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日々のつれづれ。ネタバレに過剰な配慮はしておりません。
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皆様は羅針盤と聞いて、どんなイメージをお持ちでしょうか。
私個人としては、大海原を渡るために唯一必要不可欠な道しるべ。目的地に向かって指し示すもの、みたいな、荘厳で雄大なイメージがあるのですが、この映画にそんなもんどこにもねえ。

というわけで「ライラの冒険 黄金の羅針盤」を見てきました。しかし見づらい公式サイトだ………。
こうして漢字で羅針盤と書くとカッコイイですが、英語表記だと「THE GOLDEN COMPASS」ですよ。ゴールデンコンパスって結構笑えます。

羅針盤って、見た目ただのコンパクトなので、ライラがことあるごとに開いても、それはテクマクマヤコンにしか見えません。
大体羅針盤の使い方が笑える。
三つの針を文字盤の絵に合わせると、青い針が動いて、答えを導いてくれるという触れ込みなのですが、その導き方が、唐突にライラの脳内に浮かび上がるイメージ映像なので、傍で見ている人間は、ライラの妄想に付き合ってるのと一緒です。
そんなん信じられるか!
逆に目の当たりにしても、なんだろう具体的な結果と、具体的な現象が一致しない時点で、その羅針盤に凄みを感じないんですよね。
結構どうでもいい話題にも羅針盤は使えそうなので(それこそ明日のおかずを教えてとか)その使えそう、という時点で神秘性はかけらもないのがちょっと残念でした。
我々の想像する羅針盤ではないなあ、あれは。

元々ダニエル・クレイグ目当てで見に行ったのですが、ろくに出てきません。
本当に出てこないのでびっくりです。まあ続編では活躍するのだろう、というくらいは想像できますが、これから先完成するかどうかわからない作品を想像して楽しめと言われましても。

CGの使い方が結構あからさまにCGなので、背景と合致させようとか、そういう気はあまりないようです。
「あ、変わった」とか「あ、CG」とか画面の切り替えがわりと唐突で、一瞬興が冷める瞬間もあります。まあファンタジー作品でCGについて語りだすときりがありませんし、詳しくもないので、「デイモン」と呼ばれる自分の魂が動物の形をしたものの動きを楽しめればそれでいいんではないかと。

話の内容云々よりも、「うわあ、白熊萌え。白熊のくせに王子で決闘に敗れて今は落ちぶれているってどれだけ受け」とかそういうキャラクター造形や、外見(非常に重要)を素直に楽しめばいいのではないかと。
大体、女には男の動物、男には女の動物がつくっていう時点で、エロい以外の何者でもない。

役者陣では、ニコール・キッドマンの一人勝ちでした。エンドクレジットでも一番上ですし、二番目がダニエル・クレイグで、ライラなんてその次だ。
ニコール・キッドマンは振り返ったときの首のシワを見ると、「ああ年とったなあ」としみじみすることもありますが、はやり迫力のある美人で見ごたえがあります。髪形はサザエさんみたいでしたが。

とにかく白熊が可愛いのと、途中から出てくる魔女の衣装や演出が、非常に幻想的で良かったのが印象的でした。
唐突に「魔女」という種族が説明もなしに現れて、「戦いだ」と宙を縦横無尽に舞いながら、薄絹のびらびらのドレスを身にまとった妙齢の女性が、肉弾戦を繰り広げる様はやはり迫力があります。

知り合いが見に行った「ノーカントリー」「バンテージ・ポイント」が予想外に面白かったそうなので、これも公開終了までに見に行く予定です。
「バンテージ・ポイント」なんて、B級の匂いがぷんぷんしてたんですが、そうか、面白いのか。意外だ(失礼な)。
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一つの作品にしっかりとケリがついたところで(私は基本的に物事は早く終わりにしたい性質です)、タガが外れて、今更再燃した「リリーのアトリエプラス」を鬼のようにプレイしていました。
せっかく、股をかけるだけかけてやろうと思ったのに、どこかでフラグ立てに失敗したのか、ファーストプレイのように、調合とレベル上げと採取にかまけてイベントを取り逃したのか、結局最後、狙ってないウルリッヒが落とせてしまう始末で、あまりの悔しさに、工房を虹妖精で埋め尽くしたりして遊んでました。あの乱反射は目に眩しい。
攻略本だと一番真っ当なEDは、すべての錬金術のレベルも、評価も最高値まで上げることで、それが一番難しいとか言われてるんですが、そんなんほっといても上がる。
これが最優先である以上、他の条件を満たしていない、ある意味どこかは生きていく上で手を抜きましたよEDは、わざとレベルを上げないように気をつけなきゃいけないので、かえって面倒です。

