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日々のつれづれ。ネタバレに過剰な配慮はしておりません。
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『ハーヴェイ』
ちょっと前に、『ラースと、その彼女』という映画がわりと話題になったんですが、あらすじを見て、「これって『ハーヴェイ』と同じなんじゃ」と思ったのが見ようと思ったきっかけでした。
この映画、私は見たことがなかったのですが、川本三郎の映画評論本で、解説されていたのを読んだことがあったのです。
普通にシュールなヒューマンコメディ(おかしな表現)なのかと思いきや、最初から最後まで泣き通しでした。
いや、まあ、私はフィクションで簡単に泣くので、私が泣いた=感動にはならないんですが。
基本は幸せな話なのです。誰も傷つかないし、誰も傷つけられたりしないし。
でも、その幸せが悲しい―私のような現実の尺度でしか生きられない人間から見ると、とても悲しい話でした。

主人公は、エルウッドというもうすぐ中年にさしかかる男性。親の遺産を相続し、不自由なく暮らす独身男。誰にも優しい彼だが、たった一つだけまともではない言動があった。
身長が180センチを越える巨大なウサギ―ハーヴェイ。
エルウッドは、誰彼かまわずハーヴェイを紹介するが、その視線と差し出された指の先には、誰もいないのだった。

ハーヴェイはエルウッドの妄想であり、他の人間には誰も見えません。
当然周囲の人間は、彼をうす気味悪がり、遠ざかります。
共に暮らす姉のヴィータはそんな彼を心配し、自分の娘の縁談にも影響があるのではないかと、彼を精神病院に入院させようとします。

このエルウッド、明確な言葉で説明はされませんが、どうやらアルコール依存症のようです。昼からバーへ出かけ、マティーニを飲む。勿論、ハーヴェイの分も。
そこで、全ての人間に挨拶し、始めての人間には名詞を渡す。
食事に来ないかと誘い、「用事があるから」と社交辞令的に断ると、「いつならいい? 明日? 明後日?」とそのナチュラルな拒絶を理解することができず、心から来てもらいたいと望む。
彼は、とにかく善人です。彼をさげすむ目や、奇異の眼差しにも全く気づかないし、ハーヴェイと仲良く歩き、話し、扉を開けてやり、椅子をひいてやる。
ただそれは、やはり一般のハーヴェイが見えない人たちから見れば、異常でしかないのです。

姉は精神病院へ共に行きますが、手違いからエルウッドは開放されてしまいます。
慌てて追いかける、医師と看護師。

BARで出会い、彼らは色々な話をします。

「僕は、いつもそうなんです。BARに行くと、必ず誰かがいる。色々な人がいて、色々な話を聞かせてくれる。楽しいこと、とても悲惨なこと。僕に今まで聞いたことがない色々な話をしてくれる。それは、とても大切なことなんです。わかりますか? でも、ハーヴェイが話始めると、みんな去っていくんです。それは仕方のないことで、ハーヴェイの話はとても高尚で、みんなはそれがねたましくなってしまう。人は誰でも、羨ましいと思う気持ちがあります」

常に礼儀正しく、やさしく、他人の気持ちを慮って話してくれるエルウッドに、周囲の人間は次第に見方を変えていきます。

「母は、僕に言いました。人生は、とてつもなく抜け目なく生きるか、とてつもなく優しくいきるかの、どちらかしかないって。僕は何年も抜け目なくやってきたから、今度は親切にしようと思って」

幼い頃からエルウッドを知っている人間の台詞から判断すると、どうやら、エルウッドは頭もよく、運動もできて、女性にも男性にももてた、完璧な青年だったらしいです。
それが、ある日を境に「そうではなくなってしまった」と。
精神科医は、母親の死や、父親の名前、幼い頃に遊んだ友人の名前など、色々な関連性を示すんですが、エルウッドはそれらの質問に丁寧に答えるだけで、実際こちらも原因はよくわかりません。
ハーヴェイと出会ったときの話も、街角に立っていたウサギに気づいた、というだけなのです。

最終的に、エルウッドは精神科医で注射を受けることになります。姉がそう望むなら、と。泣かないでと。
ですが、姉は結局まともになり、醜くなっていくくらいなら、とエルウッドにそのままでいて欲しいと望みます。
2メートルのウサギがいても、それがエルウッドにしか見えなくても、それで彼が幸せならば、今のままの優しいエルウッドでいてくれるのならば、それでいいじゃないか、と。


これ、面白いのが、最初はハーヴェイは完璧にエルウッドの妄想で、そして、最後も妄想であるんでしょうが、ひょっとしたら?と思わせる演出が、ちりばめられているのです。
姉は「時々ウサギの姿が見えてしまう」と言うし、精神科医の院長は、見えてしまいます。常にハーヴェイが。
勿論、画面には一切ハーヴェイは映りません。でも院長はエルウッドと同じように、ハーヴェイと話し、共にいて欲しいと口に出して言います。
他にも、二つの穴が開いた帽子や、持ってきたはずなのにない財布など、本当に妖精の仕業では、と思えることが、たびたび出てきます。

最後も、ハーヴェイは結局院長から、エルウッドの元に戻り、
「僕は君といられるのが幸せなんだから」
と、見えないハーヴェイと一緒にエルウッドは帰ります。
最初から最後まで、ハーヴェイはいるのかいないのか、わからないままで。

本当に「いる」のだとしたら、多分、ハーヴェイを必要だと、いるといいなと思える人には見えるのでしょう。癒しを求めていた院長とか、弟を愛する姉とか。では、エルウッドもハーヴェイを何故必要としているのか、ということになるのですが、ここで面白いのがエンドロール。
役者名と、役名が並ぶのですが、
「ハーヴェイ himself」とあるのです。
いくら、英語ができない私でも、「himself」くらいはわかります(本当かよ)。
つまり、「ハーヴェイ=彼自身」となるわけです。
周囲は、彼を必要とし、ハーヴェイに癒されるということはエルウッドに癒されるということである。
彼は、彼自身に癒される。


基本はヒューマンコメディなので、笑える部分(主に言葉のやり取りとして)もありますし、ハートフルですが、凄く穏やかな気持ちになれるんですが、それでも、やはりエルウッドの姿や言葉は見ていて悲しい。
現実世界で生きていて、絶対にハーヴェイは見えない、そんな大多数の人間から見ると、見えないハーヴェイと会話し、他人に馬鹿にされ続けるエルウッドの姿は悲しい。
それを、悲しみと全く理解せずに、自分は幸せだと思っているエルウッドの感情が悲しい。
その悲しみさえ、彼にとって的外れだということは重々承知でも、やはり、見ていて何処か悲しい姿でした。

エルウッドは別にハーヴェイだけを猫かわいがりしているわけではないので、いてもいなくても、彼が世界のあらゆるものに優しい、というのは揺るがないのですが、その彼の優しさが悲しい感じでした。

でもそれは、周囲の人間にハーヴェイが見えないのと同じように、彼にとっては無縁のことなので、それだけが「見ている側」にとっての救いなのかもしれません。

古い映画なので、全編モノクロです。
主演は、ジェームズ・スチュワート。アメリカの良心と言われたスチュワートの朴訥な姿が、感動できます。ただ、二枚目かどうかは正直わからない!(昔の映画はバストアップになることが殆どないので、顔の区別がつかない)
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