわかってくれる人にかけられた言葉は、患者の気持ちを癒します。
気は心、というのは本当です。
よく笑い話で、近所の医者に毎日通って、先生に「大丈夫、今日も健康」と言われるとその日一日元気で過ごせる、というのは事実です。免疫機能は向上しますし、何より、医者にかけられた言葉というのは、絶大な効果を持ちます。
「先生が大丈夫なら、大丈夫」
こう思わせる実力のある先生は、自分が手術をして終わり、というだけではないでしょう。
終わった後も、しっかりとケアできる人が言うからこそ、その言葉に価値が生まれるのです。
その信頼関係を築けない医者っていうのは、医者として価値がないと思います。
別に、野戦病院でどうのとか、そういう現実と照らし合わせて、生っちょろいことを言いたいわけではありません。そんなの、病院で働いているこっちが百も承知です。
まあ、正直私は医者に対しては良いご身分だよなくらいにしか思っていません。大病を患っていないということもあるのでしょうが、ちょこちょこっと顔を出して、それで人の三倍も四倍も金をもらっているのかと、しょっちゅう思います。
現実に、患者の体を拭いて、排泄物をきれいにして、食事をさせて、体の向きを変えて、殴られたりけられたり暴言を吐かれたりされているのは、現場の人間であって、医者はそういう負の感情に付き合わなくて良いだけ、楽だろうなあと思ってしまうような医師しか、周りにいないっていう環境そのものが問題だよ、と思わないでもないんですが。
それでも、医師の言葉が絶対だという見方が強い世の中ですが、これもどんどん変わっていくんじゃないかなあと。
今は、医者を選ぶ時代ですしね。
別に社交辞令が上手いとか、お世辞が上手とかそんなことが問題なのでなく、病名を診断した、それに対して処置をした、だから終わりという認識ではなく、その後、相手が自分とは違う人間である、ということもちゃんと認識してもらいたいなと思いました。
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