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日々のつれづれ。ネタバレに過剰な配慮はしておりません。
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『ソフィー』 ガイ・バート著
『ずっとお城で暮らしてる』より難解でよくわからなかった、というのが正直なところです。
同じホラー物に分類されるのかもしれませんが、「一族郎党殺害された」というわかりやすい事件が起こっている『ずっと~』と違い、『ソフィー』はほぼ弟視点の思い出話(しかも、個人的には本当にほほえましいというか。このほほえましさが恐怖だというのは、こちらがこれがホラー小説であるとはじめからわかっているから思えるわけで)で事が進むので、普通に読み進めてしまった、という感じでした。

しかし、やはり物語で何が一番怖いかというと、姉ソフィーのわけのわからなさに尽きます。
弟は結果として姉を追い求め自分の中の狂気に走った点から言っても、わりとわかりやすい恐怖の代弁者なのですが、結果、ソフィーが過去に何を見て、何に絶望して(していないのかもしれませんが)最終的に、何があったから見切りをつけたのか、というところが謎のままなので、非常にもやもやしたまま終わってしまった、という印象を受けました。
実際弟と離れることになったから見切りをつけた、でも一向に構わない(むしろそれこそが「真っ当に怖い」のかもしれませんが)のですが、これらも、捕らえられた名もなきソフィーの推測にすぎないわけで、ソフィーが結局握っている母親についての何かとか、それらがどうでもいいことのように描かれ、それと同軸のように彼女の心根すら平坦に埋もれているのが、私の行間で読み取る能力超えている! と眉間にしわを寄せながら読んだ次第です。

実際、ホラー小説を全く読んだことがなく、お世辞にも小説に詳しいとは言えないので、一概に共通点がこうだと決め付けられないのですが、一番驚いたのは、恐怖モノにおいての日常生活描写の精密さでしょうか。
私はもっと、精神面のドロドロとか、そちらが表面に出てくるのかと思いきや、『ずっと~』も『ソフィー』もむしろ精神病者的な描写はほとんどなく、努めて日常描写に特化していたのが意外といえば意外であり、それが恐怖といえば恐怖でした。

そして、ソフィーの不可解さと比べ、弟がとてもわかりやすい思考であるのも、意外でした。
私がわかったような気になっているだけかもしれませんが、弟が結果置いて行かれて自ら問いただすために追いかける、というのは、ある意味理にかなっていると思ったので。
最後がどうなったのであれ、彼にとって決着がついた後のことはどうでもよかったのでしょうし。

不可解といえば、監禁された大人のソフィー(仮)も、相当最後は「どうしちゃっだのだ」と思いましたが………。ソフィーは伝染する、という感じでしょうか。

最後に、私は『ソフィー』をたまたまハードカバーで購入し、帯が残っていたのですが、そこに「ダーク・ファンタジー」と銘打ってあったのには、正直倒れました。
私の中でダークなファンタジーだったら、耳のとがったエルフとかが出てくる印象しかなかったものですからつい………(苦笑)。
個人的には、ファンタジーどころか、群ようこと並んでいてもおかしくないと思っております。

ただ、これを読んだ後に、トマス・ハリスを読むとその読みやすさに倒れます。実際、『羊たちの沈黙』も、小説で読んだ後に、「宗教くさいけど読みやすいなあ」と思ったものですが、最終的に『ハンニバル』で、その印象振り切れた。
クラリスが彼岸の人になっちゃうとは思いませんでした。そりゃあ、映画も違った終わり方にするよねえ。
小説のように『魂の救済』としての終わり方は、文字としてみればかっこいいのかもしれませんが、あれが、エンターテイメントとしての映画でやられたら、そりゃ劇場で倒れると思うので、映画は映画でいいんじゃないかと思います。
精神論的な終わり方って、どうも煙に巻かれたみたいであまり、いい印象がありません。そんなん言ったらどれだって全部許容範囲じゃねえか、というか。
小説としては一連のシリーズは凄く読みやすいのでお勧めです。
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先日、弟の誕生日でした。
………ということに気づいたのが、夜勤明け当日。
ところは、スーパーのレジの前でした。
自分の誕生日当日に、弟からはメールをもらっていたので、私も返さなきゃいかん、と携帯を取り出します。
私は基本的に月に一度しか、大きな買出しをしないので、目の前にはカートの上に乗っかった二つのかごがあります。
目の前のおばさんが済んで、自分の番になったところで、メールを打ち始めたのですが、そのスーパーのカードを出し忘れていたことに気づき、咄嗟に携帯をかばんに突っ込んで、カードを出しました。
すると、派手な音を立てて携帯が落下。
ぎょ、っとしたんですが、後ろに並んでいたおばさんが「落ちましたよ」と位置を教えてくれたので、拾い上げます。
すると、カバーがない。
バッテリーむき出しです。
しゃがんで床を覗き込んでも見当たらず、地面にひざをついて、なめるように床を見ても見当たりません。
おかしい、と思う間に、どんどん進むレジ。
ええい、こうなったらレジが終わったら荷物をとりあえずよそによけて、探すしかないと開き直ろうとしたところ、後ろのおばさんまでひざまずいて床を見てくれる始末。
い、いいです! ひざが汚れます! すみません! と自分の行動よりおばさんの行動にパニックになりつつ、万冊を出して会計をともかくすませ、カートを隅っこに押しやり、大慌てでレジに戻ってみると、台の影にカバー発見。
「………お騒がせしました。ありがとうございました。ありました」
とんだ騒動でした。
お前、これだけ必死な思いをしてメール打ったんだから、よくわかんないけどおめでとう!(意味不明)