いやあ、本当はPSの「みどりのマキバオー」をプレイしようと思っていたんですが、まだ文庫本も一回くらいしか読み返していないので、なんとなく恐れ多くて手を出せません(その気持ちよくわかりません)。
いや、マキバオーは好きなだけに、文庫を何度もしっかりと読み返したいわけで………! あの馬たちの魅力が何処だかちゃんと再確認しておきたいわけで………!
少なくとも自分が擬人化絵でも描くとき、一番最初はトゥーカッターにしようと心に誓いました(何 故 だ)。

「ワンダと巨像」も随分長いこと積んであるんですが、アクションゲームがどうにも苦手で、中々開封まで思い切りがつきません。
これで躓いていたら、プレイする予定の「大神」なんてどうなっちゃうのだ、と自分で自分を励まそうと思います。

先日書きました「奈落の城」ですが、二つのルートをクリアした結果、自分なりに、犯人とか謎だった部分のオチが、予想が出来てしまったので、ますます購入から遠ざかりそうな気がします。
いや、正解しているかどうかはわかりませんが、多分はずれでもない。
でもそれを言うなら、「雨格子の館」も犯人や動機そのものはわりとすぐにわかったわけであって。
だからといって、「雨格子の館」がつまらなかったということもないので、このへん、ゲームの色として判断するのは中々難しいですね。
純粋にあれかな、他の国のキャラクターに興味がないってそれだけかな。



「シャレード」
ケーリー・グラントがかっこいいです。
ハンフリー・ボガードのようにクセのあるタフな顔ではなく、どちらかといえば、言い方が妙ですが、日本の頑固親父のような威厳が似合う俳優さんです。髪の毛の薄さ加減とか、灰色加減(決して銀髪ではないところがツボ)とかが。
雰囲気が伯父に似ていると思ってしまったのは秘密だ。
顎が太くて、顔が正方形で、相手役のオードリー・ヘップバーンが華奢(というかヘップバーンが人妻っていうのが既になんだかありえないんだけど)なだけに、物事に動じない役が非常に合っています。
内容としてはサスペンスになるのかもしれませんが、「殺した犯人は誰だ」という見方をするよりは、「謎めいたあの男の正体は」という見方をする作品です。
問題は、次々に死ぬ人間を誰が殺したか、というより、自分の身近にいるあの男の正体は一体(殺人犯にしろ、そうでないにしろ)というところに肝が置かれているので、それを想像しながら、ヘップバーンと一緒に骨抜きになりましょう。

作中でも言われているんですが、「年が違いすぎる」「君の父親のような年齢」と明らかな年の差カップルは、見ていて楽しいです。
それまで恵まれぬ結婚生活を送っていたヘップバーンは、殺された夫との関係が保たれている初期の頃は、本当にくすんだ感じなんですが、いざグラントと出会うと、別人のようにファニーガールになるのが、これが恋の魔力かと納得。
グラントはヘップバーンが好きというより、「やれやれ仕方がないな」というくらいの感情でお世話をしており、それが結果として、「やっぱり仕方がないか」というように愛情に横滑りした感じで、立場的にはやはり父性。
その父性がだよ、最後自分のオフィスでヘップバーンを膝に乗せてキスしてるんだからもう、たまんねえな!
私は父性的な要素が強くても、それはそれでカップルとして成立すると思うので、突如友愛から愛情に横滑りしてしまう作品より、最初から最後まで互いの恋のスタンス絶対に違うけど、でもいいじゃん、という二人の方が見ていて楽しいです。

ヘップバーンは相変わらず衣装に非常に恵まれています。真っ赤なコートとかあんなに可愛く着こなせるの彼女くらいだ。
純粋なサスペンスやミステリーではありませんし、残酷描写が激しいわけでもないので、女性向な映画としてお勧めです。


「キャバレー」
元々はミュージカルだった作品を映画化。
主演はライザ・ミネリです。
この映画、凄く面白かったです。
説明が非常に難しいんですが、とにかく引き込む力が物凄かった。
ツタヤで、ミュージカルを適当にピックアップして借りた一本だったんですが、大当たりだった。

話の内容としては、実は誰が死ぬわけでもないし、何が起こるわけでもないそれでも人生は続く系の映画なのですが、この映画は、それでこそいいと思えてしまう力があります。

題名が「キャバレー」で、主人公のライザ・ミネリ扮するサリーは女優を夢見るキャバレーの踊り子兼歌うたい。
彼女の生き様を描く途中途中に、キャバレーでのショーが挿入されるという形になっているのですが、このショーが、とんでもなく下種で下世話で、圧倒的にパワーがあるので、目が釘付けになります。
サリーが出ていないショーもたくさんあるのですが、そのどれもが、なんていうか、泥臭くてきれいじゃない。メイクもそうですし、衣装も美しくない。
例えば映画「シカゴ」でも、ショーのシーンはたくさんでてくるのですが、そこにある、きれいさは欠片もありません。
強いて言えば迫力。
その一言に尽きると思います。
きれいなダンスを見て、身体機能に驚いたり、美しい歌声にうっとりしたり、というショーではないのです。
映画「キャバレー」における「ショー」は、あくまで、キャバレーで行われている舞台であって、それ以上でもそれ以下でもない。
サリーは現実でも舞台の上でも、はすっぱなで身勝手で、真っ黒で前髪を切りそろえたショートカット。真っ青なマスカラをこれでもかと塗り、唇は真っ赤。普段の衣装も柄物で言葉遣いも下品。
そんなサリーが踊る舞台は、彼女の個性を示す場であって、彼女がいかに芸術的であるかを見る場ではない。
彼女はあくまで女優になりたくて、その上で、チャンスと金を掴むために、キャバレーの舞台に登る。
その覚悟。
そして、客を楽しませるためにすら存在しない、仕事としての名もない踊り子や、バンドマンたちが作り上げる舞台は、ただ圧倒的な迫力の一言につきます。

照明の具合や、色合いが、油絵のように、重厚で、いや、もっとくすんでにごった画面のイメージが強いのですが、それはあくまでキャバレーのシーンと、サリーの部屋だけ。
一歩外に出ると、相手役のブライアンや、郊外のシーンではきれいな緑色が広がります。

朴訥な青年であるブライアン。彼と隣同士になったサリー。
「友情に肉体関係は邪魔よね」
と言いつつも、父親に愛されていないと泣くサリーを慰めるために、なし崩しに関係を持ってしまう。
恋人同士になっても、別の男が現れれば、その金や人柄に彼女は賛美を惜しまない。
それを許容しつつも、困惑し、そして関係を続けるブライアン。
こう書くと、ブライアンはただの朴念仁のようですが、そうではなく、むしろ普通の人間の感性に近く、それでいて、サリーを愛することが出来ている上でぶっ飛んでいる人間ともいえます。
恋だの愛だの、という台詞は実はこの二人からはあまり語られず、脇を固める人間たちのほうが、純粋に自分の立場や感情に悩まされ、恋愛映画らしい恋愛をしています。

サリーとブライアンは二人で共に過ごし、笑い、怒って泣いて、子供ができたと告白したときも、
「子供ができちゃったのよ、くそ!」
と悪態をつき、そして、
「聞かないの?」
「それなら聞くけど、誰の子?」
「多分貴方だと思うけど、断言は出来ないわ」
と、愛し合っている二人とは思えない会話を交わします。
この二人の関係の「らしさ」が絶妙で、サリーは全く嫌な女には見えないし、ブライアンもただの凡人には見えないのです。

結果、ブライアンはサリーに結婚を申し込み、サリーもそれを受けるのですが、最終的にサリーは中絶してしまいます。
「何故」
「ほんの気まぐれよ」
「理由を話してくれ」
「このままケンブリッジに帰ったら、喧嘩ばかりして仲が悪くなるのは目に見えてる。私はパブに入り浸って。私はわがままで浅はかな女だけど、どうしても女優になる夢を捨てられないの」
「………………」
「ブライアン、私貴方を愛してるわ」
「それはわかってるよ」