今使っている携帯は確か一年目のはずなんですが、ボロボロ具合がかなりキてます。
カバーははずれるわ(さすがに輪ゴムを巻くところまではいってませんが)外装は傷だらけだわ。今までと同じ使い方をしているはずなので、そんなに耐久値が低いのか、とも思うんですが、買い換える気もおきず。
九月あたりになったら考えます。
九月は携帯を買い換えたり、年に一度の歯医者があったり、色々な行事があって忙しいなあ(これで!?)。


『鋼殻のレギオス』
主役級ヒロインであろう隊長の女が鬱陶しくて仕方がありません。
相手に手を抜かれたことを腹立てる前に、己の実力のなさを恥じろ!
自分が真正直に話せば相手もそうするだろうなんて、おごりも甚だしい!
それぞれに背後にある事情も無視して、よくもまあふてくされられるもんだな!(私の特技は二次元であろうが真剣に腹を立てられるところです)

本気を出せば人質になってる誰かが死ぬ、くらいのバックボーンがあったりしたらどうするつもりなんだこれだから、親元から家出して一人で頑張ってます気取りのお嬢様はよお!

生まれも育ちもなんもないとこからの貧乏と、その気になればあるにはある、ではベクトルが違うわけで。
まあ本人の意思に関わらず、持ってしまったものは仕方がないとしてもだからこそ己の行動が問題になるのであって…!
エロ担当だかなんだか知りませんが、ロリ先輩も非常にイラッとくるので、今後見続けるか怪しくなってきました。(私はこういう物語と関係ないところでよく番組視聴をやめます)
■久々ニコニコ紹介。




なんつーか、あれですか。エロさと凄さが同居しているっていいましょうか。
アカギはかっこいいし、ディオ様は相当エロいですよね。


結局、鍋は昔のを利用しています。
いやあ、麦茶も問題なく煮出せたし、問題なさそうなので。
職場の同僚にいただいた鍋は、どうも底が深くて、何度か使ってみたんですが、一人分のおかゆを煮るにはもったいないと結論づけました。今度、パスタを茹でる時に使ってみます。いやあ、今までスパゲッティを二つ折りにしていたから、長いまま茹でられるか楽しみだ!(そんな楽しみ方)


今期のアニメはほぼきりました。というか、現在末期的にアニメに対する関心が低空飛行です。これは波があるんで、どうしようもないことなんですが。
今期だと、『鋼殻のレギオス』と『はじめの一歩』くらいでしょうか。
ただ、レギオスは今後どうなるかわからないのと、はじめの一歩は、宮田に興味がない(宮田に興味がある一歩には興味はある)ために、特別熱を入れて見ていない、というのが本音です。
後は、もうすぐ終わりそうな『ソウルイーター』と(心情吐露になっちゃうと、本当にどうでもいいんですが)『忍たま』再放送くらいでしょうか。
『続・夏目友人帖』は、一期を見ている時からずっと思っていたんですが、続編で確信。
この妙なのりきれなさは、妖怪変化といいながら、何故か人型をした化け物ばかりが主役を張るところにあるようです。
原作を全く知らないので、原作では完全に化け物ルックスの妖怪が出ていて、アニメだけ、そうじゃない作品をピックアップしているのかどうかはわかりませんが、どうにも、妖怪といいながらも結局人型である、というところに、根本的に乗り切れません。