言葉だけ並べると、サリーの自己中心的考えばかりが目立つのですが、むしろ感情移入するのは、圧倒的にサリーのほう。
彼女が、そうしたい、そう生きたいというのは画面から嫌と言うほど伝わってきて、それを妨害するのは誰にもできない。

この物語は、ナチスドイツが台頭してくる時代の話なので、ところどころに差別表現や、戦争が向かっていくどうしようもない泥沼が垣間見えて、決して後味が言い訳でもなく、明るい話でもないのですが、それでもその中で輝くサリーの魅力と、キャバレーのどうしようもないただの舞台が非常に魅力的な作品でした。

ミュージカルと言うジャンルとは到底思えませんので、ライザ・ミネリの魅力を堪能されたい方は是非一度ご覧ください。
どうにもツタヤディスカスで、画面が止まるDVDを掴まされることが多く、「なんだよ」と思いながら、半年振りくらいにPS2を起動させて、そちらで再生してみたところ、しっかり映りやがんの。
犯人はお前かDVDレコーダー!
と、PS2で見終わり念のため、レコーダーで再生してみたところ、ちゃんと映りやがんの。
なんなんだよ!
地デジ対応のテレビと共に、新しいレコーダーも買えってか!
レコーダー内臓のテレビ選べってか!
ちなみに私は、家電製品電子話題に全く詳しくないので、テレビもどうしていいんだかよくわからないまま今に至ります。
チューナー買えば今使ってるテレビでもいいんだっけ、え、住まいが対応してないとどうにもならないんだっけ、ええ?
来年、再来年後が楽しみです。



『王様と私』
ジョディ・フォスターが凄く好きで、『アンナと王様』は先に見ていたのですが、予想外に違う話でびっくり。
シリアスを求めるよりは、子どもっぽい王様の立ち居振る舞いを見て、にやりとする作品です。
見ようによっては、人種差別的(というほどでもないのは、私がその時代の人間ではないからなんでしょうか)に見えたりするのかもしれませんが、その辺は、笑いの要素として流せました。

主役の英国から来たアンナの可憐さと、ドレスの美しさに衝撃。
未亡人なので、若い娘らしい格好はしていないのですが、コルセットにまるで大きな花のように広がるドレスの裾は、まさに一枚の絵。
絞ったウェストに、ダーツの入った上着に、ストライプや青基調の衣装は、堅い美しさがあって、肩の見えるパーティードレスよりも、首元までしっかりと絞ってあるドレスの方が、より「女性的」でした。ああいう、ぴっちりした服装をどうにかしたいのが欲望ですよねえ(同意を求めないでください)。
セットの豪華さよりも、照明の使い方も見事でした。
ここで「この色を出したい」という照明のあて方や、小道具の色が非常にたくみで、CGもない頃にこれを人力で出していたのか、と思うとため息が出ます。光の当て方によってこうも違うんだなあ。

そして、眉のりりしい王様とアンナが踊るシーンは、あまりにも有名。

「これでは違う」
「違いませんわ」
「他の客とは手の位置が違う」
「………………………」

そう言って、ユル・ブリンナー扮する王が、アンナの腰に手を回すシーンは、踊りも始まっていないのに、思わず、「エロッ!」と叫びそうになりました。
いざ踊り始めてみれば、踊りというより、フロアを楽しげに飛び回っているという図のほうが正しいので、そこに行き着くまでの会話の方がムードがありました。

まあ王様のわがままさ加減も、許せる人と許せない人がいるのでしょうが、第一王妃の
「約束を守ってもらえなくても、それを忘れてしまうほどの言葉」
といううっとり歌には賛同しかねる。
どういううっとりだよそれ!

話の筋的には、『アンナと王様』のほうが好みです。というか、この二つ基本的には全然別の話です。
『アンナと王様』のほうがより政治色が強いですし、まずミュージカルではないし。自分の後宮の女が他の男と不義を働いたシーンも、より残酷な処刑という絵がはっきりと描かれ、その上で、アンナが聖書を投げるという宗教的描写もあり、どちらかといえば硬派な作品です。

最後も、(反転)死にそうなのになんでそんなに元気なんですか(反転終了)というツッコミをしたくなる『王様と私』よりも、『アンナと王様』の(反転)よりそう二人から遠ざかるカメラ。そしてナレーションで、その二人の関係は王の死まで続いたという、という終わりの方が静かで印象深かったです。台詞はちょっとうろ覚えですが。(反転終了)

あの時代の映画がお好きな方なら、可愛い衣装と、可愛い王様目当てで是非ご覧ください。
ユル・ブリンナーがちょっと背が低いのがまた萌えるんだ(笑)。



『モノノ怪』
以前お勧めいただいたような気がするんですが、夢でしょうか。
最近、そういうの凄く多いので、もし重複していたらすみません。
私結構長い間雑記を書いてきて、まず間違いなく同じ話題を二度三度語っている自信があるので。イヤー本当に脳みそ危なくなってきたわー。

さて、ノイタミナ枠で放映されて、その前衛的な色彩や動画で話題になった作品ですが、話の筋は殆ど理解できませんでした。みんな大丈夫だ! 私もさっぱりわからないぜ! と、どこかにいる誰かとちょっと肩を組みたい感じです。

私は元々、『岩窟王』とか『モノノ怪』のように、色彩感覚に尖がっていたり、なんていうか、奇抜なデザイン的なセンスに対する感性に乏しいので、その手の演出に関しては、わりと評価が低くなります。低いというか、あまり関心がないというほうが正しいのですが。
紙芝居のような動画にため息をつくよりも、主人公である薬売りがお札を何十枚も自分の周りに円筒形状(細かいが大切)に飛ばし、結界を作る「動き」のあるシーンのほうが好きです。
静止画が嫌いだというわけではまったくありませんが、この作品における静止の場は、奇抜な演出の場なので、それよりも、流れとして見られる場のほうが、好みなのです。

しかし、話よくわかりませんな。

今のところ、『座敷童子』と『海坊主』と『のっぺらぼう』まで見たんですが、なんかこう、わかったようなわからないような。
多分この作品、こういう雰囲気を味わうアニメなんでしょうね。
「これこれこういう話なのだ」という解釈をするよりは、「これこれこういう解釈も出来るよね」という楽しみ方の方がいいというか。物語のアラを探したいわけでもありませんし。

大体、理と真と形の意味も実は未だによく理解できません。
物語の最中で、薬売り自身がちゃんとわかってるみたいなので、まあそれはそれでいいのかな、と。

ただ、要所要所で妙に萌えるので要注意。
薬売りがエロいのは、ニコニコのMADで散々知っていたのですが、薬売りにはそれほど萌えず、のっぺらぼうに大萌えでした。
緑川氏と櫻井氏が一人の女を取り合うなんて、そんなシチュエーション、ネオロマ以外ありえないだろう!?(歪んだ視点)

『のっぺらぼう』の話自体は、精神的に追い詰められた女が、自らの心を殺し、澱をためて生きている。
その姿を見かねた、モノノ怪であるのっぺらぼうが、自分の力を使い、女に家族を殺して鬱憤を晴らさせる。
その幻想を見せ続け、女はその世界で自分を殺しすぎてモノノ怪になってしまい、妄想世界のループを繰り返す。
というような話だと思うんですが(私の解釈です、あくまで)、その妄想の中に、薬売りが現れるわけですよ。モノノ怪を切りに。奴の仕事なんだか知りませんが。

個人的には、妄想でもなんでもいいので、のっぺらぼうと女を無事に結婚させてあげてくださいよと思うんですが、薬売りは妙に意固地(そういう問題じゃない)ので、問答無用でモノノ怪を切ろうとするんですね。頼むからほっといてやれ。