本当に、人ではない、全く別の生き物であるというならば、それこそ、人間が見て嫌悪感を催すくらいの外見であるほうが、化け物であるという印象も強く残りますし、どうも、外見が人であるというだけで、媚びているというか、あざとい印象が強くなるんですよね、私の中では。

妖怪変化を扱った作品は、世の中にたくさんありますが、それこそ、『うしおととら』のように、全く人型ではない、醜い妖怪が織り成す感動というのも確かにありますし、『百鬼夜行抄』のように、良い悪いの観点ではなくただ存在しているだけで、「結果的に」人が受けるものは災いというような、どうしようもない不条理感や、存在そのもののベクトルが違う「生物」との兼ね合いのほうが、個人的には好みです。


『はじめの一歩』何とか85巻まで読み終わりました。
読み進めれば進めるほど、一歩の戦いどうでもよくなるのは、私だけでしょうか。
チャンピオン伊達が言っていた通り、事あるごとに一歩も自覚していますが、どれだけ「この拳は今まで戦ってきた人たちの思いが詰まっている」と言ったところで、やっぱり、生活かかってる人と、年齢いっちゃって人生的に後がない人たちとの拳とは、やっぱり根本的に重さのベクトルも違いますし。
そうなると、読んでいる私の年齢が年齢だけに(苦笑)どうしても、一歩のように、スポーツマンとしてのボクサーよりも、王者にしがみつきたい伊達や、年齢として最後である、家庭持ちのボクサー(名前失念)が「父ちゃんは逃げん」と一歩に立ち向かう姿のほうが、そりゃ燃えますよ。
個人的には、世界王者ゆえの強さ、というものに凄く興味があるので、またフェザー級王者リカルド・マルチネスとか出てきてもらいたいですね。
やっぱり、VS世界っていうのは読んでいるこっちも、盛り上がりますし。
「一位とチャンピオンは違う」っていう、その違いこそが燃えるっていうか。
東南アジア系の人たちは、ベッタベタですが、もう、背後に控えているものの重さが違う(どれだけベタであっても泣く私)ので、出てきて欲しいようなそうでないような………。
もう、子供のために宮田のかませ犬になるとか、どれだけそれ悲しいんだよ。

たまたま、yahooで一歩の特集があって、そこで作者様が「板垣が人気ないみたいなんですけど」というコメントがあり、そりゃそうだろ! と一人うなずきました。
あれだけ「ボクシングしかない」という必死の決意が渦巻く中で、天才肌の板垣がウケるわけがない!(苦笑)
奴はどうしても、あの作品の登場人物の中で、ソフティケイトされすぎてますよ。要するに、面白みがないし、応援しようという気になれない(これ、凄く重要です)。
板垣を応援しようと思わないということは、板垣の試合内容が面白くないということで、面白かったとしても面白いと思えないっていうことですから、結構そういう意味でも板垣って不遇だと思います。
どうしても、相手役の人たちとか、ライバルの今井の方を応援したくなりますよねえ。
板垣と、ハンマーナオだったら、どっちを応援するかっていったら、そりゃゲロ道ですよ! 文句なしに!
まあ、ハングリーさを表に決して出さない、というハングリーさもありますが、板垣の場合は天然だからな………。

梅沢がらみのエピソードも当然泣けます。
やっぱり、スポーツに特別関心がない私としては、スポーツ以外の日常風景が上手いのも、高評価なので、笑いのシーンや感動シーンを担う、ジムの面々や、梅沢は普通に泣けます。