まあ結局、薬売りは女の分身であるモノノ怪を切るっぽいんですが、はっきりとした描写は出てこず(でも剣は女のモノノ怪に反応して抜けたわけだから)、しかも、のっぺらぼうを切った描写がないために、私、ごく普通に、あののっぺらぼうは薬売りのもう一つの姿だとか、自然に解釈してしまいました。
顔は映りませんが、外見がのっぺらぼうと、薬売りが剣を抜いた状態(どうやら違う存在になるというか、身体が入れ替わるような設定らしいので、別人であっても(というかそれぞれ感知できない状態であっても)おかしくないのではと)と瓜二つで、かつ、薬売りがラストで、のっぺらぼうの使っていたキセルをふかしていて時点で、
「あ、なるほど。茶色の薬売りがあの女に惚れちゃって、こっちの白い薬売りは別にそれと関係なく、モノノ怪を切りにきたんだ。そりゃ、自分で自分は切れないよなあ。だからのっぺらぼうを切った描写はないんだ」
とか勝手に納得してました。
冷静に考えると、祝言の場所とか、女の作った世界で、のっぺらぼうと薬売りは対峙しているので、無理があるっちゃあ無理があるんですが、全く違う存在あり、茶色は、剣を抜かれて初めて「ああいう存在として認知される」のであれば、これもありかなあと。

実際はそんなことないんでしょうが、「それもありか」という、想像をさせる話作りとしては、この『のっぺらぼう』が一番上手かったです。

でも、どっちが物悲しいかと言えば、どこにでも転がっている、人に愛される可能性のない、ただのモノノ怪が、女に恋をした、という設定の方がより悲しいですよね。
自分で妄想しておいてなんですが、自分の妄想でない設定のほうが萌えます。

まだ「鵺」と「化け猫」は見ていないので、そちらはそちらで楽しみです。
最後にあまりに有名な「モノノ怪」MADのご紹介。
本当にこういう才能って羨ましい。自分の想像できるものをビジュアルに昇華できるって、本当に凄いことだと思います。

「麗しのサブリナ」
大体の筋と、オードリー・ヘップバーンが出てる、くらいの内容は知っていたんですが、オードリー扮するサブリナが、非常にいい性格をしていて困った。
サブリナは運転手の娘で、大富豪の次男坊に恋をしているんだけど、次男坊は三回も結婚に失敗している、女たらし。
パリの料理学校に行く羽目になってしまったサブリナは、叶わぬ恋を抱いて自殺しようとするんだけど、その方法が、お父さんが管理しているガレージに乗り込んで、エンジンふかして、一酸化炭素中毒で死のうとするんだぜ。
それ、なしだろ。
てっくり首でもくくろうとするのを見つかるとか、そんなのかと思ってたら、お前よりにもよって自分の父親の仕事台無しにするような死に方を選ぶって、どういうこと!?

なんていうか、サブリナは身分違いの恋に悩む少女(大体その時点で二十歳だし)という感じよりも、恋に浮かれて勘違いな行動に走る女という印象が強くて、一事が万事行動に共感できませんでした。
二年後パリから帰ってきて、素敵なレディに変身したのよ、みたいなシーンも、明らかに勘違いしてる発言が多いし。
次男坊は二年後の時点で婚約してるんだけど、それを言われても「だからなに」みたいな態度を取るサブリナが、ちっとも可愛くない。
いや、確かに恋愛っていうのは相手が結婚してようが、婚約してようが、関係ないったら関係ないのかもしれないけど、そんなお前の行動を周囲がどう見ているかとか、婚約者がいるのにほいほいお前に声をかけてくる次男坊のどこがいいのかとか、こっちはその恋を応援できない要素が多すぎだよ。

サブリナは、出だしで印象が悪かったせいで、最初から最後まで、自意識過剰の勘違い娘という印象のままで終わってしまいました。
いや、そりゃ顔は可愛いですよ。ヘップバーンですから。ただ、私ヘップバーンは別に好きな役者さんじゃないからな。

次男坊は女たらしですが、基本的にいい奴で打算のない女好きなので、逆に好感度が高かったです。
財産には興味がない。女の子がきれいだから声をかける。サブリナに二年前は興味がなかったのは、純粋に女として魅力的じゃなかったからで、二年後自分の目にかなえば、立場とか身分とか関係なく声をかけて、ずっと一緒にいようと言える。
恋愛の仕方も、感情の表し方もストレートで、こういう男を好きになると大変、男も一人の女をずっと好きでいられるような性質じゃないのもあいまって、上手くはいかないでしょうが、人間的に陰険じゃないので、見ていて楽しかったです。
現実として、お前は金も才能も何もないのに、「太平洋をいかだで横断しよう」とか、てらいもなく、未来の不安を全く感じさせずに本気で言えるのが次男坊イズム。
こういう男は裏表がないので嫌いじゃないです。

最終的にサブリナと結ばれる長男は、私てっきりビジネスにしか興味のない朴念仁かと思ってたら、とんでもない、すげえ腹黒で、策士でした。
しかも、適当に女の扱いに長けてやんの。サブリナを弟の代わりに面倒を見るふりをして、自分に惚れさせてパリへ追いやろうと騙すなんて、普通の堅物は考えない!
純粋に身分違いを諭すとか、もっと悪い路線から行くなら、父親を引き合いに出すとかして、追い出せばいいのだし。何故そこで自分に惚れさせて、という選択肢が出てくるのだよ長男………。
これも最初は芝居で、本当はサブリナ一人でパリに行かせる、というのが当初の思惑なんですが、それにしたって、長男演技派。
嘘か本当かわかりませんが、過去の女の話までしちゃって、お前弟よりもよっぽど女扱い上手いじゃねえの!
この長男の立ち位置は、ビジネスが第一だけど、それしか知らないのではなく、女扱いもジョークもできるけど別にそれらに関心がない、というアメリカ的何でもできる強い男だからこそ、年齢がサブリナよりも10は上なんでしょうね。
アメリカの恋愛映画は、年端も行かない少女と、老人の組み合わせは結構普通にあります。「昼下がりの情事」とかね。

まあそんな感じで、人物としては次男が一番まともなんじゃねえの、という感じの映画でした。


ただ、台詞の使い方とか、「くすり」と笑える場面の作り方は絶品。

二年後に帰ってきたサブリナを迎えに行けなかった父親の台詞とか、
「すまない、行けなくて」
「いいのよ」
「どうせ、行ってもわからなかった」(くらいきれいになった)
物凄くおしゃれだし。

サブリナがパリから送ってくる手紙を父親が、召使の人たちに読み聞かせるシーンも、
「デヴィット(次男)のことは書いてある?」
「忘れたそうだ」
「良かった」
「夜だけ思い出すらしい」
「駄目だわ」
「デヴィットの写真をやぶりました」
「良かった」
「セロハンテープを送ってください」
「駄目だわ」
とか、台詞回しが上手くて笑える。

それ以外にも、行動が凄く面白くて、禁酒禁煙をしている大富豪のお父さんが、奥さんに隠れて、出てくる場面でこそこそタバコを吸っていたり、長男が自分の部屋に帰ってくると、自分のクローゼットから煙が出ていて、慌てて開けてみると、お父さんが直立不動で隠れてタバコを吸っているとか。
「母さんかと思って」
ちょっとまぬけで、奥さんに頭の上がらないお父さんも可愛いです。
最終的には次男と同じように、尻ポケットに入れていたビンを忘れて椅子に座り、破片を突き刺して泣く羽目になるのですが。
「オリーブが!」

そうそう、次男がシャンペングラスを尻に入れたまま椅子に腰をかけ、サブリナとのデートが出来なくなるように仕向けたのも、長男です。
本当に、お前いい性格してるよな。

次男は、最後サブリナに注意された、長男のダサい帽子と傘を持って、悠々と兄貴の背中を「追いかけろ」と押すことのできる、典型的美味しいところ持って行き男なので、情けないだけの男じゃなくて、長男よりもよっぽどとっつきやすいと思いました。このシーン、弟がカッコイイんだ。

三人の恋の応援は特別できませんでしたが(強いて言えば次男は幸せになればいいと思う)物語の中にあるユーモアを楽しむ、という意味では、非常に面白い作品でした。衣装の素晴らしさ(サブリナパンツとか)は言うまでもなし。
TUTAYAディスカス雑感のほうがいいのかな、と思わないでもないんですが。最近映画館に映画見に行ってないなあ。