とりあえず、また最初から読み直しているんですが、30巻にもたどり着いていないので、先は長い………。
今現在、大人買いした『はじめの一歩』85冊が転がっております。
六畳一間の生活空間に足の踏み場がなくなりました。私は一体どこで寝ればいいのだ。
85冊もあって、必死に読んでいるのに、まだ五十冊程度というのが先を感じられて気が遠くなりそうです。
いわゆる純然たるスポーツ漫画なので、試合のシーンが当然多く、そのマンネリさ加減に飽きがきそうだな、と思っていたんですが、今のところそんな感じではありません。たぶん、基本に忠実だからなんでしょう。
特別なことはなく、主人公は勝てる努力を惜しまないし、そして、相手も当然そうというのは、見ていて気分が高揚します。どちらが勝ってもおかしくない、という気持ちに読んでいてすんなり思えるからです。
これは以前、『オフサイド』というサッカー漫画を読んだときも思ったことなんですが(ただし、オフサイドにはやって当然である練習シーンはほとんどないので、種類としては違うかも)バックボーンはコッテコテであっても忠実に描き、その上で、結果として試合の白黒がつくっていうのは、実に、正しい流れとして読めますね。嫌な気持ちにはならないのです。
奇をてらった終わり方とか、突然異星人が乱入してくる(何だねその例え)とか、どんでん返してきなものは絶対にないというのが、物語の前提としてあるので、その分、どんな結果になっても、どちらも応援したくなるというのは、非常に上手いと思います。

そして、輝く美形たちの美味しさはどうだ!(結局そこか)(とても大切です)

個人的に、天才肌タイプには一切興味がないのですが、前髪が試合中に生まれた鷹村の顔に悶絶し(外見はとても大事です)、地味とか中距離という言葉に非常に弱い私は、木村が大好きで、真柴との戦いは本気で痺れました。木村いいよ木村。私はあのジム陣営の中では、木村がダントツで好きです。
あ、勿論青木も主人公の一歩も嫌いじゃないです。奴らは、真剣な顔をして冗談を言い合うので、大好きです。

敵陣営は正直、五十巻くらいまで来ると主要人物以外名前が思い出せないんですが、読んでいる最中は誰も彼もが大好きでした。
こ、こうなるともう、判断は顔しか………!
間柴兄も大好きです。妹混みで奴らは可愛い。特に兄貴からは、何故か性的な匂いがします。(!?)
ちなみに、お約束に徹底的に弱い私は、オズマとヴォルグでは号泣しました。というか、ヴォルグのあの顔はなんだどうだあんなキュートなロシア人がいてたまるか超萌える。

全国地味同盟の末席にいる私としては(い、一体いつそんなものが)、小橋も譲れません。ああーもう、あの平々凡々とした男たちが、顔をぼこぼこにされ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになって、がむしゃらになる姿っていうのはどうしてこう………!

ちなみに、外見だけで言うならば、ブッチギリで、会長と猫田の若い頃が好みです。(今現在じじいじゃねえか)

つうかあの、若い頃の猫田の二枚目っぷり反則だろう!? ありえないあの二枚目! 戦後の日本にあんな二枚目がいたなんて!(漫画ですよ!)
会長はなんていうか、二枚目の質が違うというか、猫田が美形(本気ですか)ならば、会長は男前という感じですね。なんだよあの二人クソ。

女がらみのエピソードとなると、とたんにベタになるのもこの漫画の特徴ですが、それでちょうどいいと思います。どんどん泥臭さを追求してもらいたいです。
超愛妻家の伊達とか、サチ子のためにボクシングを始めた今江とか、もう、お幸せに!

こうしてみると、好みに宮田とか、千堂とか言わないのが私らしいですね。いや、天才肌は好みじゃない(宮田は違いますが、典型的な美形ということで。というか、宮田は一歩のものだから)し、不良は好みじゃないんで。

ともかく、今現在試合のシーンに飽きがくることもなく、非常に面白く読めています。スポーツ漫画というと(ボクシングがスポーツかっていうと、それはそれでちょっと疑問なんですが。私はチキン野郎なので)試合ではなく、その前後の練習風景や日常シーンにばかり注目したくなる私も、このまま楽しめるくらいのテンションでお願いしたいところです。
諸事情あって更新滞ります。主に腰痛。
どうも定期的にやってくるので困り者です。椅子に座ってパソコン見てるのも辛いわ。

そうそう、新しい鍋が届きましたが、焦がしてしまった鍋は麦茶専用、新しい鍋は米専用で使い分けることにしました。新しい鍋、大きさはそれほど変わらないんですけど、重い。
いきなり自己主張してくる、にくい奴です。ありがとう、同僚。



映画『マイ・ボディーガード』の原作ということで読んでみました。
旅行記、というか実在する国の文化―食生活や、酒の名前。洋服の流行や、無数にある銃器の説明などが、非常に細かく感情を要れずに書かれており、文化のリストを読んでいるような感覚が、個人的にすごく好みでした。
やまほど心理描写が出てくるのかと思ったら、それは少なめで出てきても淡白な描写なので、非常に読みやすいです。
好意ひとつとっても、ずらずら女や男の感情を三ページも語ったりしないし、すっきりと「男は女を愛していた」くらいの文章で表現してもらったほうが、個人的に好みですし、如何にもハードボイルドという印象が強くなります。

感情描写は「文章として口にしなければならず」そのために、読み手は登場人物に感情移入しやすい。チープではなく、悲しいときは悲しいという感情が一番合うからこそ、それは悲しみなのだという割り切り方が好きだといいましょうか。

実際の内容としては、映画とは全く違います。主人公のクリーシィが女の子のボディーガードになって、その子がさらわれ復讐を誓う、という主題だけが同じで、細かい台詞や設定もそうとうアレンジが入ってます。ほぼ、別物だと思ったほうがいいですね。実際、ピタ(原作ではピンタという名前なんですが、この名前、イタリアではポピュラーなんですか………?)の誘拐そのものは物語の前半で語り終わってしまいます。

その後は、大怪我をおったクリーシィが地道な訓練をし、肉体を取り戻し、具体的な計画によって具体的に復讐を進めていく過程が描かれ、また、拷問シーンや殺戮シーンは非常に少ないです。
必要があったから書いてある、というスタンスの文章では、どれだけインパクトが強い「出来事」(誘拐や、殺害などのショッキングなシーン)であっても、長々と語るようなことはないわけです。
実際、クリーシィが島で自分の体力回復に努めたり、武器を調達したりするシーンのほうが、何倍もの文字数で書かれています。それは、「そうしてきた」という過程であり、ごく自然に「そうだったから」なのでしょう。文字を多く使う必要があったから、だけなんですね。

逆にそのへんの、私には全く知識がない、外国人部隊の話や、訓練の話は非常に面白かったです。そんな世界の旅行記を読んでいるような気分になります。

映画のクリーシィより、原作のクリーシィは、生臭い感じです。
映画は、幼い少女によって血なまぐさい男が救われる、というある種のファンタジーなわけですが、小説のクリーシィは確かに少女によって変わりますが、女は抱くし、最終的に身ごもった女と逃亡ですから、夢を見て、夢を味わい、その結果死んだ映画とは、基本的に立ち位置が違う感じです。もちろん、クリーシィが変わったのは、すべてピンタのおかげなので、根底には常に彼女がいるわけですが、それはそれ、これはこれ。男だから女を抱くし、酒は飲むし、下品な冗談は言うしで、こう、ある意味純情な映画版クリーシィを想像すると、受ける印象がだいぶ違うのではないかと思います。

私は、クリーシィの性格描写ですら淡白な小説版のクリーシィは嫌いじゃない、というか、映画とは完全に別物、と最初のほうで認識したので、べつにどってことはなかったですが。
比べてみると、映画の脚本を書いた人は、すごくドラマティックな演出を台詞の中で取り入れるのがうまい人だったのだなあ、と思います。
「神は俺たちを許すと思うか?」「無理だ」のあたりとかね。
そういう、印象に残る台詞は小説ではありませんでしたし。また、そういう作品でもありませんしね。

しかし、小説版のピンタは本当にひどい死に様だった………。もともと、ピンタの誘拐から始まって殺害がわかるまで、数ページしかありませんしね。これも、長々と書く場面ではないからなんでしょうが。
誘拐され、陵辱された挙句、自分の嘔吐物を喉に詰まらせて窒息死、ですからね………。本当にひどいよこれは。
ただ、原作のクリーシィは、最終的に一人の女との間に愛情を育み、生活を取り戻すので、その場に確かに生き残ったピンタがいては、「邪魔」かな、とも思います。感動が二分されるというか。

ピンタはあの世界の中で現実的に誘拐され、そして殺された。
だから、クリーシィは復讐した。
明確な主題に揺るぎのない原作でした。
映画と違うのは、ピタしかいなかった映画版のクリーシィと違い、ピンタのおかげで人々を愛することができるようになった原作版のクリーシィのほうが、より生臭く穢れている、くらいでしょうか。
ただ、生臭いからといって、リアリティがあるという意味ではないのです。原作のクリーシィはどちらかといえば、ターミネーターなので、人間としての感情が垣間見える弱い存在としては、映画のほうが描写が上だと思います。

面白かったです。残酷描写なら映画のほうがよっぽど辛いので、そういう意味でも小説版はお勧め。
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アリス・クリードの失踪
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