「ザッツ・エンタテインメント」

MGMのミュージカルを集めた傑作集。
これを見て、フレッド・アステアは半端ないということがよくわかりました。
タップダンスから、クラシックバレエのような振り付けまで完璧にこなし、そして物腰そのものが非常に優雅。
ミュージカルの映像だけでなく、当人がコメンテーターとして出てきたりするのですが、その妙齢のフレッド・アステアの品の良さに私が惚れた。
なんだこのじじい! お前若い頃あれだけできて、年取ってからもそんなに色気振りまいてるのって、反則だろ!
「赤木しげるとは別次元の色っぽさだなあ。じじいはどう料理しても美味しいなあ」
と思わず反応してしまった私は、夢も希望もない現実を見すぎだと思いました。



フレッド・アステアも勿論ですが、女優さんも非常に美しい。美人はやはり、美しくなければ意味がない。
このダンスの際の衣装も素敵です。くるくる回れば、スカートも美しくひるがえる。よくアニメだの漫画だので、ありえないくらいにひるがえる絵がありますが、このダンスシーンを見ていると、それもありだな、と思います。
あのロングスカート(私ファッションに詳しくないのでわからないのですが、ああいう細かい折り目の入ったスカートのことなんていうんでしょうね)が、またかもしかのような細い足を隠していて、エレガントなんだ。



そりゃ宮川さんも至芸って言うよな。王と女王に乾杯。


以前もご紹介した、『雨に唄えば』の動画もご紹介。
いや、勿論ジーン・ケリーもカッコイイですよ。







初めて見たときも思ったんですが、衣装すごく可愛いですよね。昔のスチュワーデスさんみたいで。


ついでに、私が愛してやまない『ウェスト・サイド物語』のシーンを。
ジョージ・チャキリスとリタ・モレノを楽しむ映画という解釈でオッケーだと思います(主役? 興味ないよ)。



昔、コサキンで映画の邦題をつけるというコーナーで「歌って喧嘩、踊って喧嘩」というタイトルをつけられていたのを思い出しました。
何で街のチンピラがこんなに踊れるのか、とか考えちゃいけませんが、考えるとより笑えます。
しかし、この頃は音楽の質も半端ないな。バーンスタインはどれだけ引き出しが多いのか。



私が一番この作品で好きなシーン。もう、アニタの衣装を見ているだけでも楽しめる。男性陣の足の細さに悶絶。歌詞のきれいな韻に感動。ここまで違うと同じ人間とは思えない(きっと違うんだよ)。
どなたか、ダンスホールのシーンと、結婚式衣装店のシーンもあげてくれないかなあ。あの二つも非常に好きです。


アメリカの古きよき時代のミュージカルを見ていて思うのは、金の使い方のわかりやすさです。
例えば、凄く衣装が豪華だとか、エキストラ何千人とか、セットが派手だとか、見る側にとって非常に有益な金のかけかたをしているな、と凄く思います。
勿論、一瞬しか出てこない椅子に何百万円とか、そういう金のかけかたもあるのでしょうし、小道具などをおろそかにしていい、ということが言いたいわけではありませんが、基本的に、作る側の自己満足でかける金と、作品を魅せるためにかける金では同じ巨額を投資しても、意味が違います。

以前、某国民的アニメで、一瞬しか出てこないキャラクターの頭巾の色を何色にするかで、延々悩んだ、みたいなメイキングシーンが出てきたのですが、実際それは、見ている側にとってどうでもいいことなんですよね。
その事実を知って、「このアニメはそんなに細部にまで気を配っているんだね」という、知識を得て得した気分に「なるような気がする」だけで、それはあくまで作品の価値をあげることにはならないと思います。
これはあくまで、作者の自己満足のためにやるものであって、前述した金と同じように、見る側にとっては、その頭巾の色に何時間かけました、という事実は、全く不要なものなのです。

細部へのこだわりや、作品を作る上での自己満足は、勿論必要不可欠なものであるし、それがなくなっては、その人個人の作品にはなりえません。主張したいこと、こだわりがあってこその、個性ですから。

ですがそれと、見る側の意識は全く別物であり、私は、一閲覧者として、見ている側に、「どうだ、すごいだろ」と思わせたくてお金をかけました、というような、お金の使い方のほうが、好みです。
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